人間性に追いつこうとして

しばらく集中していた作業に一区切りがつき、ほっとしています。これでようやく再び自分の研究に戻れるのではないか、といえばそんなはずもなく、ただただ雑務が山積みになっていくばかりです。若いころは失敗することが恐ろしく、これほど積もった仕事を見たら間違いなくちびっていたと思いますが、この年になると……いえ、やはりちびっています。やるべきことが何も終わらないままに時間が経っていきます。先日、履いていたジーンズが破けたため棚の奥底から引っ張り出してきた得体の知れないジーンズをはいていたのですが、それも破けました。しかたなくさらに得体の知れないジーンズをどこからか拾ってきて履いていたのですがこれも破けました。もう進退窮まったわい、などと言いつつそのまま出社するのですが、さすがにそれは。人としての限度がありまする。そうして仕事先の偉い人の前で不具合原因の報告とかをするまする。そうすると冷や汗をかく。足元に洪水のように冷や汗が溜まる。仕方がないので雨漏りする天井の下に置いてあった盥を持ってきてその中に立つ。そう、ぼくはスクッと立つんだ。「産湯!」などと叫びつつ、どうにかこうにか生き延びています。

きょうは寝起きのまま活動していたので、夕方鏡を見たら髪型がバートン・フィンクのジャケットみたいになっていました。なので彼女の前で表情も真似をしてみたのですが、「ちょっと似ている」と言われました。ちょっと似ている。そうだ、そういえば昨日までは髭も剃っていなかった。客先常駐なのにもう滅茶苦茶だな……。けれども顎鬚って剃るの痛くないですか? ぼくは痛い。だからついつい無精髭を伸ばしてしまう。ところで顎ってなんだかごつい漢字ですよね。オードリー・ヘップバーンの顎鬚とかないじゃないですか。どうしてぼくはオードリー・ヘップバーンではないのだろうか。でもまあ、「仕方のないことは、仕方ないのだ」。これは樋口有介『ともだち』(中公文庫、2002)から。樋口有介の作品は好き嫌いは相当分かれると思いますが、面白いものは、面白いのだ。『ぼくと、ぼくらの夏』(文春文庫、2007)なんかはやはり傑作ですね。あとは『枯葉色グッドバイ』。主人公は過去に自らが起こしてしまった事故から立ち直れず、そのために生活を棄て刑事も辞めホームレスになっているのですが、ひょんなことからある事件について調べていくことになります。そして被害者一家の唯一の生き残りである少女との会話のなかで、「心貌合一」という言葉がでてきます。

「だけど、ねえ、元警官のホームレスって、仲間から苛められない?」
「江戸時代の牢屋じゃあるまいし……でも代々木公園の連中には内緒だぞ。警官嫌いはホームレスも不良女子高校生も変わらない」
「あたしは不良じゃないよ」
「ふーん、それは良かった」
「どうでもいいよ。どうせあんたも、人を見かけで決めるんでしょう」
「君もおれのことを見かけでホームレスと決めている」
「だって、あんたは、ホームレスじゃない」
「うん、そういえばそうだ」
「ほかのホームレスはホームレスらしくしてないのに、あんた、ヘンだね」
「心貌合一という思想があってな、見かけと中身が一致しないのは、他人に対して失礼になる」
「どういうことよ」
「もし堅気に見えるヤクザがいたら、他人はそのヤクザに対して、つい気を許してしまう。あとでヤクザと分かったときにはもう手遅れだ。だからヤクザはヤクザらしく見えないと、他人に対して失礼になる」
「ヘンな理屈だね」
「そうでもないだろう。バカのくせに利口ぶったり、利口なのにバカを装ったり、そういう人間は、下品じゃないか」

樋口有介『枯葉色グッドバイ』文春文庫、2006、pp.168-169.

不思議なことに「心貌合一」、他で聞いたことがありませんが、これとても面白いのでお勧めです。樋口さんの本を読んだことがないのであれば上記の『ぼくと、ぼくらの夏』の方が長さ的にも読みやすいかもしれません。ともかく、心貌合一。何しろぼくなんて存在そのものが胡散臭いですしうろんげなので、そういった意味では無精髭に目は落ちくぼみ、破れたジーンズに履き潰した登山靴なんて超心貌合一です。そうして、だからこそ、合一していない連中のことは一目で分かる。そういうのは怖いし、下らないし、近寄りたくはありません。

でも同時にそうではない人も居て、つまり良い意味で心貌合一している人は居て、それは奇跡みたいに少ないですが確実に居て、しかもものすごい幸運なことに、実際に出会って話をして気にかけてもらえたりする。そういうことがあるから、ぼくはまだ生きていられるのだと、それは心底そう思います。

このお正月に心から尊敬する牧師先生から年賀状をいただき、もう御年九十六歳であるにもかかわらず、はがきの短い文面からでさえ凄まじいまでの魂の気迫を感じました。ぼくは年賀状を書かない主義なので、毎年、お返事として手紙を書いていました。今年も、もうとうに人生の折り返しを越え、いまだに召命とは何かについて考え続けていますと記しました。数日して、友人から先生が突然お亡くなりになったという知らせを受けました。

ぼくはすべての一瞬は絶対的に常に在り続ける一瞬だと思っています。そしてまた、誰かと会話をしたいと願えばいつでも必ずできるとも思っています。そうでなければぼくは何かを考えることなどできません。だからそれは途轍もなく大きい損失ではあるのだけれど、悲しいというのとは少し違うのです。途轍もない損失ではあるけれど……。

その先生の風貌には、人生の一瞬一瞬に常に誠実に向き合う、そういう人のみが持ち得る精神が刻み込まれていました。そういう人間は、繰り返しますが残念ながらほとんど居ません。一度だけお食事をご一緒したに過ぎませんが、小山晃祐先生もまた――とても穏やかで笑みを絶やさない方でしたが――そうでした。そういった出会いが、その一瞬の記憶が、あるいは運が良ければ一瞬の連続の記憶が、ぼくらを一歩ずつ人間に引き上げてくれます。それは何かひどく表面的に心酔するとか批判を禁じるとかいうことではなく、その人が完全無欠であったなどと勝手に盲信するということでもなく、お会いした瞬間、ああこれが人間だと思えるということです。人間で在るということは、逆説的にですが、人間で在る自分から手を離すことができるということだと、ぼくは思います。ぼくらの大半が、だけれども、まだ人間にすらなっていない。ぼくらは人間にならなければならない。ぶかぶかの人間の皮を被っただけの泥の塊のような何かではなく、人間にならなければ。

ぼくはマドリードの戦線で、塹壕からわずか五百メートルの所に、簡単な石垣をめぐらして小山の上に設けられた、学校を訪れたことがある。一人の伍長が、そこでは植物学を教えていた。雛芥子の花の脆弱な器官を、手先に示しながら、彼はそこいらじゅうの泥の中から這い出してくる髭もじゃの巡礼者たちを集めていた。彼らは砲弾の中も厭わずに、彼のもとへと巡礼に登ってくるのだった。[…]彼らには、講義のことはたいしてわからなかった。ただ、〈きみたちは野人だ、きみたちは原始人の洞窟からわずかに一歩出ただけだ、人間性に追いつかなけりゃいけない!〉こう言われると彼らは、重い足を引きずりながら、人間性に追いつこうとして、ひたすら急ぐのだった。

サン・テグジュペリ『人間の土地』堀口大學訳、新潮文庫、pp.197-198

まあぼくなんてダメな方の最たるものです。髭もじゃで泥まみれの野人。だけれども……。恐らく読まれなかったであろう先生へのお手紙に、ぼくは、良い本を書くのでそのときがきたらぜひお読みいただければ幸いです、と書きました。だから、そうしなければなりません。