きょうはほとんど機能を停止していた。実質、この48時間で8時間程度しか起きていない感じだ。でもまあ、調子は悪くない。ほんとうに、ちょっと薄気味が悪いくらいに気持ちが落ち着いている。ただ、それは薬を飲んでいるときの感じに似ていて、どこかぼんやりとした、霧のなかの凪いでいる海のような雰囲気。実際、いまぼくには早急にやらなければならないことがあるはずなのだけれど、それが何かを思いだせない。まあ、生き死にに関係することではないし、そうである以上、無理をして思いださなければならない理由もない。どうせくだらない、学会だか義理だかの仕事だろう。
あまり信じてもらえないかもしれないけれど、ぼくはプログラマとしてはけっこう腕が良いほうだと思っている。もっとも、これでかれこれ十数年食べている――しかもその大半をフリーでやっている――わけだから、腕が良くなくては困る。つい数日前、そろそろ終わりが見えてきているプロジェクトのドキュメントをまとめつつ、何故こんな、仕事と研究とのどっちつかずの生活をしているのかふと疑問に思った。大学やら学会やら、そういったものに少しばかり関わって思うのは、本当になかなかに相当に、これは歪な世界だなあ、ということだ。別に、悪人やら人格破綻者ばかりがいるということではない。そういった意味でいうのなら、むしろほかのどことも同じ、ありきたりの人びとの方が多い。そしてそれは悪いことでは決してない。ただ、生きていくうえでの当たり前の覚悟というものがないひとが多いのは、主観的にだが強く感じる。生きていくことへの覚悟。それは、自分が踏みだす一歩先に踏みしめるべき大地があるかどうかが分からないということを受け入れる覚悟だ。自分には一歩先の 大地を踏みしめる権利があると無邪気にも思い込むこと、踏みしめるべき大地があると愚かにも信ずること、あるいはないかもしれないと怖れ踏みだせないこ と。それらはみな等しく、世界から断絶した自己への執着という醜さを持つ。
いや、そういった人間はどこにでもいる。ただ、思想やら哲学やらを口にする連中がそうであることの醜さを、ぼくは許容することができない。自分でも驚くほどの無関心さを持って、そういう人間との関係性を絶ち切ってしまう。
とはいえ、こんなことを書くことには、もちろん何の意味もない。切れるものは切れるし、切れないものは切ろうとしても決して切れない。そしてすべてのものは、必ずいつかは切れていく。
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面白い話をしよう。しばらく前までの半年くらいの間、磨りガラスの向こうに黒い人影がいつも見えていた。飛蚊症の変化形のようなもので、別段困るほどのものでもなかったけれど、どこにいっても磨りガラスがあれば必ず、その向こうに無言で佇む黒い人影がある。おかしなことに普段はそんなことを忘れていて、見た瞬間になってようやく、ああそういえば俺は最近こんなものを見ているんだなあと思いだす。普段から飛蚊症がひどいので、それと脳の疲労が変な風に結びついてしまったのだろうと勝手に思っていた。
その次に、これはほんの二週間ほどで終わったのだけれど、だいぶん参ってしまった幻覚(というより思い込み)があった。言葉というのは恐ろしいもので、簡単に他人に伝染してしまう。だからここには書けないけれど、これには本当に消耗した。ただ、ぼく自身は子供のころからこういうスイッチが入ってしまうことが多々あって、しばらくすれば止むことが分かっているので、どうにかやり過ごしている。
面白いというのは、いやそれほど面白くもないかもしれないけれど、こういった内面的な不整合というものが止まるきっかけというのが、ぼくの場合だけかもしれないけれど、たいていは外面的な不具合の発生だということだ。今回は左の脇腹にそれが出て、めずらしく病院に行ってきた。もちろんそんな深刻な話ではなく、薬をもらう程度の意味でしかない。ただいずれにせよ、ぼく自身にさえ判然としないような、心の奥底にあるぐちゃぐちゃとした不整合の塊が外面化することによって、それは対処できる何ものかになる。人間は本能的にそのようにして名づけられないナニモノカを処理していく。外に現れてしまえば、それは極普通に、勝つか負けるかはともかくとして、勝負できる何ものかになってしまう。とてもシンプルな話だ。
このブログを読んでくれているわずかなひとにはいうまでもなく、ぼくはこんなことをこの言葉通りに信じているわけではない。要するにこれは物語だ。だけれど、同時にそれは、ぼく自身にとっての現実の世界を生みだすための真実の方法でもある。
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生きるというのは、本当に面白い。その面白さは、生き残りゲームの面白さだ。生物学的な意味で生存しているということではなく、自分自身をかけ、自分自身を未来にどれだけ投げだし続けていけるかという究極の独り遊び。だけれどそこにただ何もない空白があるだけなら、ぼくらはぼくらを投げだしているのか投げ戻しているのかを判断することはできない。無数の誰かさんたちがそれぞれに自分を投げだしているからこそ、ぼくらは自らを位置づけることができる。みな自分を投げだし、時折投げ戻し、立ち止まり、投げる先を間違えてどこかへ転げ落ちてゆき、あるいはその場にとどまり続けてやがて腐る。
ただひとつだけはっきりしていることがある。もしぼくらがぼくらを投げださないでいるのなら、ぼくらは、最後の最後に自らを投げだしたとき、存在しない神にぶち当たることができないだろう。最後の問いを投げかけられることもついにないだろう。ぼくはぼくがそうなることを想像するとき、途轍もない恐怖に襲われる。それは恐怖を感じる自分が結局は存在できなかったことに対する恐怖だ。
きょう、何をしなければならなかったのか、まだ思いだせない。思いだす必要があるかどうかさえ、ぼくにはよく分からない。