方向音痴なきみは、それでも道に迷ったことがない。いや、本当は迷っているのだろうが、ひたすら力任せに歩き続けるきみは、自分が迷っているなどとは考えもしない。だからきみは、自分が方向音痴であることにも気づかず、いつか行き倒れるまで、どこまでもうろうろと歩き続けている。
しばらく体調を崩していたけれど、ようやく起き上れるようになる。少し古くなった牛乳で薬を飲み、食料を求めて五日ぶりに外へ出る。食糧といっても、たいしたものを買うわけではない。カロリーメイトのフルーツ味を冷やしたものがきみは好きだ。あとは牛乳さえあれば困ることはない。もともと食べることに関心のある性格でもなかったが、それでも、時折冷やし忘れたカロリーメイトを食べ、その不味さに顔を思わずしかめるとき、きみはふと微笑んでいる。それは、いまだに食べることに一片の喜びを見出そうとしている自分に対して、他人事じみたほほえましさを感じるからかもしれない。
駅前のドラッグストアでカロリーメイトと薬を買い、それだけで病み上がりのきみは疲れてしまう。あとはコンビニで牛乳を買うだけだが、しばらく駅前のベンチで身体を休めることにする。ひさびさに浴びる日差しに、きみは目を眇める。昨晩の雨にまだ濡れているアスファルトから湿った空気が立ち昇る。こんな街中でも、空気には少しずつ夏の匂いが満ちてきている。雑踏。無数に行きかうひとつひとつの人生。普段は苦手なその光景が、薬でぼんやりしているいまのきみには、どこか懐かしく、温かいものとして感じられる。ふと、ずっと未来の自分を想像する。駅のコンコースのベンチに座り、自分とは無関係な世界を眺めているきみをきみはつかのま眺めている。
三人の若者が広場で演奏をしている。ロックだかポップスだかも分からない中途半端な音楽。反抗しているのか甘えているのか、愛しているのか憎んでいるのかも分からない中途半端な歌詞。それでもそこには熱気があった。いつものきみなら唾棄していたかもしれないが、いまはその中途半端ささえ、苦笑とともに愛おしさを感じる。いろいろなものごとから切り離されていけばいくほど、きみは寛容になっていった。それは誰にとっても無意味な寛容さだったけれども。
どうしようもなく素人じみたバンドだったが、それでも無論、きみよりよほど腕は良い。きみも少しは楽器を弾けたが、しかし音感もリズム感も致命的に欠けていた。きみは脈絡もなく大学時代のことを思いだす。きみが通っていた大学では体育の講義が必修だった。体力だけは人並み以上にあったけれど、それ以外のあらゆる才能に見放されていたきみにとって、体育など苦痛以外の何ものでもなかった。それでも、苦手なものは克服すべきだと妙に頑なに信じていたきみは、社交ダンスを選択した。その大学には、そんな変わった選択肢もあったのだ。
――だからさ、そうじゃなくて、もっとこういう感じでステップを踏むんだよ。ペアを組んでいる女の子に、きみはまた同じことを言われる。――いや、頭では分かっているんだけどさ……。やれやれ、という顔をする彼女に、きみは申し訳なさそうに頭をかいて謝る。社交ダンスを受講してすぐ、きみはダンスが苦手なだけではなく、女性に触れることすら苦手だったことを思い出していた。けれども幸い人形劇のサークルが一緒だった子も受講しており、多少なりとも慣れているその子に、きみはダンスのペアをお願いしていた。彼女にはこういったことが向いているのか、講師のお手本を見ただけですぐに踊れるようになってしまう。一方のきみは、いつまで経っても基本的なステップを踏むことさえできなかった。ため息をついて彼女がいう。――頭で覚えようとしちゃだめだよ。身体が自然に動くようにやってごらん。きみもため息をつきかえす。――そりゃさ、きみは踊れるからそういうけど、できない人間にはまずそこからひっかかるんだよ。頭で覚えなきゃ手足をどうしたらいいかなんて分からないじゃないか。だいたい、ひとが踊っているのを見て覚えろっていうこと自体が無理なんだよ。そうしてきみたちはしばらく言い合い、互いに少し不機嫌になって授業を終えるというのが、定番になっていた。無論、ほんの少し時間が過ぎれば、きみたちは簡単に仲直りをしたのだが。
とはいえ、きみは何しろ力技の人間だった。休日に都心に出て、講義でやっているのと同じダンスが載っている教本を探しだすと、翌週の授業を三日休み、ほとんど不眠不休でステップを暗記したのだ。――きょうは完璧だよ。寝不足でくまのできた目で、きみは彼女にいう。不敵に、というよりむしろ不審者のように笑うきみに若干引きつつ、そうなんだ、と彼女は答える。けれど、ペアを組んで踊り始め、踊り終えると、彼女はこらえ切れないように身をよじって笑い出した。なぜかきみまで一緒に講師から注意を受け、まじめに踊ったつもりのきみは憮然とした表情のまま小声で彼女に問う。――なんだよ、ちゃんと間違えずに踊れたろ。完璧だったじゃないか。まだ目じりに笑みを残したままの彼女は、同じように声をひそめて答えた。――確かにステップは間違えなかったけどさ、でもあれじゃロボットだよ。ギクシャクガタガタ、まるで私たちの操る人形みたい。そうして、自分の言葉に再び吹きだし、慌てて口を押える。最初はむっとしていたきみも、そんな彼女を見ているうちにふと可笑しくなり、一緒に笑いだしてしまっていた。
……いつの間にか、バンドの若者たちはいなくなっている。そろそろ夕刻が近づき、行きかう人びとのまとう空気もさっきまでとは異なり、家を感じさせるものになっている。きみも立ち上がり、誰もいない家へと戻っていく。結局のところ、彼女はあまりに繊細だった。だからこそ鋭敏な感覚できみには感じ取れない流れを感じ取り、それに合わせて踊ることができたのかもしれないが、それが幸せなことだったとは、きみにはどうしても思えない。無論、ギクシャクガタガタ、力任せにしか進めないきみが、彼女より幸福だったということでもない。そもそもきみは、前に進んでいるのかどうかすら分からなくなっていた。
近所のコンビニで牛乳を買い、アパートに帰り、階段を上る。ポケットから部屋の鍵がひとつだけぶるさがっているキーホルダーを取りだし、鍵を開け、扉を開く。薄暗い部屋。微かにかび臭い匂い。カロリーメイトと牛乳を冷蔵庫にしまう。もう、あとすることは何もない。
彼女は、きみとは対極にいるひとだった。きみにはついに彼女を救うことができなかった。いや、誰かを救うことなど、誰にもできないことなのかもしれない。それでもきみは、きみに欠けたものを持ち、きみにあるものを持たなかった彼女のことを、どうしてだか、いちばん近い仲間だと思っていたし、いまでもそれは変わらなかった。あのとき覚えたステップを、いまだにきみは忘れないでいる。薄暗いなか、きみは記憶をたどりつつそのステップを踏む。向かにいるのは、もう年を取ることのない彼女の幻。――見ろよ、この完璧なダンス。心から楽しそうに、彼女が身をよじって笑う。――ギクシャクガタガタ、まるでロボットみたいだよ。ほら、もう一度やろうよ。教えてあげるから。
スイッチを入れる。部屋に白く人工的な光が満ちる。漠然とした空腹を感じて、きみはまだ冷えていないカロリーメイトを取り出し、無表情に食べる。その不味さが、まだ彼女のところへ行くときではないと、きみに教えてくれる。