居場所がないなんて言うけどさ

思想系の良いところは……などと一概にいうことはできないけれど、特定のフィールドがなくとも研究ができるというのは、少なくともぼくは気に入っている。もし考えることがあるのなら、そして考えることがあるからこそこんなことをやっているのだけれど、必要なのは自分の頭。あとはせいぜいノートと鉛筆があればこと足りる。読みかけの本を鞄に入れ、都心に出て、どこかしら空いている喫茶店でも探せば、とりあえず数時間はそこが自分の研究拠点になる。いや、研究拠点はいつだって自分の頭のなかにある。

とはいえ、やはり自分の研究室を持てるのであれば、それはそれでとても魅力のある話。正直なところ、関われば関わるほど大学という空間にはほとほと愛想が尽きる。それでも公募情報に目を通したりしているのは、きっと自分の「部屋」を持ちたいからだ。いや、もちろんいまだって自分の部屋くらいはあるのだが、そういう意味ではない。この頭のなかにあるものの具現化。でも、つまらない願望でもある。ほんとうのことを言えば、本だっていらないし、何かを書きのこす必要もないし、場所を持つ必要もない。

いずれにせよ、これはもうはっきりしていることだけれど、千にひとつの偶然でどこかの大学に潜り込めたとしても、ぼくはきっと三年間で弾きだされる/自分を弾きだすことになる。相棒を唯一の例外として、ぼくはそれ以上の期間に渡って、誰かとまともな関係性を保つことができない。いままで所属していた研究室との関係性も、これ以上は続けていくことはできそうもないことがいよいよ明確になってきた。無論、義がある限りにおいては協力を惜しむつもりはないけれど、何人かとの個人的なつながりが微かにでももし残るのであれば、いまはそれで十分だ。

いったい、これは何なのだろうか、と思うことがある。ぼくはそれほど特殊な育ち方をした訳ではない。むしろ平凡の赤道直下を歩き続けてきたような人生だ。にもかかわらず、どこかに居つくことができない。そして、そのことを後悔したことも、苦しいと思ったこともない。いや、存在している以上は苦しいのはあたりまえで、ことさら苦しい苦しいと叫ぶ人間をみても、ぼくは侮蔑と嫌悪しか感じない。生きている限り、ぼくらには義務と苦痛と罪だけがある。義務と苦痛と罪がある限りにおいてのみ、ぼくらは生きている。ぼくは、そう思っている。

ぼくがいた研究室では、脱近代というのがキーワードのひとつだった。らしい。ぼくは落ちこぼれの上に外様だったので、結局最後までその辺の議論にはうまく波長を合わせることができなかったのだけれども、ともかく、そういうことらしい。それはそれで、きっととても重要な論点なのだろう。けれど、ぼくにはどうもそういうものが感覚的によく分からなかった。

ぼくらの生き方や考え方は、なるほど確かにぼくらが生きている時代、あるいは社会によって方向づけられ、制限されている。でも、どちらが正しいということではなく、ぼくは、社会や時代から語り始められる何かに、つまるところあまり興味がない。ぼくの目に映るのはただ、あるひとつの魂の痛みであり、恐怖であり、要するにその魂が存在するということ、それ自体だ。それはあらゆる時代や社会を超えてつねに普遍的に在り続けるもので、かつその瞬間瞬間にのみしか現れない、取り返しのつかないものだ。そこにあるのは価値でも善でも希望でもなく、どうしようもなく、取り返しもつかない、恐ろしいまでに単純な事実としての「在ること」でしかない。

脱近代の話に戻れば、ぼくは仕事柄もあるのか、近代というものに対する肯定的な立場にあるように思われているし、実際、そうなのかもしれない。ただ、本音をいえば、どうだって良いんだよね、とも思っている。どのみち、ネットによって可能になったコミュニケーションが……、などと語るとき、明らかにぼくが指しているものと、肯定否定を問わずそれを語る人びとが指しているものと、一致する部分はほとんどない。肯定的に語るときでも、ぼくに見えているのは、そこにあって剥きだしのまま傷つき、潰されていくひとつの魂だ。肯定的、という言葉自体が問題で、ぼくはそこに、しつこいようだけれども、希望や善をいっさい含むつもりはない。

最近ようやく気づき始めているのは、そして何をいまさらと言われそうだけれど、近代を問い、それに批判的なひとは、これは誤解をしてほしくはないのだけれど、責めているわけでも批判しているわけでもなく、きっと根っからの近代人なのだ。ぼくには、やはり良く分からない。風土や伝統や共同体。実際のところ、ぼくはそういったものの必要性を感じたことはない。場所も、歴史も、仲間もいないけれど、それでも、どうしようもなく「いま、ここ」にぼくの魂が在り、どうしようもなくきみの魂もある。

倫理というものは、究極的には、すべてを剥がされ、剥きだしになった状態で、存在しない神と対峙するときにぼくらに突きつけられる何ものかだ。ぼくらは存在しない神に対して、何もないにも関わらず、にも関わらずだからこそ、俺は俺だ、と答える。そうして、そのただ独りであるということには同時に、独りというものを照射するきみの存在が分ち難く映し出されている。その三角形それ自体にこそ、おそらく倫理が存在している。

***

この数年は、時折訪れる例外的な時期で、いま、ひさしぶりにぼくはぼくなりのかたちに戻りつつあるのを感じる。もちろん、雑務は相変わらずたくさんあるし、公募にだってしつこく応募していくつもりだ。だけれど、それは場所や帰属を求めてのことではない。誰もがそうであるように、ぼくもまた、どこにも結びついてはいないし、同時にどうしようもなくきみに縛りつけられている。真実は、たぶん、ただそれだけだ。

いま、喫茶店にいる。近くの席にはきたならしい声で何かを話している誰々さんたち。きたならしいというのは、声の質のことではない。その存在の在り方だ。

ぼくはもう、自分にとって醜いものに容赦をするのをやめることにした。

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