相棒が陶器の小鳥をくれた。むくむくしていて小さくて、ちょっと尊大そうな顔つきが可笑しい。ぼくらが出会ってからの時間を記念してのものだという。
上の写真は、タムロンの60mmで撮ったもの。最近は細かな撮影データとかはどうでも良くなってきた。
昨日、注文していたマウントアダプターが届いた。数年前、彫刻家の家で発見した古いミノルタのAマウントレンズがα300に装着できたのには、(知識としては当然だと分かっていても)感動した。だけれど、父の遺したキヤノンのFDレンズが、いまぼくの使っているα700で使えるというのには、同じくらい感動する。感動というのは安っぽい言葉ではあるけれど、まあ、ぼく自身の感情が安っぽいものだから仕方がないし、安っぽいということが悪いことだというわけでもない。無論良いことでもなく、単にそうだというだけの話。安っぽさや嘘っぽさのなかにも、その奥に「どうしようもないこと」があるのなら、それはその言葉通り、どうしようもないことだ。
ともかく、下の写真は、そのFDレンズで撮った。ぼくが生まれた年に発売されたレンズ。描写の甘さとかなんとか、そういったことはあるかもしれないけれど、でもそんなことはどうでもいい。
相棒とであってから過ぎてきた時間、父がレンズを買ってから過ぎてきた時間、ぼくがみっともなく生き残ってきた時間。そういったあらゆる個別の、唯一の時間の流れが、ある写真の、薄っぺらい表面で、一瞬交差する。交差してまた離れ、それぞれの方向に向かって再びどこまでも流れていく。
ぼくが写真を好きなのは、きっと、ぼくら在るものがそれぞれにそうであるかたちの全体を、一葉の写真があらわしているからなのだとぼくは思っている。