書を捨てよ……捨てたらきっと、きみには何も残らないけれど

海外にいる友人がひさしぶりに一時帰国し、ここしばらく、友人と相棒と三人で何度か会っていた。ぼくにとって数少ない、スイッチを入れる必要のない時間。体力的には無理をしてしまったけれども、代えがたい時間だから、それはそれでかまわない。今回、なぜか分からないけれど、電子書籍(というのだろうか、興味がないから良く知らないのだけれど)についてずいぶんと話をした。友人はニュートラルな立場で、ああいったものが今後どうなっていくのか、純粋に興味を持っているようだった。ぼく自身も、電子書籍云々ということについては基本的にはニュートラルに、というより、どうでもいいと思っている。ただ、ぼくのなかでは、あれは読書ではない。否定するつもりはなく、単純に、電子書籍を専用端末で眺めるような行為を読書だといわれると、無性に不快になる。

読書というのは、あたりまえかもしれないけれど、ただ単にそこにある字を読んで理解するという機能によってのみ定義されるものではない。表紙や中紙の感触、頁を捲るときの微かな音、紙の匂い、それらのすべてだ。開いている頁の曲面に光が当たり、影を作る。データではなく「もの」として存在するそれは、複雑で繊細で、でも確かな感触をぼくらにもたらす。そこにはその本が作られてからぼくの手に届くまでの、ささやかかもしれないけれど歴史さえもが含まれている。自分にとって大切なある一冊の本を読んだときの記憶は、本とぼくを超え、そのときの周辺世界すべてを含め、その総体として、いつまでもぼくのなかに留まり続ける。ぼくにとっては、それが読書と呼べるようなものだ。

ぼくはいわゆる懐古趣味というものが嫌いだし、貴族趣味というものにも虫唾が走る。知識がより広く、より安く、より手軽に手に入るようになるのであれば、それ自体はすばらしいことだ。本読みとして、初版本に執着したり私家版に目の色を変えたりするのは、ひどく品のないことのように思える。もっとも、あまりに露骨な啓蒙主義というのも、それはそれで鼻につくものではあるけれど。だけれども、ぼくが思うのは、そもそもある側面において、レニングラード写本とグーテンベルク聖書を比べること自体がナンセンスだということだ。繰り返すけれど、電子書籍がどうなろうと、ぼくの知ったことではない。ただ、それを読書と呼ばれることに対する違和感があるということだけは確かだ。

……いや、違うな。電子書籍云々はどうでもいいのだ。紙媒体でそこに書かれている文字を読むというだけであれば、ぼくにとってそれもまた読書ではない。たとえば時折聞く読書教育など、ぼくはどうしても嫌悪感を感じてしまう。本を読む、ということは、教わるようなものではない。まして学校などというシステムの中で、さらにシステム化された方法で分かるものなどではない。第一、いかに「自由に読む」ことの重要性などが謳われたところで、それはシステムの許容範囲内における自由でしかない。そこでカーマスートラを音読しながら一人実技をしても良いというのだろうか。いやぼくだってそんなことをされたら困るけれど、その通りで、読書というのは本来、システムのなかでされたら困ることなのだ。例えぼくらが手に持っている本が、資本主義市場経済システムのなかで生みだされた商品でしかなかったとしても、読書というものがもしあるのだとすれば、それは軽々とそんな枠組みを逸脱していってしまう。

だから、いままでの話をぜんぶひっくり返してしまうけれども、(形式として)電子書籍と呼ばれているものを読むなかにも、きっと読書は生まれるのかもしれない。必然としてではなく、つねに偶然として。本の形態とかそういったものは置いておいて、それとはまったく独立してそこに通底して――メディアの固有性があることなどは分かり切っている――読書というものはつねに一回性を持って、天啓のように突然ぼくらの身にどうしようもなく降りかかってくる。その天啓を知らないひとを、ぼくは本読みだとは思わない。

もっとも、どのみち、読書などということは、それほど大したものでもない。というより、そもそも、他人に対して自慢するようなものではまったくないだろう。狂信者であれば、神の啓示を受けたと叫びつつ町を徘徊することには美しさと悲しさがあるのだろうが、たかだかシステムから脱落している程度でしかない人間が信仰とやらを声高にアピールする姿には、醜さと愚かさしか見てとることはできない。少なくともぼくは、所詮その程度の意味での本読みだ。

それでも、ぼくはけっこう、本が好きな人間だ。いつか、ぼくは持っているすべての本を処分しなければならないと思っている。

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