何しろ忙しいです。体調がよくならないままに仕事はまったく終わらず、土日も何もなしにプログラムを組み続けています。けれども最初のころの憂鬱さはなくなり、いまはどことなく穏やかな気持ちで、日常感覚が戻ってきたようにも思います。恐らくそれは、毎日最低限決めた時間は原稿について考えることにしているからということもあるかもしれません。プログラミング自体は楽しいけれどやはり仕事は仕事で、仕上がらないとまずいしやばい。食っていけるかどうかに直接かかわるので気持ちも落ち込みます。でも原稿は、プログラミングと同じように書くことではあるけれどやはり違いはあり、絶対にできる、俺にしかできない、という確信があるのです。それは楽しいというよりも強迫観念なのですが、でも、在ることへの確信って結局は強迫観念しかあり得ないじゃないですか。そうでもないか。ともかく、仕事がやばいときは会社近くのビジネスホテルに泊まります。本当にお世話になっているし好きなホテルなのですが、建物はかなり老朽化していて、一晩中水滴の落ちる音を聴きながらそこでもプログラミングをし続けます。そして時間がくると頭を切り替え原稿のことを考えたりします。いえ、切り替える必要はそれほどなく、日常生活の延長に位置づけられないことは自分のなかの哲学にはしたくないというのがあるので、「まあね」とか言っておもむろに考え始めるだけです。
さて、あ、この「さて」って言葉良いですね。さて、ぼくは自己愛というものが本当に嫌いです。憎んでいると言っても良い。激しい憎悪。けれどもこの自己愛を通してしか、恐らくぼくらは自己を放擲するには至れない。だから難しい……。難しいけれども……。ちょっと突然変な話をしますが、といってもこのブログ変な話しかしていない気もしますが、ぼくは物心ついてから、神社やお寺に行ってお賽銭をお賽銭箱に入れて何かお願いするときに、世界平和以外を願ったことがないのです。いや嘘でしょ、とお思いになるかもしれませんが、いつも書いているようにこのブログ「物語」なので、まあそんな感じでお願いいたします。その上で、世界平和しか願ったことがない。といっても5円とか10円とか、そんなので世界平和を願われたって神仏も困るでしょう。だから別段、それが叶わないからどうこうということではないのです。これもまた強迫観念のお話。しかもこの男口が悪いので「できるもんならやってみろってんだいこんちくしょう!」とか祈っている。これじゃあ無理でしょう。というよりそもそも世界平和って何でしょうね。漠然とは思い浮かべられるかもしれませんが、具体的に具体的に……と突き詰めていくとどうも良く分からない。分からないままではいずれにせよ実現はできません。
ともかく、自己愛です。ぼくは自己愛が嫌いです。もうね、本当に嫌い。そして話は突然変わるのですが、サン・テグジュペリの『人間の土地』で印象深い挿話があります。ぼく自身は如何なる理由があれ戦争に反対する人間ですが、以下引用。
リフ戦争の当時、二つの不帰順山岳のあいだに位した前線陣地の指揮に当っていたあの士官のことを考えてみたまえ。彼はある晩、西方の山からおりてきた軍使の一行を迎えた。型のごとく、ともにお茶を飲んでいると、銃声が聞こえだした。東方の山岳地帯の種族が、この前線陣地を攻撃してきたのであった。これと戦うために、退去を要求する大尉に、敵軍使の一行は答えたものだ、〈今日、自分たちは、貴官の客人だ。貴官を見捨て去ることは神が許さない……〉彼らは、大尉の部下に加わって、この陣地を救ったうえで、はじめて自分たちの鷲の巣へと登っていった。
サン・テグジュペリ『人間の土地』堀口大學訳、新潮文庫、pp.191-192
ところが、今度は、自分たちが、この陣地を攻撃しようと準備のなった前日、彼らは、大尉のもとに軍使を送り、
――先の夜、われらは貴官をお援けした……」
――そのとおりだ……」
――われらは、貴官のために、小銃弾三百発を放った……」
――そのとおりだ……」
――それをわれらに返してもらえまいか」
すると、気位の高い大尉は、相手の気高さのゆえに、自分が受けた利益を利用しかねた。彼は自分に向かって使われるであろう弾薬を、返してやった。
また別のお話。大学時代、ぼくは常に人形劇の部室でうだうだして、音楽を聴いたり本を読んだりしていました。そしてそのまま中退することになるのですが、だからいま非常勤で講義をしていて、せこい手段で単位を取ろうとする受講生をみると、どうにも白けます。無論それはひとそれぞれで、ぼくの知ったことではありません。だけれども、ぼくはそういう醜さは嫌だ。まあいいや、大学時代の話です。で、そうこうしていると講義を終えた他の部員たちが部室に戻ってきて、そうしてまたうだうだと話をしたりする。そんなある日、いわゆるハリウッド映画について盛り上がったことがありました。といっても少人数のサークルだったのでジミジミとした盛り上がりでしたが。それは、派手なアクションシーンを観ても、そこで注目されることもなく死んでいく無名の脇役たちのことを考えるとどうしても映画に没入できない、というよりも考えてしまうので没入できない、ですね。そういうことをいう子がいました。これもまた強迫観念のお話です。ぼくはその感覚が凄く良く分かりました。ただ、ぼく自身は倫理を外付けドライブにしているような人間なので、だいたいどんなことでも「まあね」で済ませられる。もし本当にそれを脅迫観念として持っているとすると、これはちょっと人生ハードだろうなと、若く浅薄なぼくなりに懸念しました。そして実際、それはその子にとって本当に強迫観念だった。しんどいですよね。
サン・テグジュペリのお話も、もしそういった観点から見るとちょっと待ってよ、となるわけです。いや大尉は自分の美意識に従って生きたり死んだりできるから良いけどさ、下っ端の兵士からしたらどうなのよ、と。彼らからすれば銃弾なんて返さないで、いやっほう! みたいに、いやそこまでではなくて良いけれど三百発をこちらの利点として使った方が絶対に良い。生き残れる確率を上げられるのだから。
でもまあ、当然ですが、そういう話ではないのです。というよりも、その子が話していたその感覚、その根本にあるものにこそつながるものであって。「大尉」のなかにあるのは美意識を優先する自己とかそれによって犠牲となる他者ではなく、美意識それ自体です。例えばヨブ記について考えてみましょう。またヨブ記。この子はほんとうにヨブ記さえあれば機嫌よく笑っていてねぇ。で、ヨブ記の最初の方で、いきなりヨブの子どもたちが死ぬ。もう、彼ら/彼女らからしたら冗談ではないですよね。その後なんやかんやあってヨブの信仰が完成したとか、いや知るかいな、となります。だけれども、これもまたそういう話ではない。そこではある種の普遍性を帯びた「この私」の義、そのものが問われている。究極まで突き詰め透明になった、人間で在るということの条件そのもの。そこでは、だから、「このわたしが~」とか「ほかのだれかが~」とか、そういうものが潜り込む余地はない。
この場合、そこなわれる者、傷つく者は、個人ではなく、人類とでもいうような、何者かだ。
同書、p.204
そう、だから、そこまで行くとぼくらはきっと誰にも見られず、いや見られていても一切顧みられることなく殺されていく誰かについて、誰かとしてではなく考えることができるようになるかもしれません。毎回思うのですが、何を言っているのか良く分かりませんね。そしてこれも毎回言っていますが、それで良いんです。分かることを分かるように言うのは、それはロジックでしかありません。ぼく自身は、ぼくなりの形で強迫観念と付き合えています。だからいまもヘラヘラ笑って生きている。もしいま最初の大学時代に戻れるのであれば、もう少しましな、同意の相槌だけでもなくロジカルなだけでもない応答が、できたかもしれません。だけれどもまあ……、それもまた、ぼくにとっての強迫観念のひとつでしかないのでしょう。
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あ、何だか雰囲気暗いですね。そんなことはなくて、もう滅茶苦茶明るいです。滅茶苦茶です。眩しくて何も見えない。坂本龍一の「ハートビート」っていうアルバムがありまして、これ1991年ですよ。33年前。自分で書いてちょっとびっくりしました。このアルバムも(発売後数年経っていましたが)当時部室でよく聴いていました。名盤。で、このなかに「Tainai Kaiki」という曲があって、これは本当に名曲。ぜひ聴いてくださいと言いたいところですが、いま簡単に聴けるのってデヴィッド・シルヴィアン版で、これはぜんぜん良くない。というか悪い。もう、デヴィッド・シルヴィアン特有の「俺の声を聴け、聴け、聴け!」という、そのエゴイスティックな押し売り感しか聴こえない。ぼくは「戦場のメリークリスマス」って曲も映画も大嫌いですが、それにしてもそれに歌詞をつけた”Forbidden Colours”とか聴けたもんじゃないです。阿呆か。あ、やばい、自己愛の話に戻ってしまう。
それでですね、このオリジナルの方の「Tainai Kaiki」、歌が凄く良いんですよ。坂本龍一特有の音痴なのか? みたいな、でも必死な感じで、歌とも言えない、リンボーに取り残された誰かさんの独り言のような……、と思って数十年生きてきて、つい最近知ったのですが、このヴォーカル、アート・リンゼイでした。え、これ、先入観なしで坂本龍一じゃないって分かる方いらっしゃいますか? ぼくはいまでも分からない……。アート・リンゼイだと思って聴いても聴こえない……。ぼくにはもう何も分からない……。