9月の一ヶ月間で、著者校正や学会発表用のレジュメや投稿論文や同人誌の原稿やらで、何だかんだで十万文字を超える原稿を書き、手を入れ、部屋のなかで踊りながら音読して、音読しながら踊り、踊り、踊り、踊っていた。さすがに少し空っぽになり、しばらくぼんやりしていた。いまはまた幾冊かの本を読み始めた。入力、処理、出力。繰り返して繰り返して、やがて寿命を迎える。存在するものはみなすべて同じだ。論文を書きながら聴いていたのは主にiLLで、そのリズムを織り込んでいたからきっと査読で落ちるだろう。どのみちぼくにはリズム感も音感もない。
日曜日にさ、と彼女に言われて、ああ、あの話かな、と思ったけれどそうではなく、ブログを書きなよ、といわれる。明るい話を。まかせてほしい、明るい話ならいくらでもある。
・・・何もなかった。特に苦しいことも悲しいことも楽しいことも嬉しいこともない。同人誌の原稿はなかなか良く書けた気がするので、機会があれば読んでいただければ幸い。これほど特徴のない文体もそうはないので、もしどこかで手に取ることがあれば、きっと分かると思う。論文も、いや論文にもなっていないかもしれないけれど、そうだこれ論文になっていないや。でも、けっこう面白いものが書けたと思う。これも、もしどこかの本屋できみの目に触れることがあれば、きっと伝わると思う。まったく同じリズム。まったく同じ文体。無色透明無害無個性無味無臭。でも、そこに誇りがあったりする。
仕事では、ここ数週間ずっとパルス出力のロジックを組んでいる。毎日何十万発、何百万発というパルスを流し、数を合わせる。もともと細かな計算に向いている性格ではないので、こういうのはなかなかに苦痛だ。だからもう聖霊が降りてくるのを待つ。ペンテコステ。頭の中に組んだロジックを、仮想のパルスの奔流が流れ落ちていく。帰りの電車のなかで論文について考える。切り替えがうまくいかず、口からパルスが流れ出す。家に帰って音楽を聴きながら踊りながらパルスの粒子を髪の毛から振り落とし、エアバラライカを狂ったようにかき鳴らしつつ論文を書く。こんな生活を続けるのはもう不可能に近いし、何も無理をしてまで続けるようなことでもない。
書くことが好きだ。他に、特に好きなことはない。いや、ただ生きているだけでも、すべてが楽しい。だから、別に、特に、何かが必要なわけではない。だからといって空っぽなわけではない。すべての瞬間瞬間がある。日々を生きること。平凡な奇跡の連続。
彼女が怪我をした動物を見つけて連れて帰ってきて、手当をして、またすぐに放した。元気になってくれれば良いけれど、ある一線を超えたら、もうそれはぼくらの手を離れてしまったことだ。彼女を見ていると、そういう、自然なバランスの良さがある。
そういうとき、ぼくは餌やりだけをみても、ものの役に立たない。だからといって、自分の性格に落ちこんだりなんてことはない。昔から、身体も性格も、所詮は乗り物だと思っていた。できが良かろうが悪かろうが、とにかくこの世界を走る限りにおいて、それに乗った何か大きな魂が喜んでいる。それはぼくではないけれど、でもぼくが感じることの根本にある何かだ。それはきっと真の意味で楽しいということで、真の意味で明るい話で、でもこの生活自体がどうということではない。
明日はとある大学の学会に少しだけ顔を出さなければならない。どう考えても睡眠時間が足りないが、眠れないので仕方がない。仕方がないことは、それは、もうほんとうに仕方がない。ぼくらはそれに折りあっていくしかない。それでも、最近、あまりにひどい悪夢を見なくなった。誕生日に彼女が手作りのドリームキャッチャーをくれた。きっとそれのおかげだろう。
ドリームキャッチャーにとらえられた悪夢はどこへ行くのかな、と彼女に訊ねた。分解されるんだよ、と彼女は答えた。そうなのかな、何だかあまりに自然科学。もっとこう、物語があるんじゃないかな、とも一瞬思ったけれど、案外、分解というのが、いちばん自然なことなのかもしれない。