レジュメを書かなくてはならないのだけれど、なかなか気持ちが乗ってこない。頭のなかにはしゃべるべきことがたくさんあるので、ほんとうは別にレジュメなんていらないのだけれど、誰かが「おみやげ感」がある方が良いと言っていて、ぼくもそれはそう思う。講義でも公開講座でも何でも良いのだけれど、何か持って帰るものがあるというのは、何となくお得な気持ちになる。帰りの電車のなかで読むものができる。読むものがあると発狂しないですむ。読むもの。
先日、彼女とフィリップ・ジャンティを観にいった。面白かったか面白くなかったかといえば、ぼくは面白くなかった。ZIGMUND FOLLIES以降、何だか、物語が妙に分かりやすくなってしまったように思える。でも、それはぼくの感性が腐ってしまったからかもしれない。ともかく、劇を観にいったりすると、ぼくは劇場においてある他の公演のチラシ(フライヤーというのか。何だか格好良いね)をもらうのが好きだ。
既に人混みに耐えられなくなっていて、ダンゴ虫のようにいちばん前の座席で丸まっていると、彼女がフライヤーをぼくの分も持ってきてくれた。まだまだ生きなきゃだめだよね、と、そういうときに思う。劇の始まる前に、近くのビルの前で、彼女と夕食代わりのドーナッツを食べていた。ぼくらの前で、二人のキャッチが何やら何かを話し込んでいた。
そう、フライヤーの話だ。お土産。彼女と出会って、映画や劇や音楽を視に、聴きに出かけるようになって、そのすべてでぼくはたくさんのフライヤーを持ち帰ってきた。それはいま、大きな段ボール箱一杯に溜まっている。いつかさ、お互いどうにかこうにか年をとれたときに、昔こんなものをふたりで観にいったよね、と思い出話をするときのためにこれを捨てないでいるんだよ、と彼女に言うと、彼女が笑う。
こう見えてぼくは長生きをするであろう人間だ。先のことは分からない? そんなのはあたりまえだ。それでもぼくは長生きをする。なぜなら、それが何の特徴ももたないぼくの才能だからだ。目立たず、ひっそりと平均寿命をまっとうする。
少ない、というよりもほとんどない時間をむりやりやりくりし、所属している学会のパンフレットを作製した。自分にデザインの能力など欠片もないということは知っているので、極力、自分を押さえ、どこにでもあるような無難な構成を小奇麗にまとめる。絶望的に小奇麗なパンフレットが出来上がる。それでも、貰ってくれれば、帰りの電車で、2駅分くらいの時間つぶしにはなるであろうものにはなったと思う。
特に何の才能もないままに、それでもなぜかしっかり社会から落伍してこの年まで生きてきて、それでもなぜか、ずいぶんとたくさん、尊敬できる人間を知ることができた。たくさん? 二人か三人か、そんなことは知らない。でも、おかげで、自分には何の才能もないことを知ることができた。それは自虐でも何でもなく、素晴らしいことだ。
ひさしぶりに帰国した(彼にとってはすでに帰国ではないのだろうが)彫刻家の友人と、ずいぶん話をした。そのとき、彼に、きみの撮る写真はきれいだね、と言われた。それは純粋に、誰でも撮れる、カメラの優れた機能をほめる言葉だ。それはとてもよく分かる。その「分かる」ということがぼくの才能だ。大抵のことは分かる。大抵のことは真似ることができる。大抵のことは、だいたい、それで事足りる。そしてその先に、事足りないことがある、ということが見えてくる。
先日投稿した論文、自分のなかでは最高傑作だと思っている。テーマ的に、というよりも文体として。見事なまでに焦点が定まり、ほとんど異界の構造物のようにロジックが美しい曲線を描いている。だけれど、実はそれは優れた論文などではない。そもそも論文ではない。ただの物語だ。でも、それでいいじゃないか。もし査読に通れば、それは少なくとも、正統でまっとうでお見事な論文ばかりが並んだジャーナルのなかで、楽しく気軽に読んでもらえる「おみやげ感」的な何かにはなる。