本の表紙とつっかえ感

ちょっと、本の表紙について感じることが連続したのでそれについて。といいつついきなり脱線するのですが、昔、ぼくがまだ新宿御苑の近くで働いていたころ、あああの頃は正社員だったのだなあ、気がつけば身分証さえない人間になってしまいましたが、しかしそもそも身分証って何でしょうね。突然の激怒。身分証明については橋本一径『指紋論 心霊主義から生体認証まで』(青土社、2010)がとてもお勧めです。埋め込みができないのでリンクを。

http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=1720

都市化が進むなかで、誰が誰であるのかを保証することが難しくなっていく。そこで紆余曲折を経て指紋による認証技術が登場するのですが、当然そこには管理/監視されることに対する反発も生まれる。しかしそれに対して、「もしあなたが善良な人間であるのなら、指紋を取られる(管理/監視される)ことのどこに不都合があるのか」といった議論が出てくる。例えばいま、もはや監視カメラなんて当たり前の時代ですよね。ぼくが若いころはまだ街に監視カメラが、なんていうとけっこう反発があって、ぼくもカメラを見つけるたびに中指を立てていました。それは見られて都合が悪いとか良いとかとはまったく別の次元において、人間は私としての/私であるという秘密を持っても良いのだという信念に基づくものです。まあ、個人的な意見です。防犯云々、犯罪捜査云々という主張にいっさい理がないと思うわけでもありません。とはいえ、究極の監視社会を描いた傑作SF、小川哲『ユートロニカのこちら側』(早川書房、2017)(https://www.hayakawa-online.co.jp/shop/g/g0000021299)には、監視テクノロジーに頼り切っているため、警察機構に属しているにもかかわらずもはやまともな捜査技能すら持っていない人物が登場します。実際、ぼくらの社会もそうなるかもしれません。

そしてまた、或る意味において身分保証の究極のかたちはこれです。究極というよりは象徴か。Wiredの記事です。「サム・アルトマンの虹彩スキャンシステム「Orb」進化版は、玄関先まで“宅配”されるようになる――「Orb」を使った野心的なプロジェクト「ワールドコイン」(現在は「ワールド」)が描く未来。それは、すべての人が「Orbによる認証」を受ける世界だ。」(https://wired.jp/article/worldcoin-sam-altman-orb

私が私であることを証明することとデジタルテクノロジーの関係性。これはぼくが生きていれば三冊目の単著くらいにこのテーマで書こうと思っているもので、めちゃくちゃ面白いので、ぜひ出版社の方はお声をおかけください。もう絶対売れます。ビルが建ちます。街ができ、国ができ、国境を巡り争いが起き、やがて地球は劫火に包まれ人類は滅びます。

とはいえ、これらはすべて脱線です。そうそう、ぼくがまだ御苑近くで働いていたころ、仕事帰りにてくてく永田町の方まで歩いて行ってこれまた仕事帰りの彼女と落ち合い、再びてくてく新宿方面に戻って帰って、などということをしていました。いまでもそのくらいの体力はありますが、もう人混みが怖くて精神的にはできないですね。ともかく、新宿駅近くまで行くと当時はヴァージンレコードがありました。ああ、こんな記事がある。

https://ascii.jp/elem/000/000/322/322592

で、彼女としばしばここに立ち寄ってはうろうろしていた。ヘッドフォンが壁に備えつけてあって、アルバムそれぞれの冒頭を少し聴くこともできたりしました。ぼくはそこで初めてライヒの音楽に出会って衝撃を受けました。あれは(いまはもう好きではなくなってしまったけれど)フィリップ・ジャンティ・カンパニーの舞台を初めて観たときくらいの衝撃だった。でもこれもまた脱線の脱線。フロアには幾つか金属製のカーゴがあり、そこには安売りのアルバムがぎゅうぎゅう詰め込まれていました。それを二人で漁ってジャケ買いをするのがぼくらの楽しみだったのです。安かったしね。当然誰だかも分からない、しかも海外のミュージシャンのアルバムなので外れることもありましたが、どちらかといえば当たりが多かったように思います。無論、いまでもそれらは手元にあります。

ジャケ買い。CD然り、そして本もまた、ぼくはしばしばそれをします。独立系の……というのでしょうか、いわゆる大手ではない出版社の場合、装幀に凄く凝っているところが多々あり、それは本当に素晴らしい。それこそが文化だとぼくは思うし、それが失われていくとしたら途轍もなく寂しい。そのくらい本の表紙というのは大切なものです。わ、いかんな。何だか文章が真面目な感じになってしまっている。

ともあれ、これでようやく本題ですが、最近幾つか本の表紙について「ほほぅ」と感じることが連続したので、それについて。おお、冒頭に戻りました。まず第一にウィリアム・ギブスンがblueskyにていまのハヤカワの『ニューロマンサー』(黒丸尚訳、早川書房)の表紙についてコメントしていたもの。お、blueskyの投稿は埋め込みができるのだなあ。

I’ve never seen this particular cover.

William Gibson (@greatdismal.bsky.social) 2024-12-21T05:40:59.574Z

この表紙も悪いくはない……悪くはないです。いやむしろ格好良い。でもぼくは、やはりこっちの方が良いのです。モザイクのかかった男性像。いいですよね、このどうしようもなく滲みだす80年代感。ニューロマンス。

そして次は神林長平『永久帰還装置』(ソノラマ文庫、2002年)。前回も書きましたが、これ本当に面白いのでお勧めです。神林長平はぼくのなかではものすごく大きい存在で、彼のテクノロジー観、コミュニケーションに関する思想には相当影響を受けています。プログラマとしても、研究者としても。それで、永久帰還装置、紹介したのはいいけれど絶版じゃないよねと心配になり検索してみたら現行版の表紙が出てきてちょっとびっくり。ぼくが持っているのとはぜんぜん違う……。あ、これハヤカワか!

画像はhttps://www.hayakawa-online.co.jp/shop/g/g0000610746/から引用。

ぼくが持っているのは上記の通りソノラマで、その表紙はこれです。

うーん、やっぱりこっちの方が良いなあ……。何かハヤカワの表紙だと男女のバディ物で恋愛絡みで……みたいな印象があるけれども、でもって確かに表面的なストーリー自体はその通りなのですが(そしてその部分も面白い)、でも本質はタイトル通り「還ること」についての滅茶苦茶ハードな物語なのです。昔ぼくは神林長平の『戦闘妖精・雪風』をタイトルしか知らないときに、ミリタリーオタク的なアレなんじゃないのぉ? と勝手に想像して疑っていたのですが、実際にはこれほど機械と人間のコミュニケーションについてハードに問うことを貫徹した物語ってないです。本当にすごい作家です。

最後はこれ。ジェイムズ・シュミッツ『惑星カレスの魔女』(鎌田三平訳、創元SF文庫)。といってもこの本自体について話したいのではありません。いやこの本面白いですよ。古き良き時代のほのぼのスペースオペラ。いまはちょっと時代的にこういうストーリーって書けないかもしれませんが、疲れちゃったときとかぼくは時折読み直しています。でもこの表紙はちょっと問題で、女の子誰だよ状態なのです。全然、小説内の描写と違う。宮崎駿がどういう意図で、あるいはどういう指示を受けてこれを描いたのかは分かりませんが、これはない。でもこういう、内容と違うだろうっていう表紙ってすごく多いですよね。何なんだろう……。まあでも良いです。

[本日発売]ジェイムズ・H・シュミッツ/鎌田三平 訳『惑星カレスの魔女【新版】』(創元SF文庫)商業宇宙船の若き船長が救った異星人三姉妹は、超能力を持つ“魔女”だった!?ヒューゴー賞候補作ともなったユーモア・スペース・オペラの傑作を新版で。www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784…#創元SF文庫

東京創元社 (@tokyosogensha.bsky.social) 2024-12-18T04:06:31.833Z

問題はサン・テグジュペリ『人間の土地』(堀口大學訳、新潮文庫)で、ぼくの持っているのは1995年の57刷のものですが、その表紙がこれ。

他方でいまの版はこれ。うーん……。

画像はhttps://www.shinchosha.co.jp/book/212202/から引用。

表紙が宮崎駿で、解説もしているとのこと。読んでいませんし読むこともありませんが、宮崎駿が悪いとかダメだとか、そういうことでは全然ないのです。そしてこれは偏屈な人間の懐古趣味でしかないかもしれないです、自分が最初に手にしたバージョンの表紙がいちばんだという……。でもやはりそれだけではない。表紙って、その本の世界に入るための入り口ですよね。でも、それが適切なものでないと、扉を通るときに「お、身体がつっかえた」みたいになってしまう。そして物語ってデータではなくて具体的なモノ、媒体なしにはあり得ないものですから、そのつっかえ感は現実の感覚だし、だからやっぱり、表紙は重要なのだと思うのです。昔、ぼくらがヴァージンレコードでジャケ買いしてもそれほど外さなかったのと同じように、そういう表紙があると、いいなあ。