透明な影

友人に誘われ、山に登った。といっても、小学生でも走って登れるような低い山だ。余裕っすよ! とふんふん言いながら登り、途中で足を攣った。しばらく蹲ってうんうん唸り、あとはよちよちと登って下りた。思った以上に身体がなまっている。それでも、這いつくばってキノコを撮ったりしていると、何だかひどく平穏な気持ちになる。キノコがたくさん生えていた。イモムシもたくさんのたくっていた。山にはいろいろな音が満ちているし、いろいろな匂いや光があふれている。とはいえ、もちろん、そこはぼくが生きている場所ではないから、身勝手で重みのない意見であることは間違いない。せいぜい安全に余暇を楽しんで、麓の温泉でやれやれ、なんていいつつ汗を流して、風呂上りにトマトジュースを飲んでうぃーっ! とか叫んでお終いでしかない。

一日に二回電車に乗るのにはもう耐えられないので(普段は会社の行き帰りで乗っているけれど、たまのオフくらいはわがままをいいたい)、帰りは麓の宿に泊まりましょうよ、と友人に伝えたら、ちょっと病的だね、と素で返されつつも同意を得られたので、宿を予約した。夜には別の友人も泊まりにだけ合流して、ひさしぶりに気鬱の発作もなく過ごすことができた。

いうまでもなく、山は怖い。それは物理的な危険でもあるし、超越的なものへの畏怖でもある。街は、自分が生きる場所ではあるけれど、やはりおっかない。それは物理的な危険に対するおっかなさでもあるし、訳の分からない「人間」やシステムに対するおっかなさでもある。言葉で表してしまうとそれは山に対する怖さと何が違うのか、ということになるけれど、やはりそれは、まったく別のものだ。ぼくにとって山の怖さは、分からないことが分かる怖さで、街の怖さは、分かることが分からない怖さだ。

木々のなかを歩いていると、そこには正体不明のナニモノかの影が、時折ちらちらと視界を過る。それは影なのだけれど、でも、透明な影だ。街を歩いていると、目の前をあまりにも生々しく物事が行き交う。それはどぎつく着色された影だ。だけれども、それがぼくの生きる場で、それがぼくの生のリアリティだ。そことは別の場所に生きることをただ言葉だけで語る連中を、ぼくは軽蔑する。

会社に行く電車を待っているとき、ふと腕に奇妙な感触を覚え、見れば、そこにはしゃくとりむしが居た。どのみち不良社員で(そもそも社員ですらないが)毎朝重役出勤どころか大名出勤レベル。腕を怪しく振りながらしゃくとりむしに無限軌道を描かせつつ、途中の駅で降りて草叢に放した。

間違いなくぼく自身も化物のような何かでしかない。それでも、道を歩いていると、ふとしたところに穴が開いていて、その向こうに、時折透明な影が見えたりする。

intermission

彼女に何か楽しいことを書くよ、と言ったら、書けるのかな? 書けるのかな? と挑発するようにいわれた。ぼくは挑発に乗りやすい性格だ。楽しい話などいくらでも書けるさ、と答え、フィールドワークに行った彼女が戻ってくるまでに楽しい話を書こうと思ったが、頭痛でぶっ倒れているあいだにもうこんな時間になってしまった。最近、ひたすら良く眠る。起きていると頭痛が激しくなる一方だけれど、眠っているとだいぶましで、それでも頭が痛くて目が覚めたりする。大丈夫、ぼくは楽しい話を書ける。ちょっと待っていてくれれば、いくらでも楽しかった思い出が皮膚の下から湧いて出てくる。アル中の妄想のようだ。

非常勤講師をしている大学から連絡が来て、来年から講義名が変わるという。これでますます首を切られやすくなったが、でも、新しい講義名は嫌いではない。恐らく日本では他にないものなので、大学が求めているような温い講義のふりをしつつ、自分なりにアヴァンギャルドな講義にしていこうと思っている。アヴァンギャルドとか意味が分からないままに使うのがアヴァンギャルドっぽい。意味は分からないけれど。

非常勤講師というのは、けっこう、悪くない。喰っていかなくてはならないという点ではかなり問題ありだが、ぼくのように(自分ではそれほどでもないと思っているのだけれど、客観的にはそう判断するしかない)集団に属することが苦手な駄目人間にとって、気楽は気楽だ。もちろん、講義そのものは全力でやっている。それに、アカデミックな世界というのはほんとうに阿呆らしいもので、肩書がないと相手をしてもらえない。非常勤講師と言っておけば、まあ、その一角にこっそり忍びこんで壁に落書きをしてくるくらいのことはできる。

ただ、身分証明書と呼べるようなものがないのは辛い。運転免許証もなくパスポートの期限も切れてしまったので、いま職質を受ければかなり怪しい人物だ。もっとも、身分証明書などあったところで、ぼくが怪しいことに変わりはないのかもしれない。最近、人相が悪くなってきたのを感じる。

けれども、この前段ボールを買ったのだ。アマゾンで「フェローズ 703バンカーズBox A4ファイル用 黒 3枚パック 内箱 5段積重ね可能 対荷重30kg」というやつ(ちなみに、段ボール一杯に本を詰めるとだいたい30kgになるので、2段重ねしかできない)。山積みの本の埃を払い、ずんずん詰めていく。足りなくなったので追加注文をして、さらにずんずん詰める。再び足りなくなったので追加注文をして、日にち指定で配送を頼み、その日にベルが鳴ったので扉を開くとぼくにとっては望ましくない団体からの使いが居り、クラウドリーフさんは居ますか、と訊ねる。居ませんね、ええ居ませんとも、彼はインドに虎狩りに行って死にました、因果応報です南無阿弥陀仏と答えて扉を閉めて、まっとうな生活がしたいなあと神に祈る。とはいえ神はいないので、そのあとに届いた段ボールに再び本を詰める。ぼくの持ち物といえば、本と、あとは大量のクマのぬいぐるみくらいしかない。本さえ片づけてしまえば、ほんとうに驚くほどシンプルな生活だ。何だか自分の人生の後始末をつけているような気がしないでもないけれど、もちろんそれは諧謔で、本気ではない。まだまだ書きたいことはたくさんあるし、書きたいことがある限り、どれだけ卑怯な手段を使っても、きっと原稿を書いているだろう。

それでも、手持ちの段ボールをすべて使い切り、半分程度は本が片づいたあと、風呂に入りつつふと鏡を眺めると、いつもより少しだけ穏やかな表情をしている自分がいた。糞下らない学会仕事を睡眠時間を削りながら片づけ、それでも仕事が遅いと嫌味をいわれ、自分の部屋をみれば埃だらけになっていて、明らかに体調がおかしいけれど病院に行く時間もない。ひさしぶりに自分の部屋を整理して掃除機をかける。きれいになった部屋で、次に書こうと思っている論文の資料を読みながらお茶を飲む。たったそれだけのことで、少し、ましな人間になった気がする。

あまりひとには言わないけれど、他者が怖くて仕方のないぼくが講義に対しては心底好きだといえるのは、そのなかの一人か二人か、それともゼロ人でも良い、ともかく、昔ぼくがそうであったような誰かさんが居たとして、その子に、生き残る術を伝えたいからだ。それはマニュアルではないし、たぶん、言葉にできるものでもない。だから怪しげな動きと怪しげな語り口で、怪しげな講義をするしかない。けれども、そこには確かに何かがある。その他の生き残れる誰に通じなくても、それはかまわない。

毎日の食卓

ここ数か月、帰りの電車がいつも「××行き最終」とか、そんなふうになっている。よく働いている。他にやることがたくさんあるときに限って仕事も忙しくなる。けれども、こういった下らない忙しさがぼくのリアリティを支えているとも思う。彼女に会う時間が制約されるのは困ったものだけれど、それは残業で手に入る泡銭と気合と根性とストーカー紙一重の粘着気質でどうにかフォローする。そのほかのことは、基本、諦める。

それでも、先日、ひさしぶりに会社を早く上がり、八重洲ブックセンターに立ち寄った。最近は休日に東京に出るにしてもoazoの丸善に行くことが多かったので、ブックセンターはひさしぶりだ。oazoができる前は、三越前から歩いて丸善、明治屋、ブックセンターというのが散歩のお決まりルートだったけれど、どうしてだろうか、いまの日本橋丸善には、それほど魅力が感じられない。oazoの丸善だって似たようなものだけれど、結局、利便性を考えるとそちらになってしまう。明治屋も休業してしまった。

ともかく、八重洲ブックセンターだ。帰りに読む本が欲しかったので、一階の文学をうろうろした。昔とはやはりだいぶ本の並びが変わっている。海外SFの棚が縮小されたように感じる。幻想文学の棚にはバロウズがやけにたくさんある。ぼくが大学のころには、何だかちょっと格好をつけて(どう格好がついていたのかは知らないけれど)バロウズなんてよく読んだけれど、いま思えば、バロウズは空っぽで、文学的な価値などほとんどない。まあ、それはそれで、別に誰も困らないのだろう。

無駄なお金、ということでいえば、そもそもお金自体が無駄なものだ。高いハードカバーを買う気にならなかったのは、だから、その大きさと重さに耐え得るだけの魅力を持った本が見つからなかったからに過ぎない。心惹かれる本は、そもそも、既に持っているか読んだことがあるものばかりだ。結局、五階の文庫本のフロアに行き、村上春樹の東京何とかという短編集を買った。

村上春樹には興味がない。悪く言っているのではなく、単純に趣味ではないというだけだ。けれどいま参加している同人誌で村上春樹のある短編を読まなければならず、ぼくは意外にまじめなので、この機会に他の作品も読んでみようかと思った。内容は、やはり趣味ではなかった。ぼくにとってはバロウズ程度の意味しかなさそうだ。それでも、帰りの電車のなかをやりすごすには十分役立った。

外の世界は、まあ、だいたいにおいてハードすぎる。年をとるにつれて、それはどんどんきびしくなっていく。けれども彼女以外の誰に言っても、「きびしくなるね」というそのほんとうの意味は、伝わらない。

* * *

もうだいぶ前、彼女と、とあるホテルに泊まった。運よく部屋をグレードアップしてもらえ、ぼくらには分不相応な部屋に案内された。そこにはバルコニーのようなスペースがあり、こっそりふたりで頭を覗かせると、ロビーフロアを見下ろすことができる。広くて調度品も高級な部屋のなかも、自分たちの人生には何も関係がないという意味ではフィールドワーク的な面白さがあったけれど、その何もないバルコニーにこっそり隠れ、コンビニで買ったお菓子をもぐもぐもぞもぞと食べていると、何だか莫迦ばかしくも面白く、ふたりでくすくす笑っていた。

毎日の食卓

虫

龍神様

Have a nice day

めずらしく風邪を引いている。薬を飲んで、少しぼんやり。

学会発表の申し込みとか、論文の修正とか。毎日仕事で終電帰りの割には、それとなく何となくケンキュウシャっぽいことをしたりしている。だけれども、そんなことには何の意味もない。学会発表は雑多なジャンルと言われ、投稿論文は査読者を探すのが難しいと遠まわしに愚痴が聴こえてくる。聴こえない声に聴こえないままに耳を済ませ、届かない声を届かないままに大気に流す。それらをすべて、名前と肩書を持った連中の大きな声が塗りつぶしていく。

この世界のリアルを語りたいんだよね。へえ、そうなんだ。そうなんだよ。莫迦っぽいのは知っているさ。

嘘くさいけれど、最近、愛について少し分かった。あれは何だったっけ、そうだ、アガンベンの『到来する共同体』を読んでいたときだ。言葉に書くと伝わらないから、無理をして何千文字も重ねて書くより他にないのだけれど、でもほんとうは、そんなことは下らない。何年も前に、そんな苦痛とか恐怖のことばっかりじゃなくてさ、もっと愛とかについても書きなよ、といわれたことがある。そうですね、そうですね、えへへ、と答えたけれど、でもやっぱり、ぼくは苦痛と恐怖のことを書くより他にない。そして、そのなかにとどまり続けることより他に、愛の表しようも愛の現れようもないじゃないか、とも思う。

大学から講義のアンケート結果が戻ってきた。今回で終わる講義の評価がやけに高くて、嬉しい反面、寂しくもあった。学会発表でやったら即座に帰れといわれるようなスタイルと語り口で、Youtubeで拾ってきた動画を流しながら、リアルって何だろうね、リアルって何だろうねと、その一点だけをみなで考える。スマートフォンを弄っている子も眠っている子もいるけれど、それら全部を含めてそれ自体がリアルだ。

こんな感じさ、そんな感じさ。莫迦っぽいのは知っているさ。

鹿児島の夜、きみは優しいひとだねえと、数年ぶりにお会いした先生にしみじみ言われる。学生からのアンケートに、××先生の優しさが凄く感じられて良かったと書いてあったりもする。咽に指を突っ込んで嘔吐きまくって、ようやく少しだけ落ち着き、ありもしない赦しを得たような錯覚に安堵する。それは全部コピーだ。いまはもう居ない、居る権利があったはずの人びとの表現し得たもののコピーに過ぎない。媒体は、だいたい大概、糞のようなものだ。

議論とやらを強制される。まあ、それは構わない。所詮は暇つぶしのゲームのルールに過ぎない。それでも、最近、妙にしんどい。きみみたいにタフな人間ばかりじゃないんだよ、と言われる。そうだらうそうだらう、とぼんやり思う。きみみたいにナイーヴじゃ社会は成り立たないんだよ、と言われる。そうだらうそうだらう、とぼんやり思う。

屑の、屑による、屑のための人生。ひとりで、いまはもういないきみに語っているときだけは、それでも何だか、妙に楽しい。

ぺかぺか

ひさしぶりの更新。最近は仕事が忙しすぎて、少しばかり調子が狂っています。今年はまっとうな人間になろうと思っていたのですが、どうもなかなか、そううまくはいかず、やるべき多くのものごとが手つかずのままに置き去りになっています。分刻みでやらなければならないと急きたてられることは、実はやる必要のないことだったりします。幾つか、すぐにでも連絡を入れたいひとびとがいるにもかかわらず、心の状態がこんなでは、どうにも言葉のでてきようがありません。とにかく、きょうはひさしぶりにブログを更新してみましょう。ここに言葉を書くというのは、いつだって、どこかで有機交流電燈をぺかぺかと光らせる、見えないけれど確かな確信を与えてくれます。

いまは鹿児島に居るのです。一昨日の夜、仕事が終わったあとに、羽田空港に行きました。既に11時を過ぎており、空港内にはひとの気配がほとんどありません。忙しくてまともに食事をしていなかったので、今晩は豪勢にコンビニ弁当だぜ! などと思っていたのですが、空港内のお店はコンビニも含めすべて閉まっています。しかたがないので自販機で焼きおにぎりを買いました。自販機はレンジで温めるということまでしてくれます。残り時間が120秒、119秒、118秒と減っていきます。薄暗くなった発着場の隅でそのカウントダウンを眺めつつ、何だか奇妙な世界だなあ、とぼんやり感じていました。

早朝の飛行機に乗り、出発し、到着します。到着間際、前の座席の背もたれだけを見つめ、身体の感覚に集中し、自分がいまどのあたりに位置しているのかを感じとろうとします。加速や減速によるGのかかり具合、機体の傾きなどはもちろん分かります。けれども、高度はまったく見当もつきません。登山でもなく、与圧された環境下だから難しくて当然なのかもしれませんが、そもそも人間は急激な高度の変化を感知する必要があるような生物ではないんだよね、とも思いました。急に激しく機体が揺れたあと、だいぶ安定します。さてそろそろ着陸するかしら、などと思っていたら、すでに着陸したあとでした。さすがに、自分の鈍さに目を丸くしつつ、のたのたと飛行機から降りました。

昨日は霧島に行きました。軽石が落ちていたり、硫黄の塊(?)が落ちていたり。とにかく手に取って、しげしげと眺めます。岩の上に這いつくばり、小さな窪みにできた氷を撮ったりします。一緒にいる友人たち以外には、ひとっこひとり見当たりません。先に降りていてと声をかけ、少しだけ残ります。ふと目を引いた小さな小石を、呼吸を深く長く、さらに深く長くしながら、マクロで撮ります。ぺかぺかぺかぺか、何かがどこかで青く光ります。

宿に戻ってからその写真を観れば、やっぱりただの小石が写っているだけです。けれども、それはやっぱり、ただの小石ではないのです。

眼鏡を新調しようと思うんだ。良い考えじゃないかな。

いろいろ書きたい言葉はあったけれど、そんなものはみな消えてしまった。けれども、それでいい。何でもかんでも残そうと思えば残せる。けれども、それはとても寂しいことだ。そうして、消えるものが消えるままにまかせることもまた、寂しいことだ。だけれど、それはほんとうは諦念なのだ。どうにかできる、どうにかしなければと思っているのなら、そこには醜い自己愛しかない。

きょうは相棒とふたりで、新国立美術館にメディア芸術祭とかいうものを観にいった。場所も名前も、ぜんぶ違うかもしれない。ぼくは固有名詞がまともに覚えられないけれど、大した問題ではない。行って、観て、帰ってくることができる。ともかく、メディア芸術祭だ。そうだ、文化庁メディア芸術祭だったかもしれない。「文化庁」「メディア」「芸術」「祭」。いろいろ莫迦かと思うが、そういうぼくだって莫迦なのだ。卑下でも自嘲でもなく、それはそれでリアルだ。

面白いものもあった。糞のようなものもあった。古いものもあった。新しいものは例外を除いてほとんどなかった。個人的には、芸術的には、致命的。的、的、的。所詮はお役所の名を冠したものだ。けれども、隠しようもなく、何かが起きている、その予兆のような、微かな匂いはあったかもしれない。それはそこにあった「作品」よりも、むしろそれを観に来ていたひとびとの総体のうえに漂っていた。かもしれない。違うかもしれない。ただ少なくともその予兆は、良い意味ではない。良い意味だとしたら、むしろそれは救いようがなく悪い意味だ。悪い意味ならそれはリアルで、ぼくはそのリアルが好きだ。

途中で頭痛が始まった。最近、休む時間がなかったし、無理が出たのかもしれない。痛みのあまり身体が動かなくなる。彼女に手を引いてもらって歩く。喫茶店で彼女の声に耳を傾ける。身体も傾ける。まわりの糞のような下品な音に掻き消され、よく聴こえない。寂しいことだ。それならお前はどれだけ上品なのかと問われれば、そうではない。下品で糞で、しかもタフではないというだけだ。それはほんとうにどうしようもないことだ。

少し前、一年ぶりに友人の彫刻家に会った。ずいぶんとたくさんの話をした。彼女を除けば、いまのところ唯一関係が残ったひとだ。ぼくら三人の関係は思えば奇妙なもので、誰かひとりが欠けてもアンバランスになるかもしれない。彼の家で三人で話すのは、数少ない、周囲の音に煩わされずに済む空間であり時間だ。何かやりなよ、何かやろうよ、と彼がいう。漠然としているけれど、その問いの意味は途轍もなくシリアスでシビアでリアルだ。

査読に応答した論文を提出して、受理された。しばらくして読み返してみるとと、自分でも何を書いているのかよく分からない。けれどもまあ、そうじゃねえんだよ、という叫びだけはあるような気がする。

所属している研究会誌に掲載する見知らぬ誰かさんたちの原稿を、義理で校正している。もう少ししたら、本業の学会でも校正が始まる。言葉に対する愛のない連中の言葉を校正するという絶望的な作業に絶望する。愛のない言葉を幾ら直したところで、それは綺麗な糞を作るだけのことでしかない。彼ら/彼女らの言葉を書くことへの必然性がどこにあるのか分からず、それが途轍もない恐怖を生む。それは途轍もない、途轍もない、恐怖だ。

recreationっていうのは恐ろしい言葉だ。re-creation。その恐ろしさは畏怖であり、そこには確かにぼくらを魅了するものがある。けれども、ぼくはやはりそれを断る。ぼくはこの世界の糞のような、恐怖に塗れたリアルさに惹かれる。それが何なのか、言葉にしたい。

人間の匂い

大掃除の合間に辞書の原稿を書いています。けれども老骨に鞭を打ちすぎたのか、ここ数日の労働ですっかり腰を痛めてしまいました。原稿のバージョンを上げるたびにレーザープリンタを部屋の隅から持ち出してきて印刷をするのですが、変な拳法の使い手のように身体をそろそろとくねらせ、たった一枚プリントアウトし、律儀にまたそろそろとプリンタを部屋の隅に持っていきます。

* * *

投稿論文の査読が戻ってきました。ひとりの査読者の査読コメントはどうしようもない質でしたが、もうひとりの査読者はぼくの論文本体に匹敵するくらいの分量のコメントを書いてくれ、読んでいて楽しいものでした。基本、掲載は確定しているのですが、できる限りコメントに応答できるよう、期日まで手を入れていこうと思います。

何だかんだで、それなりに研究をしているような気がします。何だかんだで、それなりに哲学をやっているような気がします。仕事先からはいつまでこんなふらふらした生活をしているのかという圧力を受けますし、老後どころか五年後のことを考えれば会社の言っていることの方が正しいのは分かります。最近ますます、自分のなかにある「明るい自暴自棄」みたいなものが大きくなっているのを感じます。まあ、それはそれで仕方のないことです。明るい自己肯定なんて薄気味の悪いものに比べれば、数段マシなことには違いありません。

資本主義市場経済システムと情報技術と、人間を抽象化してしまうという点において何が違うの、と訊ねられ、それ自体で完全に自足し抽象化された空間でぐるぐると渦を巻き溶けていく貨幣=金融のイメージが湧きます。それは人間を苗床にして生まれた何かなのですが、けれどもその美しいまでに純化されたデータの渦に、もはやいかなる人間の痕跡も残されてはいません。くんくんくんくん、犬のように利く鼻で人間の匂いを辿り、やっぱり居ないなと確認して巣穴に戻ります。

だけれども、情報技術がコミュニケーションと結びついている限り、そこには必ず人間の匂いが残されています。無論、それは良い匂いなどではなく反吐が出そうになるものです。情報技術なんていうものもまあ、阿呆な技術論者でもない限り誰もが知っているように、糞のようなものです。糞のなかから胸の悪くなる匂いを探しだす。その嗅覚のない人間があまりにも多すぎます。悪趣味なようですが、決してそんなことはありません。何故ならそこで問われているのは、単に在るか無いか、ただそれだけだからです。

どんなに糞でも、そこに人間の匂いがある限り、それは糞のような人間の世界であり、糞のような人間が存在しています。けれど、最近、徐々に人間の匂いがしない世界が拡大してきているのを感じるのです。人間だったものから、生命を持たない無数の生命が羽化し、飛び立っていきます。

* * *

腰が痛くて眠れないまま、布団のなかで奇妙に丸まりつつ、来年の研究テーマがどこからか降りてくるのをじっと待ちます。自分でもある程度納得のいく論文としては、存在論で3本、情報論で3本、他者について考えてきました。これからしばらくは芸術にシフトしつつ、人間の匂いとしての他者が消え始めている「芸術」について、つらつらと考えていこうかななどと夢想しています。