お盆休みなのに、頭痛と吐き気でまる一日を潰しました。癪なので、ブログを書きましょう。書くのです。頭がまったく働いていませんが、こういうときに書いた文章をあとで読み返してみると、意外に普段と変わらなかったりします。要するに、普段から頭を使っていないということですね。
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大学で「情報社会が~」とか喋っていてしばしば感じるのは、学生さんたちの世代における、監視カメラに対する肯定感の強さです(否定感の強さではない)。正しい生活を送っている自分たちにとって、監視されることのデメリットはなく、むしろ悪いものからシステムが守ってくれるための心強い手段のひとつである、というのです。別段、それ自体はどうでも良いことです。監視社会は確かに怖ろしいものですが、既に、監視社会に対する直接的な批判自体はあまりに素朴で手遅れなものでしかありません。
これはあまり同意を得られないのですが、これからは、SNS、Lifelogと監視カメラ(といまぼくらが呼んでいるもの)が一体化したサービスが大きくなってくるでしょう。ああ、こういう、根拠のない怪しい話は楽しいなあ。
例えばどこかへお出かけしたとき、いまならiPhoneとかの内蔵カメラで写真を撮って、どこに行ったとか何を食べたとか誰と居たとかSNSに投稿するわけです。でも、スマートフォンで撮影できる写真は、基本、自画撮りか自分の観ている光景を別々に撮るしかありません(360°すべてを撮影するようなギミックもありますが、これも結局撮影者が中心にならざるを得ないという制限があります)。ぼくらがLifelogに望んでいるのは、この世界とこの世界のなかで生きているこのぼく、その双方が完全に統合されたものの永遠の記録ですから、自分の姿と自分の視界が分離した記録では不十分です。しかもその記録は、無意識レベルでなされなければなりません。わざわざスマートフォンを取り出して撮影アプリを立ち上げて取りたいものをフレームに入れて、などというのはあまりに自覚的で、意識のリソースを必要とします。
そこで、街中にはりめぐらされた監視カメラ網が役立ちます。とはいえ、それは現在よりもさらに密に配置され、高機能化された監視カメラ網です。それはサービスを提供する各企業によって、カバー率何%などと謳われるでしょう(ちょうど現在の携帯電話会社における人口カバー率のように)。そしてぼくらはそのサービスに加入し、GPSとRFIDでユーザ認証され、街中を歩くぼくら自身の姿の動画のアーカイブを手に入れることができます。プライバシー保護のため、非ユーザの姿にはモザイクがかけられるかもしれません。公開設定によっては、誰とでも、あるいはサービス利用者と、それとも友人のみと、自分の行動記録アーカイブを共有できます。自分が観た光景は、Google glass(そしてそれがさらに洗練されたウェアラブルデバイス)などによって記録されることになります。この動画もまた同様のサービス上で統合され、共有されるでしょう。すると、いかに密であれ固定点でしかない監視カメラだけではなく、路を往く同じサービスの利用者同士が互いに撮影し合った、撮影点がアクティブに変化する動画もまた、自らのLifelogとして利用されることになります。
こんなことに何の意味があるのかと思うのであれば、たぶん、あなたは「正常」です。けれども、「正常」であれば、そもそもブログもTwitterもFacebookもやりはしないでしょう。ぼくは、そういった世界に対して嫌悪感を抱くと同時に、それに惹かれる(恐らく人間にとって根源的な)欲求も十分に分かります。
そしてそうなったとき、もはやそこでは、パブリックとプライベート、デジタルと生、記録と記憶、そういった、いまぼくらが想定している(虚構としての)二元性など、まったく無意味なものになっています。それが、新しい現実のかたちです。
このようなサービスを実現するための技術は、既に目新しいものではまったくありません。法的云々な問題を表面的、形式的に引き起こしつつ、けれども必ずこのサービスは社会に浸透していきます。そしてやがて、そんなサービスがあることさえ(いまぼくらがGPSのことをさほど意識化しないままに暮らしているように)ぼくらは忘れ、忘れたままに日常生活としてそのなかを生きていくことになるでしょう。
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さて、実はこんな話はどうでも良く、ぼくが書きたいのはブレア・ウィッチ・プロジェクトに対する怒りなのです。なぜ激しい頭痛と吐き気のなかでこんな下らないことを書いているのか自分でもよく分からないのですが、全身をつつむ悪寒のなかから発せられる言葉にこそ何らかの真理があるかもしれない。ないかもしれない。いやないですね。
お盆休みは特に楽しいイベントもなく、鬱々と過ごすわけです。それでは寂しいのでホラーDVDを観たりして独りでうひひ、とか笑って、おれの休日、超充実! などと何故かラップ調で叫んだりします。DVDは古本屋で買った安売りのやつ。それで、RECとかクローバー・フィールドとかダイアリー・オブ・ザ・デッドとか、そんなのを観たわけです。観すぎぃ!
で、観ていて、あまりの説得力のなさに発狂しそうになるのですが、そんな状況でビデオカメラ構えて撮影するわけないだろ! みたいなシーンが多すぎるのです。無論、物語はどんな虚構であってもかまわないのですが、虚構には虚構なりの必然性や正当性がなければなりません。あたりまえですね。何だかそこのところがあまりになおざりにされています。動画を撮影している、という自覚的な行為に対する動機づけがなさすぎる。その不整合さにばかり目が行ってしまって、もはやゾンビやモンスターが出てくると「邪魔するな、いま考えてんだよ!」と訳の分からない逆切れをしたりしてしまいます。YouTubeで怖い系の動画を観ても似たようなもののオンパレードで、もういやんなっちゃう。何かね、低コストでハイリターンを目指すぜ! みたいな、製作者のさもしい根性が透けて見えてしまうのです。
で、ブレアウィッチこそ、ホラー映画にこういう潮流をもたらした害悪の根源だとぼくは思うのです。とかいって、実は本家(だと勝手に思っている)ブレアウィッチを観たことがないので、これもう完全にいちゃもんですね。
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さて、いつも変なことばかり書いている私ですが、いよいよほんとうに何を書いているのか分からなくなってきました。しかしそうではありません。きちんと筋は繋がっています。ブレアウィッチ的なものに対する違和感というのは、撮影方法が「自覚的に撮影しなければならない」ハンディカムという数十年昔からある旧世代のテクノロジーを使うことから生まれています。そうであるのなら、記録することに対する自覚的、能動的コストを限りなく下げていく、先に書いたようなサービスが一般化した社会のなかで撮られるホラー映画であれば、その違和感はなくなるのではないでしょうか。ただ、それは単に超越的な視点によって描かれる旧来の技法に戻る、ということではありません。消失するのはあくまで「撮影すること」に対する自覚性であって、「撮影されていること」はつねに最優先事項としてぼくらのなかにあります。そうでなければ、ぼくらはこの肥大化した承認欲求を満たすことなどできないからです。
けれども、放っておけば、そんな撮影記録など、無数の動画アーカイブの海に消えてしまってお終いです。ですから結果はどうであれ(大抵はうまくいかないでしょう)、ぼくらはその大海に沈まないように、突拍子もない行動をとり続けるしかありません。そうであれば、ゾンビとの対決はもってこいのシチュエーションとなるでしょう。
というわけで、次世代のホラームービーは、
撮影することを意識していない、けれど撮影されていることは呼吸のように必須である人類が、ただ承認欲求を満たすためだけに、常軌を逸した行動を以てゾンビやモンスターと対峙する
ようなものになるのです。
あまりに無茶苦茶な内容ですが、これもすべて頭痛のせいです。それではみなさんさようなら。