跳躍にはまだ足りないけれど

2ヶ月近くブログを書いていなかった。自転車の乗り方は忘れないというけれど、ブログの書き方なんて簡単に忘れてしまう。いや、そもそもぼくは、言葉の話し方でさえ、けっこう簡単に忘れてしまう。ともかく、書かないことには先に進まない。進み始めてしまえば、案外、自転車のようにぼくをどこかに連れていってくれるかもしれない。どのみち、どこかへ行かなければならないわけでもないし、いまさらどこかへ辿りつけそうな人生を送れるわけでもない。

しばらくの間は、学会の雑務と本職とに追われていた。それでも、とにかく学会発表を一つこなし――といってもぼくにとって学会発表というのは論文の構想を練る場としての意味合いしかなく、これはこれで問題なのだが――、9月に出版される本に載せる論文も一本、ほぼ書き上げた。本屋で、立ち読みでもいい、ラストだけでもいい、もしきみの目に留まってくれれば、これほどうれしいことはない。

昨日は執筆者の幾人かが集まり、それぞれの原稿を叩きあった。それなりに通じるところはあるし、通じないところもある。手の内を曝けだすところもあるし、隠し続けるものもある。自分が自分に何を隠しているのか分からないことさえある。だからこそ、語れば語った数だけ、書けば書いた数だけ、そこにはその瞬間だけ存在するかたちが浮かび上がってくる。

今回の論文では勇気という言葉をけっこう使った。だけれど、この勇気という言葉も、恐らくまったく伝わりはしないし、ある面においては、伝わらなくても良いと思って書いている。研究者としてはどうなのかという気もするが、そもそもぼくは研究者などと自己規定するつもりはない。

勇気という言葉には善なるイメージがつきまとう。だけれども、ぼくにとってはそうではない。勇気とは、究極的には、見知らぬ誰かに殺される瞬間に手を広げ受け止めることだ。そして、自分の人生には何の意味もなかったことを受け入れることだ。救いはなく、自分が塵屑であったことを認めることだ。だけれど、その殺される瞬間に、ぼくを殺す誰かさんが確かに存在し、恐怖と苦痛にのたうちまわるぼくが存在する。もちろんこれはメタファーだし、そして同時に、すべての瞬間において、ぼくらは存在しない神によってけれども殺され続けている。存在しない神をそれでもなお殺し続けている。その関係のただなかからこそ、またそこからのみ、責任=倫理とは何かということを問うことができる。

いったい何を言っているのだろうか。たぶん多くのひとには伝わらないし、ぼく自身にもきっと良くは分かっていない。そしてたぶん、分かるものではない。それでもそれはそこにある。

最近、また旧約聖書を読み直している。いろいろ好きな個所はあるけれど、なかでも好きなのは、やはり創世記とヨブ記だ。そこには、なぜかいつも戻ってきてしまう。自分が神学科などにいたから一般的な状況というものはよく分からないが、何も根拠がないことを承知で一般論をいえば、キリスト教徒ではない日本人の多くが、聖書などまったく読まないか、あるいは変にマニアックで歪んだ知識だけを持っていることが多いように思う。もちろん、ぼくだってそうなのだが、それでも地味に読み続けているうちに、何となく(自分にとって)見えてくることもある。ただ、それは積み上げれば見えるものではない。頭では分かっても感覚では理解しにくいこともあるし、逆に、感覚では理解していても、アカデミックな議論には耐えないこともある。レヴィナスの責任概念などを考えると、特にその難しさを感じる。どちらが正しいとかではなく、ただ、何だか面倒くさいなあと、最近漠然と感じている。

今季はあと二本論文を書かなくてはならない。学会誌の発行にかかわる雑務も一気に増えそうだし、後期の講義も、できればレジュメを大幅に書き直したい。いまから後期の惨状が目に浮かぶけれど、まあ、気持ちの上では余計なものとの接続をだいぶ断つようにし始めているし、どのみち、どうにかしなければならないことはどうにかしなければならない。どうにもならなければ、それはどうにもならなかったというだけのことだ。

何だか暗い雰囲気になってしまったけれど、そんなこともない。ぼくは徹底的に能天気な人間だ(何しろ、いかに取り立てられようと、ぼくらに支払えるのはたかだか自分の命に過ぎない。問題は、ぼくらが他者とつながるとき、それ以上のものをぼくらが手にしてしまうということだ。だからぼくらは、生きている限りにおいて生きるより他に選択肢を持ち得なくなる……)。相棒と二人で、近場に旅行に行こうなどと計画をしているし、今年の後半は再びN.Y.に行こうかなとも思っている。お金や時間をどうするかなどということは、まあ、その時に考えれば良い。しばらくは今回の論文に追われていて書く余裕がなかったけれど、また写真論についても読んでいきたい。少し長めの物語を書いてもみたい。

夜中、洗い物をしているとき、跳ねた水がシンクに足跡を残した。土踏まずの中に閉じ込められた気泡が消えるまでの間、マクロレンズを構え、写真を撮り続けた。

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