いまぼくは、非常勤で技術者倫理を教えています。教えているって嫌な言い方ですね……。とはいえお金をもらっている以上職務としては教えないといけない。一緒に考えようっていうのも何だかピンとこないし、未だに自分のスタンスが良く分からないままにやっています。成績をつけるというのも意味が分からないし。大学ってもっと自由なところで良いと思うのですが、現実的には難しいです。あと、卑怯な手段で単位を取ろうとする学生は、やはり醜い。中退すればいいのにと、悪意ではなく単純にそう思います。恐らくそれがいろいろな意味で最後の機会だから。
ともあれ、技術者倫理というとけっこう枠が決まっていて楽じゃな~い? みたいなイメージがありますが、いやあるのかな、けれどいちばん最初にプロフェッションについて話すとき、いつも苦労するところがあります。それはプロフェッションとは何かというお話。ぼくはナイチンゲールの〝Notes on Nursing for the Labouring Classes〟からの引用、といっても『誇り高い技術者になろう[第二版]』からの孫引きですが、次の箇所を使います。
何かについて「職業的使命感」(calling)を感じるとはどういう状態だろうか。それは、何が正しく何が最善かについての自分自身の高い理念(high idea)を満足させるということであって、それをやらないと誰かに「見咎められる」からやる、というようなものではないのではないか。この情熱こそ、靴屋から彫刻家にいたるまでのあらゆる人が、適切に「職業的使命感」に従うために持っていなくてはならないものではないか。(中略)そして、もし看護師が、自分自身の理念実現のために患者の面倒を見るのでなければ、外からどんなに言っても彼女にそう思わせることはできないだろう。
黒田光太郎、戸田山和久、伊勢田哲治『誇り高い技術者になろう[第二版]』名古屋大学出版会、2012
この教科書とても良いので、技術者倫理をやるときにはお勧めです。ともあれ、ここでナイチンゲールが〝calling〟と言っているものを、訳者の戸田山氏は「職業的使命感」と訳している。これはまったくその通りなのですが、ナイチンゲール的にはストレートに考えれば「召命」です。しかしこれでは多くの日本人には直感的に伝わらない。だけれどもぼく自身にとっては、この「召命」が決定的に重要になります。何度も書いていることですが、ぼく自身は信仰の対極に位置するような人間ですけれども……。
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少し前にひさびさに研究仲間とのんびり話をする機会があり、そこで音楽の話が出ました。彼はもともとバンドでピアノをやっていて、いまでも演奏会をやっているという面白いひとなのですが、そこでカール・リヒターのトッカータとフーガ二短調の話が出たときに、確かに彼の演奏には神が――といってもぼくらはともにクリスチャンではないのでその空白を通してしかそれを知ることができないにしても――存在しているよねと、お互い深く頷く場面がありました。
これはなかなか普段ひとに伝わることがなくて、だいたいぼくが博士課程のときにいた研究室なんてマルクスがベースですから、っていうかぼくは(中退しなかった)二つ目の大学は神学士なので何でマルクス系なんかに行ったのだろう。とてもとても良い研究室でしたけれども。そう、だから伝わる必要はない。でも伝わるとやはり面白い。リヒターの演奏には神が居る。間接的にぼくはそれを感じる。けれどもそれは、リヒターを、彼の演奏を通して間接的にということではなくて、ぼくには決して知ることができないそれそのものがそこに顕現していることを、繰り返しますがその空白を通して直接にということです。Karl Richter、Toccata & Fugue In D Minorで検索していただければ、どこかで動画が見られるかもしれません。真に驚くべき存在。
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他方で、ぼく自身を含めもし信仰がないのであれば、callingはやはりただ電話の呼び出し音でしかない。そしてそれでもなお、リヒターが信仰の極北としてその演奏を遺したように、神を――いうまでもなくこの場合の神とはアニミズムとはまったく別の、峻厳苛烈な唯一神を指しますが――持たない誰かもまた、人間としての何らかの極北に到達することはできます。もしそこに絶対的な空白との、魂を懸/賭けた闘争があるのなら、そこにはやはり途轍もない美と畏怖が生まれるでしょう。
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と、そこまで深刻な話でなくても単に「この音楽良いよね!」ということでもぜんぜん問題なくて、たまたまひさしぶりに坂本龍一のアルバム『左うでの夢』を聴いていたら、「あ、これcallingじゃん!」というのがあったので、そのお話を。『左うでの夢』は1981年のアルバム。もう40年以上昔のものとは思えない、時代を超越した音楽です。と同時に、この時代のテクノの音って凄く懐かしい。いまこういう音ってないのではないでしょうか。あ、いかん、話がずれる病が。このアルバムに「Tell’em To Me」という曲があって、この歌詞、昔ぼくは凄く怖かった。曲調も怖いのですが、当時ぼくはchrysanthemumという単語を知りませんでした。歌詞も知らずただあやふやに聴き取るだけだったので、坂本龍一の歌う「yellow chrysanthemum」というのを、何か全身黄色い毛がもさもさ生えているイエティみたいな生き物の母親(しかもそれは母親的なものの元型でさえあるような……)だと思っていました。少し離れたところに山脈の見える茫漠とした荒野、そこに立つ一軒の家。ふと窓の外を眺めるとイエローなchrysanteマムがニヤニヤ笑ってこちらを覗いている。そしてただひたすら、彼女の物語を異言語で物語っている。途轍もない怖さです。あ、ぜひ、正しい歌詞を探してみてください。
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ともかく、『左うでの夢』、名盤ですがちょっと怖い感じの曲も含まれています。電話に話を戻すと5曲目の「Relâche」。ノリが良い曲にも感じますが、けれども……。
ここでは電話の呼び出し音が背後で断続的に鳴り続け、最後はそれで終わる。誰も居ない部屋、たぶん殺風景な、そこでただ鳴り続ける呼び出し音。これもまたちょっと怖い感じの曲で、電話の本質が感じられる気がするのです。それは誰かと誰かをつなぐものではなくて、むしろその断絶を表すためにこそ鳴り続けるものだという……。
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次は細野晴臣の『S・F・X』。これは1984年。これもまた凄いアルバムです。YMOの『BGM』や『テクノデリック』が好きであれば『S・F・X』と『フィルハーモニー』(1982)はお勧め。でもそれが好きな人ならお勧めするまでもなく持っていますのであまり意味がない。で、このなかの「3・6・9」でも呼び出し音が鳴り続けています。
追記:呼び出し音じゃないじゃん! これ掛ける側のジーコロ音だ! いやそれも違うか? ぼくにはもう何も分からない……。まあいいや。
これは坂本龍一の不気味な感じとはまた違って、恐怖と狂気に満ちた呼び出し音。そしてそれがだんだんエスカレートしていきます。この曲は藤幡正樹がSIGGRAPHで展示した映像作品につけた音楽とのことで、ぼくは観たことがないのでいつかどこかで探したいと思っています。ぼくがこの曲を持っているのは上記のように『S・F・X』で、アルバムジャケットはこんな感じ。大事に扱っているのですが、ぼくの長い人生と一緒にあちこちに行ったのでだいぶぼろっちくなってしまった……。いつかもっと年をとって引退したら、こういうのも手入れをしたいなあ。
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最後はやはり高橋幸宏でしょう。これはちょっと新しくて1992年のアルバム『NEUROMANTIC』から。これまた極めて傑作です。まさに(ギブスンの『ニューロマンサー』の解説にある言葉を借りれば)ニュー・ロマンスな時代を体現したような、人間的なロマンティックさとテクノロジーが見事に美しく融合した、他に類を見ない音楽になっています。その3曲目、「Connection」。
とてもポップで、高橋幸宏らしい切なさがある曲です。ここでの電話の呼び出し音は坂本龍一や細野晴臣のそれとは異なり、あくまで普通の生活を送る普通の人が好きな人に電話をして、どうかつながっておくれ、電話に出ておくれ……、という、本当に良い曲です。いやこれ歌詞とかしっかり読んだらぜんぜん違う内容の歌なのかもだけれど、歌詞って読まないから……。ダメな人間なんです……。ともあれアルバムジャケットもとてもニュー・ロマンス(「ロマン神経症」)。ニュー・ロマンスについてはギブスン『ニューロマンサー』の解説で山岸真が書いている文章が素晴らしい。
が、なによりそれは、〝ニュー・ロマンス〟であるべきだ。社会も科学も文化も、確実にこれまでと違ったものになりつつあり、それによって人間そのものも変わっていく、そんな新しい時代の小説、あるいはSF。/本書はその胎動を告げているのである。
ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』黒丸尚訳、ハヤカワ文庫、1986、p.451
「小説、あるいはSF」を音楽に置き換えれば、これはまさに『NEUROMANTIC』のことになります。
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電話の呼び出しとしてのcallingは、むしろ信仰がないぼくや(あるいはきみもまたそうであるのなら)きみの方が、そこに込められた人間の、あくまで人間としての狂気や恐怖、そして切望を感じ取れるのかもしれません。ただいずれにせよ言えるのは、ここで挙げた3曲すべて、どこか懐かしい響きがあるということです。ぼくは新入社員のころ電話に出るのが本当に苦手でしたし、それはいまでも変わりません。携帯(スマホではなく携帯をぼくはメインで使っています)に着信があると、だいたい即座に着信拒否です。坂本龍一に倣い、FXXK OFFの精神。
そんな電話嫌いのぼくにとっても電話はやはり面白い。例えばキャロリン・マーヴィンの『古いメディアが新しかった時 19世紀末社会と電気テクノロジー』(吉見俊哉、水越伸、伊藤昌亮訳、新曜社、2003)を読むと、当初電話というものが伝統的なコミュニティを破壊するものとして恐れられていたということが書かれています。自著から引用しちゃいましょう。いやらしい宣伝。ぼくはいらやしい人間なんだ。
トム・スタンデージが電信について語っているように、あるいはキャロリン・マーヴィンが電話について詳細に論じているように、かつてそれら最新のメディア技術は、現代におけるインターネットと同様、共同体を破壊する可能性を持つものとして恐れられていた。だが、いま博物館かどこかで電鍵を目にして、あるいは黒電話を目にして、そのような恐れを抱く者がいるだろうか。それは決してノスタルジーなどではなく、何かがいかに素早く現れたとしても、やがていつかは後からやってきた歴史が追いつくことになるという、単純な事実を意味している。/むろん、だからといって、私たちはただ時間の経過を待てばよいということではない。永遠と無限の幻想を私たちに与え、永遠と無限に対する私たちの欲望を加速させるデジタル化は、私たちから歴史性そのものを失わせるだろう。だがそこで与えられる永遠と無限には、救済ではなく、底なしの飢餓だけが満ちている。
吉田健彦『メディオーム』共和国、2011年、p.246
いい文章ですね。このブログを書いているのと同一人物とは思えない。ぼくも思えません。でも要するに、どのようなテクノロジーであっても、人間はそこに記憶を、時間を降り積もらせる可能性があるのだということをぼくは考えていて、それができて初めてそれは人間の道具になる。人間が道具になるのではなくて。細野晴臣、坂本龍一、そして高橋幸宏の凄いところは、テクノロジーを人間の楽器にしたことです。それは誰もができているようで実際はぜんぜんそんなことはない。ただただ機械の音がするだけなら――無論、それを意図的にするのであればまた別ですが――それは機械にやらせればいい。電話もそうです、応答するだけならAIのエージェントにでもやらせておけばいい。そうでないところで初めて狂気を、恐怖を、あるいは愛を伝えられる/伝えられないということが可能になる。
「携帯電話の中により神を見る」(ケヴィン・ケリー『TECHNIUM テクノロジーはどこへ向かうのか?』服部桂訳、みすず書房、2014、p.409)などという戯言など話にもなりません。神が居るのならそれはcallingです。そして居ないのであれば、そこでは電話がいつでも、誰かから誰かに向けて鳴り続けているのです。