これから

この3月で、いままで在籍していた大学から席がなくなります。ここ最近は学会の雑務を片づけつつ、大学に寄っては少しずつ荷物を整理していました。たった4年間(博士号を取ったあとも1年間は席を残しておいたので)しか居ませんでしたし、もともとぼくは大学で研究するというタイプではないので、片づけるといっても、それほど荷物があるわけでもありません。幾冊かの本を相棒の家に移動し、だいたい、それでお終いです。場所に居つく性質ではないので、別段、何の未練もありません。むしろ最近は夾雑物ばかり増えているように感じていたので、この辺でいったんリセットしてしまう方が良いのです。もともと、ぼくはこの研究室では外様でしたので、そろそろ、本来の立ち位置に戻ろうと思います。

いま、一本論文を書いています。はじめは情報倫理について書こうと思っていたのですが、書いているうちにメディア論寄りになってきました。昨年講義をしながら考えていたことを、少しずつ論文という形に置き換えているところです。基本的な主張は極めて単純で、メディアというものが身体性を捨象するという言説は虚構であり、かつ/それ故他者への責任=倫理の放棄に過ぎないということです。ぼくのやっているようなジャンルにおいて、これは老若を問わず、マシン(そしてマシンによって媒介される労働)に対する嫌悪感、拒絶反応というのはなかなかに凄まじいものがあります。だけれどもこれは本当にナンセンスな話で、そういうことを語る大半のひとが、そもそも企業での労働経験を持っていないし、マシンといえばせいぜいパソコンでメールのやりとりをしたりインターネットをしたりTwitterで呟いたりWordで論文を書いたり、要するにそんなものなのです。その程度で情報化社会が人間性を云々、と言われても、ぼくはそこに説得力が生じるのかどうか、ちょっと疑問に感じます。

もちろん、そんなことを言い始めたら、死刑反対は死刑囚でなければリアルに語れないのかとか、そういうことになりかねません。それに何より、ぼく自身、農業の経験もないのに博士(農学)を持っているし、この1年はエッセイなり科研費論文なりで農業について書いたりしてしまっている。これはもう本当にどうしようもない感じです。読み返す気にもならないような、表層的で無内容なものばかり書いてきました。もちろん、何について書くかとか、どのように書くかということに対して、ぼくらは選べるほど強い立場にあるわけではない。機会を与えられたのであれば、それがどんなに自分にとって興味のないものであったとしても、あるいは書くだけの知識や能力がなかったとしても、なりふりかまわず書かなければなりません。それはまったく恥じることではないし、むしろそこで選好みをする方が、よほど恥ずべきことだとぼくは思います。

ただ、やはりそれは苦しいものですし、つまらないことですし、誇れないことです。博士の1年目と2年目に書いた論文は、読み返しはしませんが、いまでもある程度は評価できるものだと思っています。それは(いまになって振り返れば)コミュニケーションが本質的に持つ暴力性について語ったものでした。たとえ論文としてのできが拙いものであったとしても、それはたいした問題ではありません。書かなければならないことを1/10でも書くことができたのであれば、それは十分意味のあることです。

いま、メディアについてなぜこんな必死になって(実際、必死なもので、ぼくの発表などちょっとどうかしているのではないかという気が薄々はしているのですが)書いているのかというと、やはりそれは、電子的なメディアを介してであっても、現にこのぼくが、恐怖を感じ、この身体が痛むのを感じているからです。画面を超えて迫ってくる他者への責任=倫理、それは、その痛みによって根拠づけられます。それは決してナイーヴな話ではありません。ただどうしようもないこととしてぼくらがそうで在るというだけのことです。

相棒と帰るとき――そういえば、彼女と再び一緒の大学にでも行くかと思ってここの博士課程に来たのですが、それももうそろそろお終いというのは、少しばかり寂しいことです――とある公園を抜けて行きます。毎年この時期になると、公園の池にかえるたちがわらわら集まってきます。ぼくらはかえるたちを踏んでしまわないように慎重に池に近づき、くんずほぐれつしているかえるたちをしばらくこっそり観察します。みなさんも、もし近くにそのような場所があったら、せめてこの時期だけでも、特に夜は、ぜひ足下に注意をしてあげてください。偽善、といえばその通り。だけれども、ぼくはその偽善がとても大事だと思います。「敢えて」何々をする必要があるのかどうか。動物の権利とか何とか、そういったことを考えるとき、ぼくはそこに注目します。極論というのは議論の枠組全体を明らかにしてくれることもしばしばありますが、敢えてする必要がないことはしないという常識的判断もまた、同じくらいに必要です。たしかにぼくもまた大量の生命を犠牲にして生きているけれど、だからといって、敢えてかえるが居ると分かっている道を無神経に歩いて、自転車に乗って、かえるを踏んでしまう理由などまったくありません。偽善と思うのならそれでけっこう。

研究の話からずれてしまったのでしょうか。いいえ、そうではありません。農業とか労働とか、正直なところ、そういったものごとについて書けと言われて書いたものは、ほんとうに下らないものばかりでした。無論、いまでもさまざまな制約はあります。けれどもそれはいつだってあって当然のものですし、あるからこそ、書きたいこととの摩擦によって、書かれるものが磨かれていくということもまた確かです。だけれど、それが制約ではなく、与えられたテーマでしかなかったのなら、やはりそこからは書くべき論文は生まれそうにありません。メディアについて書いていて楽しいのは――無論それは、面白い、ということだけではなく、書くべきことを書いているということへの魂の感じる喜びです――それがぼくにとって見えている世界を描いているからです。

でも、もともとぼくがコミュニケーションについて書こうとしていたのは、聴こえない声を聴かなければならないし、そうして確かにそれは聴こえるのだ、ということでした。そのコミュニケーションの相手は、誰にも看取られずに死んでいった無数の死者たちであり、画面の向こうの誰かさんたちであり、そして声もなく踏み潰されていく無数の小さな生き物たちです。前の二つに関しては、兎にも角にも、論文としてまとめ、自分のなかで考えるための出発点は確保しました。だから次は、最後のものについて改めて考えていこうと思います。

もう、研究室はなくなるので、いろいろリセットです。ぼくはもともと、場所に居つく性質ではないので、あとはもう独りで、あるいは相棒とふたりで、本を読み、野原に出て、美術館に行き、そしてたまに非常勤で若い子たちにちょっとどうかしてしまった感じで講義をしつつ、自分なりのかたちで研究をしていこうと思っています。

ユーモレスク

先日、十数年ぶりに床屋に行ってきました。床屋とか、何だか懐かしい響きですね。すっかり自分で切ることに慣れてしまっていたので、まさか生きているうちにまた床屋に行くことがあるとは思いませんでした。最後に床屋へ行ったとき、まあぼくはコミュニケーションを専門としているだけあってコミュニケーションなんてお手の物なのですが、「どういうふうに切りますか?」「ぁ……ぁ゛の、揃える程度に、短めに切って(あまりたくさんは切らないで)くだしあ」「え、揃える程度なの、短くしちゃうの、どっち!?」「あふっ、みじゅかめに……」というハートフルなやりとりを経て、泣く泣く坊主頭にされて以来、ぼくにはもはや床屋に対する憎悪しかありませんでした。

けれども、今回はきっと大丈夫です。床屋さんへの憎しみだけで生きることに救いはないとぼくは悟ったのです。人間は赦しあわなければならない。そうして、あえて名前は出しませんが、ある低コストの床屋さんへ行って、今度こそ揃える程度に切ってもらえ、ふんふん喜びながら家に戻り、Yシャツを脱いだら首の周りが血まみれになっていました。我ながら痛みに鈍いとは思っていたのですが、これは酷い。きっとバリカンで襟足を刈られたときのことでしょう。やはりぼくは床屋に対する憎しみだけを支えに生きていくしかないようです。

***

そう、ぼくは何を隠そうコミュニケーションが得意です。人と話すのが大好きです。仕事中におなかが痛くなりました。今朝、出勤途中で拾って食べたアレが原因かもしれません。ともかく、ぼくは洋式のトイレでなければ生きていけない。おお、何やら格好良いですね。ハードボイルド。しかしいまぼくが働いている研究開発室には洋式のトイレがありません。だから、敷地内をてくてく歩いて、洋式トイレのある建物まで行かなければならないのです。おなかが痛くて、けれども表情には決して出しません。この弱肉強食の世の中で、弱音など吐いたが最後、周りの連中に殺される。少々被害妄想気味のクラウドリーフさんは、けっこう本気にそう思ったりしています。「がんばれ、ぼくらこそが救援隊だ!」などと、サン・テグジュペリの真似をしつつ、ようやく洋式トイレのある建物に辿りつきました。

すると、何故かトイレの扉の前にはぼくを雇っている会社のお偉いさんが居て、他の社員さんと談笑しています。クラウドリーフさんはにっこり笑って挨拶をすると、そのまま回れ右をして戻っていきます。あまりの苦しさに文章が三人称化していますが、どうして彼はそこでトイレに入らなかったのでしょうか。分かってくれるひとには分かってもらえるでしょう。そしてもしあなたがそうでないのなら、きっとあなたには一生分かってもらえないでしょう。クラウドリーフさんは、フェンスにつかまりつつ、よろぼい歩いていきます。魔の山の最後のように、画面全体がズームアウトしていきます。どこかにある洋式トイレを求めて、いまや蟻のように小さくなったクラウドリーフさんが歩いていきます。

***

そんな彼がなりたかったのは、フィールドワーカーです。これは本当。っていうかここまで書いたこともすべて本当なのですが、ともかく、文明的な生活から離れられず、虫が苦手で(昆虫は大丈夫なのですが)、農学の博士号を持っているにもかかわらず土に触ることさえ苦手な彼が、バイクにまたがって中南米を旅し、ジャングルに分け入って人跡未踏の地で新たな発見をしようなどと考えていたのです。ちなみに彼は免許も持っていません。

土曜日、日曜日、月曜日と、仕事を休んで、延々学会や研究会の雑務を片づけていました。日曜日には街まで出かけ、学会誌をお願いしている出版社の編集者さんと打ち合わせ。相棒以外の女性と二人きりで会話とか、もう「あふっ、みじゅかめに……」としか言いようのない感じです。きょうはきょうで一日研究会のお金の計算と名簿の整理で終わりました。一日正座をしていたので、さすがにちょっと膝が痛みます。世界の片隅で、何やらごそごそやっているうちに、気がつけばフィールドワーカーになる夢なんてどこかへ行ってしまいました。

だけれども、クラウドリーフさんは徹底的に能天気なひとです。研究なんて地味なものかもしれませんが、それでもあるとき、自分でも驚くようなアクロバティックな(だけれどもきっとどこかで必然性を持った)経路を辿って、自分が語れるとは思っていなかったようなことを語れるようになったりします。

心配事も雑事も山積みです。業績をあげるのは大変ですし、そもそもパーマネントな職につける可能性もほとんどありません。それでも、別段悲愴ぶっているわけではなく、そんなわけでは決してなく、他人の論文の誤字脱字をチェックしたり、会員名簿を整理したり予算のつじつまを合わせたり、そんなことをしているときにでも、目の先に映っているのは、ぼくが行って、この目で見なければならない、無数の面白い何かなのです。

大した話じゃないけどさ

いやだなあ、と思うのです。先ほど、ようやく成績をつけ終えました。機械的にやれば良い、というひとも多いですし、それが正解だとは思うのです。そうして、ぼくも仕事としてやるということがどういうことかは理解していますから、もちろん機械的につけていきます。それでも、いやだなあ、という思いを消すことはできません。そもそも大学に来てまで成績を評価することの意味が分かりません。就職予備校ということなのでしょうか。成績とか単位とか、ほんとうにどうでも良いとしか思えません。出席をしたからどうとか、担当教員に受けそうなレポートを書いたからこうとか、意味が分からなすぎてほとんど異文化コミュニケーションです。異文化コミュニケーションっていやな言葉ですね。それって、ある文化と文化があって、そこには明確に見いだし得る差異が存在するという前提がある。阿呆くさいですね。大仰に目を剥いて「××文化!」とか叫ぶひとをみると本当に恐ろしい。個人的なアイデンティティの揺らぎを強要するなよ、と思ってしまう。文化なんてものはもしあるとすれば、自然に生きて在る、あるひとりの人間の姿以外に見いだされるはずがないのであって、言葉にした瞬間イデオロギーに転じてしまう。かどうかは知らないけれど、まあ、そうでもしなければアイデンティティとやらを確保できないというのであれば、大丈夫です。別段怯える必要はありません。そういうことをいうひとは、いつだってマイノリティだと思い込んでいるマジョリティだから。あなたのアイデンティティとやらを脅かすことは誰にもできません。保証します。

どうだっていいんです。単位を落としたって、大学を中退したって、良い成績を取ったって。そんなん、ほんとうにどうでも良すぎて、けれどもそれが社会のルールだから、ヘラヘラ笑いながら成績をつけます。「ぼくは先生って呼ばれるの凄い嫌なんだよね、莫迦みたいだよね、みんなの前に立っているだけで先生とか呼ばれて何も感じないとか、人間としてどうかしているとしか思えないよね」と言っても、やはり学生さんから届くメールには××先生とか書いてある。輝かんばかりの笑みを浮かべつつ「よし、死のう!」とか叫んで、でもきょうも元気です。頭がどうかしそうですね。どうかしていますね。どうかするといえば、ずっと昔、もう二十年近く昔でしょうか。ある地下鉄の駅で、そのときぼくは精神的な疲労の極致にあったのですが、ある瞬間、そのホームにいた人びとがすべて、何ていうのかな、いちばん近いのはキノコの胞子なんですけれども、それに見えたのです。いや違うな、ちょっとうまく言えないのだけれど、人間の姿は姿としてそのままぼくにも見えているのだけれど、でもその「人間」が、ぼくの頭のなかでは「キノコの胞子」に置き換えられていたという感じ。あの瞬間の感覚というのは、もう凍った映像と言葉でしか記録されていないんですけれども、世界はもの凄く静かで、そしてぼくはもの凄く冷静だったんですよね。でも次の瞬間、坂の頂上に辿りつきかけ、向うの景色を一瞬覗いて、でも登り切れないでまたこちら側にずり落ちてくるように、あるいは別の次元へ狭い穴から潜り込みかけていたのが、柔らかい透明な塊にむにゅっと押し返されるように、ぼくはこちら側に戻されてしまいました。そうすると、そこにはさっきと同じ光景のまま、でもそこに居るのは人間で、喧騒に満ちていて。ようするにこの世界。

あとになって思ったのは、ああ、俺にはあっちの世界に行く通行許可証みたいなものがないんだな、ということ。そうして、それはもしそのとき持っていなかったのであれば、きっと死ぬまで持てないであろうものなのだということも感じていました。そうなることの善悪とか正否とかあるいはそのひとの精神的な強弱とか、そんなことが言いたいのではないし、言えるものでもない。単なる事実として、ぼくはこう在らざるを得ないということを、あのときのぼくはどうしようもなく理解しました。

けっこう、ぼくはつねに、全力で生きています。ヘラヘラヘラヘラ薄気味の悪い笑顔を浮かべながら、どうでも良いよね、などと言うと、全方位から攻撃を喰らいます。だけれども、少しばかり寂しい気持ちになるだけです。何もかもどうでも良いし、どうしようもない。それは事実です。所詮はこちらの世界に留まっている愚鈍な人間同士の戯言、戯言に過ぎないんだから。ざれごとたわごと。でも、それでもぼくは全力でやっているし、だから恥じることもありません。

大学へ行って講義に出席してうまいことやって単位を取って、就職するか大学院へ進むか。そうやって「誰それさん」とやらになっていく。社会のルールとかアイデンティティとか。強固にしたり揺らいだり、揺らぐことに固執したり固執することに揺らいだり。やれやれ、まったく莫迦みたいです。

***

さてさて、クラウドリーフさんはそんなふうに言いますが、ぼくはと言えば、彼にほんの少しだけ同意しつつ、同時にどこかで、それが人間なんだよなあ、とも思うのです。クラウドリーフさんはたいていの場合何を言いたいのか、そもそも何を言っているのか良く分かりません。それでも、彼と共有しているのは、社会のルールとやらで人間を評価して、その評価によってのみ自らの存在に対する確信を得ようとすることの無意義さ、不可能さについてです。この世界に在る限り、ぼくらはどうしようもなくこの世界に在るぼくらです。生きている限り、ぼくらはどうしようもなく生きるしかないぼくらです。ヘラヘラ笑って不可とか優とか他人を評価しつつ、あまりに深刻で救いがなくて、でもその深刻さが可笑しくて思わずヘラヘラ笑ってしまったりします。

胃が痛いねえ、とクラウドリーフさんにぼくは言います。胃が痛いねえ、とクラウドリーフさんがぼくに言います。

あの日きみの飛ばした紙飛行機はまだ空のどこかを

昔、というほどでもないけれど、はてなを使っていたとき、とても素敵なブログを書いているひとがいた。嫉妬するようなレベルにすらぼくはなく、どうしたらこんな言葉を書けるのだろうかとひたすら不思議に思うばかりだった。しばらくして、実際にそのひとに会う機会があって、もちろんそのひとはブログに書かれている言葉、そこに描かれている世界とはまた別の素敵な雰囲気のひとで、けれども同時に、ああ、このひとだからこそああいった言葉を書けるのだな、というのも実感した。ぼくと同じく、そのひともはてなはやめてしまったけれど、また別のところで書き始めて、それがとても嬉しい。どこまでも流れていく、けれども変わらず静かで暖かく、どこか寂しい世界がそこにある。

ぼくの周囲のひとたちは、みなネットというものに対して批判的だ。それはそれで良く分かるし、それを悪くいうつもりはない。ただ、技術論を超えるようなものではないとも思うけれど……。

だけれども、思うのは、ぼくはそういう批判をする彼ら/彼女らの言葉の使い方そのものに、ほとんど共感できないということ。その語り方に何か、暴力を感じてしまうのだ。無論、いつも書いていることだけれど、あらゆる言葉は暴力性をともなっている。でもそういうことではなくて、何だろう、ひとを傷めるような言葉の使い方。小さい声の振りをして声高に叫ぶ言葉。ぼくはそういうのは苦手だ。

怒り、ということでいえば、ぼくはかなり問題含みの性格をしている。それでも、だからこそ、なのかもしれないけれど、ぼくは言葉を攻撃のために使いたくない。防御のための攻撃であったとしても。そうではなく、純粋に伝えるためだけに声を発したい。どこにも届かなくとも。そして、届かないと知りつつも発せられた無数の消えてしまった声を聴きとりたい。

そのひとの言葉をぼくが好きなのは、そういったかたちで言葉が語られているからだ。

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J.マキナニーの『ブライ・トライツ、ビッグ・シティ』(高橋源一郎訳、新潮文庫)は、主人公が「きみ」として語られる文体が一貫して取られている。そのどうしようもなく胸に迫るストーリーがぼくは本当に好きなのだけれど、その小説の訳者あとがきで、どこからの引用かは分からないけれど高橋源一郎がこんなことを書いていた。

おそらく、この作品の最大の仕掛けは、主人公が「YOU(きみ)」であることだ。「きみはそんな男ではない。夜明けのこんな時間に、こんな場所にいるような男ではない」と書きはじめられる、この小説の二人称現在形という叙述のスタイルは、現在形が頻出する「新しい波」の作品の中にあっても異彩を放っている。二人称現在形という、考えうるもっとも直接的な読者への語りかけの作品は[…]マキナニーにとっては文字通り、読者と「直接取り引き」をするためにどうしても必要な手段だったのである。この作品にメッセージを寄せたカーヴァーは「心に真っ直ぐ突き刺さる小説」と評したが、ここに登場する主人公の揺れ動く感情、虚栄心、嫉妬、プライド、小心さ、絶望には、上から見下ろすような作者の驕りは感じられない。信じるものも、頼るべき自我もなく、そしてそんな自分を表現すべき声もなく、「きみ」はちんぴらのように虚勢をはって、賑やかな街角を一晩中あてどなく歩きまわる。

取り引き、というのは、たとえばぼくの研究上でいえば、必要ではあるけれども評価されるべきものではない。他者というものは、取り引きの対象でも数値化できる対象でもない。どうしようもなくぼくらの眼前に迫り、根源に在り続けるものとして前存在論的に現われる。ぼくはそういうふうに考えている。まあ、別にたいしてめずらしい主張でもない。

だけれど、マキナニーのいう「取り引き」は、いわゆる経済学的な意味での取り引きではない。いや、そういう意味を含んでいてもいい。そんなことを超えて、どうしようもなくきみに対してこのぼくが、すべてを曝け出し、持てるすべてを賭け、けれども曝け出す何かも賭ける何かも持たない、そんな極限的に切羽詰ったなかで、なおきみに語りかけなければならないということを意味しているのだとぼくは思う。

どうなんだろう。ぼくは若手研究者を名乗っても良いのかどうか。分からないし、興味もない。けれど、誰もがそうであるように、ぼくもぼくなりのかたちで研究者ではある。人間は誰だってそうだ。ともかく、職業的な研究者かどうかといえばだいぶ危ういけれども、ほんとうのことをいえば、業績とか論文とか、そんなことはどうだっていいと思っている。もちろん、そういった世界にいる以上はそのルールに従って戦うつもりはあるし、戦っている。

でもぼくがしたいのは、ただ単純に、きみに伝えたいということだけでしかない。社会でも世代でも文化でも国でも、他の何でもない、いまどこかにいる、あるいはもういないただひとりのきみに。そしてもしそれができれば、それは途轍もない奇跡でもある。ぼくらにはきっと、そんな大それたことはできないのかもしれない。だけれども、やはりそうではない。そうでないかたちで語る誰かさんたちを、ぼくは知っている。自分がそうでないとしても、確かにそういうひとたちはいる。

だから、諦めずに語ろうと思う。きみにぼくは語る。語るきみの声をぼくは聴く。いまはもういないきみ。いるかもしれないきみ。届かない声。届かなかった声。その不可能性の向うでいったい何が起きるのだろうか。もちろん、何も起きない。だけれども、どこかにきっときみが存在していて、どこかにきっとぼくが存在している。

そして、それだけで十分なのだと思う。

小さな綿毛がいつまでも空中に留まっているのを見た

不思議なものを見た。彼女とひさしぶりに幾つかのギャラリーや美術館を巡ったときのこと。見知らぬ女の子が、天井から吊り下げられた作品の前でパンフレットを落としてしまった。落ちたパンフレットはその作品の下にするりと入り込んでしまう。けれども、女の子が腰をかがめ手を伸ばすと、フィルムを逆回しするようにパンフレットが女の子の手に戻ったのだ。不思議なことは不思議なことで、それ以上でもそれ以下でもない。合理的あるいは非合理的な理由を考ようと思えば幾らでも思いつくけれど、そうすることに意味はないし、面白みもない。

彼女とぼくは、行こうと思っていた美術館を見つけられず、少しばかりぐるぐると歩き回っていた。するとビルの狭間に稲荷神社があるのを彼女が見つけた。ぼくらは壁の間を擦るように進む。ぼくは財布から五円玉を出してお賽銭箱に入れ、彼女は、何というのだろうか、あの鈴のついた縄を振ってジャラジャラと鳴らし、そしてしばらく、二人で手を合わせていた。ぼくに信仰心はないけれど、まあ、挨拶だけは欠かさずする。とてもあんな事件を起こすような人には見えませんでした。いつも爽やかに挨拶をしていました。いま思えばその爽やかさがどこか不気味でした。いつか知り合いの誰かさんたちにそう言われるようになるのがぼくのささやかな夢だ。ともかく、あの細い隙間に、けれどもきちんと祭られていたお稲荷さんもまた、不思議な光景だった。

美術館で絵を観る彼女をぼくは観る。既に人生の半分以上を、彼女だけを眺めて過ごしてきたけれど、いまだにその存在は不思議で、美しい。

いろいろなかたちの不思議がある。それぞれに唯一のかたちを持った不思議。

不思議を抱えたものはたいてい美しく、美しいものはたいてい不思議を抱えている。ぼくたち人間は不思議を不思議のままにしておくことに耐え切れるほど強くはない。それ故、人間の世界は不思議が存在することを許さない。ぼくらはすぐにそこに理由をつけようとする。名前をつけようとする。超常現象、などというのは、不思議を受けとめるものではまったくない。そう名づけた箱のなかに不思議を投げ込み、それでお終いにしようというだけの倣岸で浅薄な愚行に過ぎない。ぼくはそういった愚かさを嫌悪する。

不思議を抱えているということは、それだけで常軌を逸した強さを持っているということだ。だから、ぼくにとっての美しさというのは、不思議を不思議として抱え続ける強さのなかにこそ生まれるものらしい。いうまでもなくその強さとは、物理的な力や知力などを指しているわけではない。それは存在の強度だ。ただ在るように在ること。

ただ在るように在ること。そうであるのなら、そこに不思議はないということだ。すべては曝けだされている。在りのままが、ぼくらの前で剥きだしになっている。けれども、やはりそこには不思議がある。何も隠されていないにも関わらず、そこには不思議がある。つまり、存在することにはそれ自体で不思議が在る、ということなのだろう。

存在することは、不思議で、強くて、そして美しい。そしてそれらすべてが同時的に顕れている。絵を観終わったとき、彼女がぼくに、どれがいちばん印象に残ったのかを訊く。それはいつものこと。そしてぼくが、――やっぱり絵を観ているきみが……、といいかけ、彼女に――はいはい、と流されるのもいつものこと。美術館を出れば、外はもう暗く、風が体温を奪う。ぼくは彼女と手をつなぐ。彼女の、冷たいけれど暖かい手。

それは、そこに、確かに存在している。

プンクトゥム

先週でようやく講義が終わりました。いちおう毎週レジュメを作成し、気がつけばA4で200枚超。内容は大学1、2年生向けですが、量だけでいえば博論よりも書いたことになります。前半は仕事のピークが重なり、後半はお手伝いや業務で読まなければならない論文が相当数あったので、振り返ってみればよく乗り切ったものだという気もします。まあ実際のところは、まだ終わったという実感がわかないのですが。ともかく、これでベースはできたので、来年は今回よりももう少しだけ楽しい講義になるようにしたいと思っています。

まだこれから忙しくなる作業も残ってはいるのですが、少しずつ、自分の論文も進めています。先日の発表は、ぼくとしては初めての試みだったのですが、写真論をやりました。講義の際にとある研究者の映画論を扱ったのですが、面白いと思う反面、納得のいかないところもあったのです。そうして、その日の講義が終わった後ふと書店により、気がつけばバルトの『明るい部屋 ― 写真についての覚書』、そしてソンタグの『他者への苦痛のまなざし』を手に取っていました。これ、どちらもとても面白い本ですので、お勧めです。

何かもやもやしたものがあるとき、自分でも分からないままに手を伸ばすと、そのもやもやにかたちを与えてやることができるような本にであえる。そういった直感があるかぎりは、ぼくもまだ、いまの生き方を変えることはできないように思います。

***

発表では、特に近現代におけるメディアの進展というものが他者との関係性を抽象的で空虚なものにしていくといったような、いわばありきたりな批判に対する反論をしました。まだまだ荒い議論ですが、いいたいことは描きだせました。ちょっと最後のところを抜き出してみましょう。

メディアは、まさに目を逸らしようもないものとして存在する他者を我々の眼前に映しだす。そうして、それだけでしかない。しかしそれこそが、他の誰でもないこの私の固有性を照らしだすのである。私は私である限りにおいて、私を私たらしめた他者に対して責任があるし、またそこにしか私を私たらしめる実感はない。
電子的なメディアの上を無数に流動する消費されるものとしての他者たち。だがそれは幻想に過ぎない。メディアの向こうにいる他者は、この私が本来そうである――そして同時にかつてそうであったことなど一度もない「私」へと私を立ち返らせるひとつの無力な契機に過ぎない。しかしそれは、私と他者を責任の名において結ぶ、確かな強度を持った奇跡でもあるのだ。

ぼくの発表というのは、良いのか悪いのかはわかりませんが、まあだいたいいつもこんな感じです。研究室のひとたちはみな正統派というか、まっとうな感じでレジュメを作ってまっとうな感じで発表をするので、自分の発表のときにふと我に返ったりすると恥ずかしいのですが、でも良いのです。親戚にひとりくらいいる困った伯父さんぼくの伯父さんみたいなものです。それに、ぼくなりのかたちでですが、ほんとうの意味で力を持った言葉を書きたいし、発したいと願っている以上、どうしてもこういうやりかたでしか発表ができないのだから、もうそれはしかたのないことです。

けれども、実は今回はじめてソンタグを読んだのですが、やはり凄いですね。とてもとても、足下にも及ばないのを実感します。

これは地獄だと言うことは、もちろん、人々をその地獄から救い出し、地獄の業火を和らげる方法を示すことではない。それでもなお[…]悪の存在に絶えず驚き、人間が他の人間にたいして陰惨な残虐行為をどこまで犯しかねないかという証拠を前にするたびに、幻滅を感じる(あるいは信じようとしない)人間は、道徳的・心理的に成人とは言えない。(p.114)

ちょっと省略の位置があれですが、興味のある方はぜひ手にとってお読みください。バトラーにしろソンタグにしろ、あるいはバディウやリンギスでも良いですが、虚仮脅しでも自己陶酔でもない、凄まじいまでの気迫をこめた言葉を書けるというのがすばらしい。いつか自分もその地点にまで到達できればと願っています。

ともあれ、これでしばらく講義はありません。また少し、ブログの更新頻度をあげられたら、いいなあ。

疾走

ある一瞬のために生きろというのは、ある一瞬のために死ねということだ。生も死も所詮は人間の作った言葉に過ぎず、それは本当は等価だ。そして恐ろしいことに、ぼくらはそのような一瞬を無数に持っている。無数に。

ぼくには相棒以外に仲間はいないし、別段、欲しいと思ったこともない。もし一人でも仲間を得たのであれば、それは途轍もない幸運だ。幸運というのは、いうまでもなく幸福ではない。それもまた恐怖のひとつのかたちだ。在ることと無いことの狭間を、支えるものもないままにぼくら全力で疾走する。そうして最後にどこかへ落ちていく。

もし救いを語る哲学というのがあれば、ぼくはそんなものを唾棄するし、そもそもそれは哲学ではないだろう。希望、人間性、善、正義、倫理。しかし絶望というのもまたひとつの救いの在り方だ。虚無というのも、きっとそうだろう。けれども、そうではない。やはり希望はあるし、絶望も虚無もある。それらすべてをひっくるめて世界はどうしようもなく在って、ぼくらは自分の世界線の上を支えもなしに疾走する。ストロボのように走るぼくらのフォームが一瞬一瞬浮びあがり、焼き付けられ、永遠に残る。暗室につりさげられた無数のネガ。それを誰かが世界の外から眺めている。だけれども、それはぼく自身の眼だ。

***

最近、言葉を話すのがひどく億劫だ。別に、疲れているわけではない。ぼくはいつでも絶好調だし、絶好調以外ではいられないことに疲れることさえできない。絶好調とはつまり、存在している、ということだ。ぼくは存在している。どうしようもなく、存在している。

スイッチを想像して、指で軽く弾く。気味が悪いくらい器用だよねと言われてきたぼくのなかにある無数の会話パターンの一つが自動的に選ばれ、必要とされる反応を返してくれる。あまりにも絶好調すぎて、存在しているものがはるか後方に過ぎ去っていく。

あたりまえのことだけれど、自分の家のなかであれば、目を瞑ったままでほぼあらゆることができる。いつもとは異なることをするのでなければ、一度も目を開けることなく一日を過ごすこともできるだろう。目を瞑ったままインスタントコーヒーを淹れ、自室に戻り、一口啜る。蹲り、呼吸を止め、疾走するイメージに集中する。限りなく加速する。

だけれども、ただまっすぐ立っていることができない。両足を踏みしめても、あっという間に平衡感覚を失い、よろけてしまう。それがやけに可笑しい。

***

精神の風が粘土の上を吹いてこそ、初めて人間は創られる、とサン・テグジュペリは言った。そうだろう。ぼくもそう思う。だけれども、ではその風はどこから吹いてくるのか。それはきっと、ぼくらが疾走するからだ。ぼくらは疾走するからこそ風を受けぼくらになる。ぼくらはぼくらになったからこそ疾走して風を受ける。走り続け風を受け続けることによりぼくらは粘土から削りだされぼくらになり、走り続け風を受け続けることによりぼくらは削り取られ砂に還る。すべては両義で、同義だ。

頭痛が止まらない。ぼくは冬が好きだ。風が強く吹き、穴だらけのセーターから容赦なく冷気が侵入してくる。頭がどうかしそうなほどに身体が凍え、震えが止まらない。腐ったように熱を持つ脳が凍り、その瞬間、自分の魂が全方向に向かって疾走を始める。

いつか疾走する自分を追い抜き、世界の外から自分を眺める自分を眺めている。