書を捨てよ……捨てたらきっと、きみには何も残らないけれど

海外にいる友人がひさしぶりに一時帰国し、ここしばらく、友人と相棒と三人で何度か会っていた。ぼくにとって数少ない、スイッチを入れる必要のない時間。体力的には無理をしてしまったけれども、代えがたい時間だから、それはそれでかまわない。今回、なぜか分からないけれど、電子書籍(というのだろうか、興味がないから良く知らないのだけれど)についてずいぶんと話をした。友人はニュートラルな立場で、ああいったものが今後どうなっていくのか、純粋に興味を持っているようだった。ぼく自身も、電子書籍云々ということについては基本的にはニュートラルに、というより、どうでもいいと思っている。ただ、ぼくのなかでは、あれは読書ではない。否定するつもりはなく、単純に、電子書籍を専用端末で眺めるような行為を読書だといわれると、無性に不快になる。

読書というのは、あたりまえかもしれないけれど、ただ単にそこにある字を読んで理解するという機能によってのみ定義されるものではない。表紙や中紙の感触、頁を捲るときの微かな音、紙の匂い、それらのすべてだ。開いている頁の曲面に光が当たり、影を作る。データではなく「もの」として存在するそれは、複雑で繊細で、でも確かな感触をぼくらにもたらす。そこにはその本が作られてからぼくの手に届くまでの、ささやかかもしれないけれど歴史さえもが含まれている。自分にとって大切なある一冊の本を読んだときの記憶は、本とぼくを超え、そのときの周辺世界すべてを含め、その総体として、いつまでもぼくのなかに留まり続ける。ぼくにとっては、それが読書と呼べるようなものだ。

ぼくはいわゆる懐古趣味というものが嫌いだし、貴族趣味というものにも虫唾が走る。知識がより広く、より安く、より手軽に手に入るようになるのであれば、それ自体はすばらしいことだ。本読みとして、初版本に執着したり私家版に目の色を変えたりするのは、ひどく品のないことのように思える。もっとも、あまりに露骨な啓蒙主義というのも、それはそれで鼻につくものではあるけれど。だけれども、ぼくが思うのは、そもそもある側面において、レニングラード写本とグーテンベルク聖書を比べること自体がナンセンスだということだ。繰り返すけれど、電子書籍がどうなろうと、ぼくの知ったことではない。ただ、それを読書と呼ばれることに対する違和感があるということだけは確かだ。

……いや、違うな。電子書籍云々はどうでもいいのだ。紙媒体でそこに書かれている文字を読むというだけであれば、ぼくにとってそれもまた読書ではない。たとえば時折聞く読書教育など、ぼくはどうしても嫌悪感を感じてしまう。本を読む、ということは、教わるようなものではない。まして学校などというシステムの中で、さらにシステム化された方法で分かるものなどではない。第一、いかに「自由に読む」ことの重要性などが謳われたところで、それはシステムの許容範囲内における自由でしかない。そこでカーマスートラを音読しながら一人実技をしても良いというのだろうか。いやぼくだってそんなことをされたら困るけれど、その通りで、読書というのは本来、システムのなかでされたら困ることなのだ。例えぼくらが手に持っている本が、資本主義市場経済システムのなかで生みだされた商品でしかなかったとしても、読書というものがもしあるのだとすれば、それは軽々とそんな枠組みを逸脱していってしまう。

だから、いままでの話をぜんぶひっくり返してしまうけれども、(形式として)電子書籍と呼ばれているものを読むなかにも、きっと読書は生まれるのかもしれない。必然としてではなく、つねに偶然として。本の形態とかそういったものは置いておいて、それとはまったく独立してそこに通底して――メディアの固有性があることなどは分かり切っている――読書というものはつねに一回性を持って、天啓のように突然ぼくらの身にどうしようもなく降りかかってくる。その天啓を知らないひとを、ぼくは本読みだとは思わない。

もっとも、どのみち、読書などということは、それほど大したものでもない。というより、そもそも、他人に対して自慢するようなものではまったくないだろう。狂信者であれば、神の啓示を受けたと叫びつつ町を徘徊することには美しさと悲しさがあるのだろうが、たかだかシステムから脱落している程度でしかない人間が信仰とやらを声高にアピールする姿には、醜さと愚かさしか見てとることはできない。少なくともぼくは、所詮その程度の意味での本読みだ。

それでも、ぼくはけっこう、本が好きな人間だ。いつか、ぼくは持っているすべての本を処分しなければならないと思っている。

跳躍にはまだ足りないけれど

2ヶ月近くブログを書いていなかった。自転車の乗り方は忘れないというけれど、ブログの書き方なんて簡単に忘れてしまう。いや、そもそもぼくは、言葉の話し方でさえ、けっこう簡単に忘れてしまう。ともかく、書かないことには先に進まない。進み始めてしまえば、案外、自転車のようにぼくをどこかに連れていってくれるかもしれない。どのみち、どこかへ行かなければならないわけでもないし、いまさらどこかへ辿りつけそうな人生を送れるわけでもない。

しばらくの間は、学会の雑務と本職とに追われていた。それでも、とにかく学会発表を一つこなし――といってもぼくにとって学会発表というのは論文の構想を練る場としての意味合いしかなく、これはこれで問題なのだが――、9月に出版される本に載せる論文も一本、ほぼ書き上げた。本屋で、立ち読みでもいい、ラストだけでもいい、もしきみの目に留まってくれれば、これほどうれしいことはない。

昨日は執筆者の幾人かが集まり、それぞれの原稿を叩きあった。それなりに通じるところはあるし、通じないところもある。手の内を曝けだすところもあるし、隠し続けるものもある。自分が自分に何を隠しているのか分からないことさえある。だからこそ、語れば語った数だけ、書けば書いた数だけ、そこにはその瞬間だけ存在するかたちが浮かび上がってくる。

今回の論文では勇気という言葉をけっこう使った。だけれど、この勇気という言葉も、恐らくまったく伝わりはしないし、ある面においては、伝わらなくても良いと思って書いている。研究者としてはどうなのかという気もするが、そもそもぼくは研究者などと自己規定するつもりはない。

勇気という言葉には善なるイメージがつきまとう。だけれども、ぼくにとってはそうではない。勇気とは、究極的には、見知らぬ誰かに殺される瞬間に手を広げ受け止めることだ。そして、自分の人生には何の意味もなかったことを受け入れることだ。救いはなく、自分が塵屑であったことを認めることだ。だけれど、その殺される瞬間に、ぼくを殺す誰かさんが確かに存在し、恐怖と苦痛にのたうちまわるぼくが存在する。もちろんこれはメタファーだし、そして同時に、すべての瞬間において、ぼくらは存在しない神によってけれども殺され続けている。存在しない神をそれでもなお殺し続けている。その関係のただなかからこそ、またそこからのみ、責任=倫理とは何かということを問うことができる。

いったい何を言っているのだろうか。たぶん多くのひとには伝わらないし、ぼく自身にもきっと良くは分かっていない。そしてたぶん、分かるものではない。それでもそれはそこにある。

最近、また旧約聖書を読み直している。いろいろ好きな個所はあるけれど、なかでも好きなのは、やはり創世記とヨブ記だ。そこには、なぜかいつも戻ってきてしまう。自分が神学科などにいたから一般的な状況というものはよく分からないが、何も根拠がないことを承知で一般論をいえば、キリスト教徒ではない日本人の多くが、聖書などまったく読まないか、あるいは変にマニアックで歪んだ知識だけを持っていることが多いように思う。もちろん、ぼくだってそうなのだが、それでも地味に読み続けているうちに、何となく(自分にとって)見えてくることもある。ただ、それは積み上げれば見えるものではない。頭では分かっても感覚では理解しにくいこともあるし、逆に、感覚では理解していても、アカデミックな議論には耐えないこともある。レヴィナスの責任概念などを考えると、特にその難しさを感じる。どちらが正しいとかではなく、ただ、何だか面倒くさいなあと、最近漠然と感じている。

今季はあと二本論文を書かなくてはならない。学会誌の発行にかかわる雑務も一気に増えそうだし、後期の講義も、できればレジュメを大幅に書き直したい。いまから後期の惨状が目に浮かぶけれど、まあ、気持ちの上では余計なものとの接続をだいぶ断つようにし始めているし、どのみち、どうにかしなければならないことはどうにかしなければならない。どうにもならなければ、それはどうにもならなかったというだけのことだ。

何だか暗い雰囲気になってしまったけれど、そんなこともない。ぼくは徹底的に能天気な人間だ(何しろ、いかに取り立てられようと、ぼくらに支払えるのはたかだか自分の命に過ぎない。問題は、ぼくらが他者とつながるとき、それ以上のものをぼくらが手にしてしまうということだ。だからぼくらは、生きている限りにおいて生きるより他に選択肢を持ち得なくなる……)。相棒と二人で、近場に旅行に行こうなどと計画をしているし、今年の後半は再びN.Y.に行こうかなとも思っている。お金や時間をどうするかなどということは、まあ、その時に考えれば良い。しばらくは今回の論文に追われていて書く余裕がなかったけれど、また写真論についても読んでいきたい。少し長めの物語を書いてもみたい。

夜中、洗い物をしているとき、跳ねた水がシンクに足跡を残した。土踏まずの中に閉じ込められた気泡が消えるまでの間、マクロレンズを構え、写真を撮り続けた。

ステップ

方向音痴なきみは、それでも道に迷ったことがない。いや、本当は迷っているのだろうが、ひたすら力任せに歩き続けるきみは、自分が迷っているなどとは考えもしない。だからきみは、自分が方向音痴であることにも気づかず、いつか行き倒れるまで、どこまでもうろうろと歩き続けている。

しばらく体調を崩していたけれど、ようやく起き上れるようになる。少し古くなった牛乳で薬を飲み、食料を求めて五日ぶりに外へ出る。食糧といっても、たいしたものを買うわけではない。カロリーメイトのフルーツ味を冷やしたものがきみは好きだ。あとは牛乳さえあれば困ることはない。もともと食べることに関心のある性格でもなかったが、それでも、時折冷やし忘れたカロリーメイトを食べ、その不味さに顔を思わずしかめるとき、きみはふと微笑んでいる。それは、いまだに食べることに一片の喜びを見出そうとしている自分に対して、他人事じみたほほえましさを感じるからかもしれない。

駅前のドラッグストアでカロリーメイトと薬を買い、それだけで病み上がりのきみは疲れてしまう。あとはコンビニで牛乳を買うだけだが、しばらく駅前のベンチで身体を休めることにする。ひさびさに浴びる日差しに、きみは目を眇める。昨晩の雨にまだ濡れているアスファルトから湿った空気が立ち昇る。こんな街中でも、空気には少しずつ夏の匂いが満ちてきている。雑踏。無数に行きかうひとつひとつの人生。普段は苦手なその光景が、薬でぼんやりしているいまのきみには、どこか懐かしく、温かいものとして感じられる。ふと、ずっと未来の自分を想像する。駅のコンコースのベンチに座り、自分とは無関係な世界を眺めているきみをきみはつかのま眺めている。

三人の若者が広場で演奏をしている。ロックだかポップスだかも分からない中途半端な音楽。反抗しているのか甘えているのか、愛しているのか憎んでいるのかも分からない中途半端な歌詞。それでもそこには熱気があった。いつものきみなら唾棄していたかもしれないが、いまはその中途半端ささえ、苦笑とともに愛おしさを感じる。いろいろなものごとから切り離されていけばいくほど、きみは寛容になっていった。それは誰にとっても無意味な寛容さだったけれども。

どうしようもなく素人じみたバンドだったが、それでも無論、きみよりよほど腕は良い。きみも少しは楽器を弾けたが、しかし音感もリズム感も致命的に欠けていた。きみは脈絡もなく大学時代のことを思いだす。きみが通っていた大学では体育の講義が必修だった。体力だけは人並み以上にあったけれど、それ以外のあらゆる才能に見放されていたきみにとって、体育など苦痛以外の何ものでもなかった。それでも、苦手なものは克服すべきだと妙に頑なに信じていたきみは、社交ダンスを選択した。その大学には、そんな変わった選択肢もあったのだ。

――だからさ、そうじゃなくて、もっとこういう感じでステップを踏むんだよ。ペアを組んでいる女の子に、きみはまた同じことを言われる。――いや、頭では分かっているんだけどさ……。やれやれ、という顔をする彼女に、きみは申し訳なさそうに頭をかいて謝る。社交ダンスを受講してすぐ、きみはダンスが苦手なだけではなく、女性に触れることすら苦手だったことを思い出していた。けれども幸い人形劇のサークルが一緒だった子も受講しており、多少なりとも慣れているその子に、きみはダンスのペアをお願いしていた。彼女にはこういったことが向いているのか、講師のお手本を見ただけですぐに踊れるようになってしまう。一方のきみは、いつまで経っても基本的なステップを踏むことさえできなかった。ため息をついて彼女がいう。――頭で覚えようとしちゃだめだよ。身体が自然に動くようにやってごらん。きみもため息をつきかえす。――そりゃさ、きみは踊れるからそういうけど、できない人間にはまずそこからひっかかるんだよ。頭で覚えなきゃ手足をどうしたらいいかなんて分からないじゃないか。だいたい、ひとが踊っているのを見て覚えろっていうこと自体が無理なんだよ。そうしてきみたちはしばらく言い合い、互いに少し不機嫌になって授業を終えるというのが、定番になっていた。無論、ほんの少し時間が過ぎれば、きみたちは簡単に仲直りをしたのだが。

とはいえ、きみは何しろ力技の人間だった。休日に都心に出て、講義でやっているのと同じダンスが載っている教本を探しだすと、翌週の授業を三日休み、ほとんど不眠不休でステップを暗記したのだ。――きょうは完璧だよ。寝不足でくまのできた目で、きみは彼女にいう。不敵に、というよりむしろ不審者のように笑うきみに若干引きつつ、そうなんだ、と彼女は答える。けれど、ペアを組んで踊り始め、踊り終えると、彼女はこらえ切れないように身をよじって笑い出した。なぜかきみまで一緒に講師から注意を受け、まじめに踊ったつもりのきみは憮然とした表情のまま小声で彼女に問う。――なんだよ、ちゃんと間違えずに踊れたろ。完璧だったじゃないか。まだ目じりに笑みを残したままの彼女は、同じように声をひそめて答えた。――確かにステップは間違えなかったけどさ、でもあれじゃロボットだよ。ギクシャクガタガタ、まるで私たちの操る人形みたい。そうして、自分の言葉に再び吹きだし、慌てて口を押える。最初はむっとしていたきみも、そんな彼女を見ているうちにふと可笑しくなり、一緒に笑いだしてしまっていた。

……いつの間にか、バンドの若者たちはいなくなっている。そろそろ夕刻が近づき、行きかう人びとのまとう空気もさっきまでとは異なり、家を感じさせるものになっている。きみも立ち上がり、誰もいない家へと戻っていく。結局のところ、彼女はあまりに繊細だった。だからこそ鋭敏な感覚できみには感じ取れない流れを感じ取り、それに合わせて踊ることができたのかもしれないが、それが幸せなことだったとは、きみにはどうしても思えない。無論、ギクシャクガタガタ、力任せにしか進めないきみが、彼女より幸福だったということでもない。そもそもきみは、前に進んでいるのかどうかすら分からなくなっていた。

近所のコンビニで牛乳を買い、アパートに帰り、階段を上る。ポケットから部屋の鍵がひとつだけぶるさがっているキーホルダーを取りだし、鍵を開け、扉を開く。薄暗い部屋。微かにかび臭い匂い。カロリーメイトと牛乳を冷蔵庫にしまう。もう、あとすることは何もない。

彼女は、きみとは対極にいるひとだった。きみにはついに彼女を救うことができなかった。いや、誰かを救うことなど、誰にもできないことなのかもしれない。それでもきみは、きみに欠けたものを持ち、きみにあるものを持たなかった彼女のことを、どうしてだか、いちばん近い仲間だと思っていたし、いまでもそれは変わらなかった。あのとき覚えたステップを、いまだにきみは忘れないでいる。薄暗いなか、きみは記憶をたどりつつそのステップを踏む。向かにいるのは、もう年を取ることのない彼女の幻。――見ろよ、この完璧なダンス。心から楽しそうに、彼女が身をよじって笑う。――ギクシャクガタガタ、まるでロボットみたいだよ。ほら、もう一度やろうよ。教えてあげるから。

スイッチを入れる。部屋に白く人工的な光が満ちる。漠然とした空腹を感じて、きみはまだ冷えていないカロリーメイトを取り出し、無表情に食べる。その不味さが、まだ彼女のところへ行くときではないと、きみに教えてくれる。

一瞬交差するぼくらの時間

相棒が陶器の小鳥をくれた。むくむくしていて小さくて、ちょっと尊大そうな顔つきが可笑しい。ぼくらが出会ってからの時間を記念してのものだという。

上の写真は、タムロンの60mmで撮ったもの。最近は細かな撮影データとかはどうでも良くなってきた。

昨日、注文していたマウントアダプターが届いた。数年前、彫刻家の家で発見した古いミノルタのAマウントレンズがα300に装着できたのには、(知識としては当然だと分かっていても)感動した。だけれど、父の遺したキヤノンのFDレンズが、いまぼくの使っているα700で使えるというのには、同じくらい感動する。感動というのは安っぽい言葉ではあるけれど、まあ、ぼく自身の感情が安っぽいものだから仕方がないし、安っぽいということが悪いことだというわけでもない。無論良いことでもなく、単にそうだというだけの話。安っぽさや嘘っぽさのなかにも、その奥に「どうしようもないこと」があるのなら、それはその言葉通り、どうしようもないことだ。

ともかく、下の写真は、そのFDレンズで撮った。ぼくが生まれた年に発売されたレンズ。描写の甘さとかなんとか、そういったことはあるかもしれないけれど、でもそんなことはどうでもいい。

相棒とであってから過ぎてきた時間、父がレンズを買ってから過ぎてきた時間、ぼくがみっともなく生き残ってきた時間。そういったあらゆる個別の、唯一の時間の流れが、ある写真の、薄っぺらい表面で、一瞬交差する。交差してまた離れ、それぞれの方向に向かって再びどこまでも流れていく。

ぼくが写真を好きなのは、きっと、ぼくら在るものがそれぞれにそうであるかたちの全体を、一葉の写真があらわしているからなのだとぼくは思っている。

黴て曇ったレンズの向こう

いつも通りノートを抱えて都心に出て、彼女の仕事が終わるのを待ちながら、喫茶店でブログを書いたりしています。のんきな生活。ストレスで耳が聴こえにくく、頭痛でしばしば吐いてしまったり(でも口から出したことはここ数年ないんだよ、と意志の強さを主張すると、むしろそれは頭がどうかしている感じだね、などと言われたりします)、階段から盛大に転げ落ちて足を捻挫したり。だけれど、それでも、ここ数年の柵を絶つなら絶ってしまって良いのだと思い極めてからここしばらくの生活は、わずらわしい雑務、片づけなければならない仕事が山積みではありつつ、どこか奇妙に静かでのんびりとしています。

ぼくは、春が嫌いです。などというと格好つけとか「人とは違う俺凄い」アピールとか思われて困ってしまうのですが、本当のことをいえば他人にどう思われようが困ることなど何もなく、ぼくは春が嫌いなのです。だけれど、小さな虫たちが元気に地面を這いまわり始めるのを見ると、やっぱり、それはそれで幸せだよね、などとも思ったりします。

こう見えて、クラウドリーフさんはけっこうしたたかなひとです。したたかって、強かと書くんですね。なんだか漢字で書くとちょっと印象が変わります。ともかく、忙しいとか体調が悪いとか、言葉通りに捉えない方が良いのです。彼はけっこう、嘘で自分の生活を塗り固め、ないところから時間を無理やり引きずり出し、彼女と旅行に行ったりもしています。普段彼は本を買う以外にお金のかかる娯楽というものを一切しませんし、身だしなみにも気を遣いません(洗濯はしていますが)。ですので、こういうときくらいしかお金を使うことはないのです。少しばかり値の張る旅館などに泊まって、でも、いろいろなものすべてがなんだか寂しくなって、彼女とふたりで、寂しいよね、などと笑いあったりします。

論文を書く暇もなく、仕事の合間に学会絡みの雑務を少しずつ片づけていきます。クラウドリーフさんは相棒が生きている限りは生きるつもりでいるのですが、彼女の家系は長命で、一方、彼の家系はそれほどでもありません。つき合うのはけっこう大変ですが、ともかく、下手をしたらあと60年以上は生きなければならない可能性もあります。いくら嘘に関しては、嘘に関してのみは天才的な技能を持つクラウドリーフさんでも、さすがにあと何十年かを嘘だけで乗り切っていけるだけの自信はありません。いったいどうしたものか。困ったものです。まあ、客観的には道に迷っていても、歩ける体力がある限りは迷ってはいないと思い込んでどこまでも歩いていく彼のことです。何かしらどうかしら、きっとなんとかしていくのではないでしょうか。

昨晩は少し疲れてしまい、公募用の証明写真を撮るついでに買ってきたクリーニングキットで、レンズの手入れをしていました。彼の部屋の押し入れには、昔彼の父が使っていたキヤノンのレンズが眠っています。父の晩年、既にそのレンズにはカビが生えていました。それでも、割れていない限りは、何かしら写るものです。クラウドリーフさんは、いくつかの理由からキヤノンが好きではありません。だけれども、父の若いころに使っていたレンズで何かを撮るというのは、それはそれで、ちょっとした冗談として――どのみち彼の人生など、相棒に関わる以外のことはすべて冗談なのです――洒落たものではないだろうか、などと思っているようです。

ネットで調べてみると、キャノンのレンズをαマウントに装着するためのマウントアダプターは、あまり種類がないようです。Fotodioxというアメリカのメーカーが出しているものがあるそうですが、これは日本で手軽に買えるという感じでもありません。あとは中国製のKT-MAFD-WLというのが手に入るそうで、早速注文してみました。来週には届くでしょうが、それが少しばかり楽しみです。届いたら、α700に父のレンズをつけ、ひさしぶりに御苑にでも行ってみようかと思っています。カビたレンズに無理やりのマウントアダプター。碌な写真など撮れないかもしれませんが、所詮、クラウドリーフさんの眼に映る光景など、世界がそうだから、ではなく、単純に彼自身が腐っているが故に、碌でもない光景ばかりです。

それでも、彼は彼なりにこの世界を愛していると言います。ほんとうかな、とぼくはちょっと疑ったりもしますが、彼の人生が相棒を中心としてまわっているものである以上、そこに冗談が紛れこむ余地はありません。そういった彼の狂気に若干恐怖を感じつつ、それでも、ぼくは彼のそんな生き方が、いまのところは気に入っているのです。

居場所がないなんて言うけどさ

思想系の良いところは……などと一概にいうことはできないけれど、特定のフィールドがなくとも研究ができるというのは、少なくともぼくは気に入っている。もし考えることがあるのなら、そして考えることがあるからこそこんなことをやっているのだけれど、必要なのは自分の頭。あとはせいぜいノートと鉛筆があればこと足りる。読みかけの本を鞄に入れ、都心に出て、どこかしら空いている喫茶店でも探せば、とりあえず数時間はそこが自分の研究拠点になる。いや、研究拠点はいつだって自分の頭のなかにある。

とはいえ、やはり自分の研究室を持てるのであれば、それはそれでとても魅力のある話。正直なところ、関われば関わるほど大学という空間にはほとほと愛想が尽きる。それでも公募情報に目を通したりしているのは、きっと自分の「部屋」を持ちたいからだ。いや、もちろんいまだって自分の部屋くらいはあるのだが、そういう意味ではない。この頭のなかにあるものの具現化。でも、つまらない願望でもある。ほんとうのことを言えば、本だっていらないし、何かを書きのこす必要もないし、場所を持つ必要もない。

いずれにせよ、これはもうはっきりしていることだけれど、千にひとつの偶然でどこかの大学に潜り込めたとしても、ぼくはきっと三年間で弾きだされる/自分を弾きだすことになる。相棒を唯一の例外として、ぼくはそれ以上の期間に渡って、誰かとまともな関係性を保つことができない。いままで所属していた研究室との関係性も、これ以上は続けていくことはできそうもないことがいよいよ明確になってきた。無論、義がある限りにおいては協力を惜しむつもりはないけれど、何人かとの個人的なつながりが微かにでももし残るのであれば、いまはそれで十分だ。

いったい、これは何なのだろうか、と思うことがある。ぼくはそれほど特殊な育ち方をした訳ではない。むしろ平凡の赤道直下を歩き続けてきたような人生だ。にもかかわらず、どこかに居つくことができない。そして、そのことを後悔したことも、苦しいと思ったこともない。いや、存在している以上は苦しいのはあたりまえで、ことさら苦しい苦しいと叫ぶ人間をみても、ぼくは侮蔑と嫌悪しか感じない。生きている限り、ぼくらには義務と苦痛と罪だけがある。義務と苦痛と罪がある限りにおいてのみ、ぼくらは生きている。ぼくは、そう思っている。

ぼくがいた研究室では、脱近代というのがキーワードのひとつだった。らしい。ぼくは落ちこぼれの上に外様だったので、結局最後までその辺の議論にはうまく波長を合わせることができなかったのだけれども、ともかく、そういうことらしい。それはそれで、きっととても重要な論点なのだろう。けれど、ぼくにはどうもそういうものが感覚的によく分からなかった。

ぼくらの生き方や考え方は、なるほど確かにぼくらが生きている時代、あるいは社会によって方向づけられ、制限されている。でも、どちらが正しいということではなく、ぼくは、社会や時代から語り始められる何かに、つまるところあまり興味がない。ぼくの目に映るのはただ、あるひとつの魂の痛みであり、恐怖であり、要するにその魂が存在するということ、それ自体だ。それはあらゆる時代や社会を超えてつねに普遍的に在り続けるもので、かつその瞬間瞬間にのみしか現れない、取り返しのつかないものだ。そこにあるのは価値でも善でも希望でもなく、どうしようもなく、取り返しもつかない、恐ろしいまでに単純な事実としての「在ること」でしかない。

脱近代の話に戻れば、ぼくは仕事柄もあるのか、近代というものに対する肯定的な立場にあるように思われているし、実際、そうなのかもしれない。ただ、本音をいえば、どうだって良いんだよね、とも思っている。どのみち、ネットによって可能になったコミュニケーションが……、などと語るとき、明らかにぼくが指しているものと、肯定否定を問わずそれを語る人びとが指しているものと、一致する部分はほとんどない。肯定的に語るときでも、ぼくに見えているのは、そこにあって剥きだしのまま傷つき、潰されていくひとつの魂だ。肯定的、という言葉自体が問題で、ぼくはそこに、しつこいようだけれども、希望や善をいっさい含むつもりはない。

最近ようやく気づき始めているのは、そして何をいまさらと言われそうだけれど、近代を問い、それに批判的なひとは、これは誤解をしてほしくはないのだけれど、責めているわけでも批判しているわけでもなく、きっと根っからの近代人なのだ。ぼくには、やはり良く分からない。風土や伝統や共同体。実際のところ、ぼくはそういったものの必要性を感じたことはない。場所も、歴史も、仲間もいないけれど、それでも、どうしようもなく「いま、ここ」にぼくの魂が在り、どうしようもなくきみの魂もある。

倫理というものは、究極的には、すべてを剥がされ、剥きだしになった状態で、存在しない神と対峙するときにぼくらに突きつけられる何ものかだ。ぼくらは存在しない神に対して、何もないにも関わらず、にも関わらずだからこそ、俺は俺だ、と答える。そうして、そのただ独りであるということには同時に、独りというものを照射するきみの存在が分ち難く映し出されている。その三角形それ自体にこそ、おそらく倫理が存在している。

***

この数年は、時折訪れる例外的な時期で、いま、ひさしぶりにぼくはぼくなりのかたちに戻りつつあるのを感じる。もちろん、雑務は相変わらずたくさんあるし、公募にだってしつこく応募していくつもりだ。だけれど、それは場所や帰属を求めてのことではない。誰もがそうであるように、ぼくもまた、どこにも結びついてはいないし、同時にどうしようもなくきみに縛りつけられている。真実は、たぶん、ただそれだけだ。

いま、喫茶店にいる。近くの席にはきたならしい声で何かを話している誰々さんたち。きたならしいというのは、声の質のことではない。その存在の在り方だ。

ぼくはもう、自分にとって醜いものに容赦をするのをやめることにした。

いつかきみの乗る舟

まだ誰も乗っていない始発電車。薄暗い窓ガラスに荒んだ顔をした男が映っている。何かを諦めたような、すべてを見下したような、自らを嘲笑しているような目つき。きみは自分の顔から目を逸らす。眺めていて楽しいものではない。もっとも、眺めていて楽しいものなど、既にはるか以前からきみは失ってしまっていたけれど。

日が昇るにつれ、外は徐々に明るくなっていく。もう、窓ガラスに自分の顔は映らない。きみは少しだけほっとして顔を上げる。窓の向こうに流れる景色は、いつしか郊外のものへと移り変わっていく。ごとん、ごとん、と電車はやけに静かに走り続ける。車両に人影はわずかしかなく、どこか霞んで見える。誰も居ないホームに立ち電車を待っていたのはほんの今朝方のことだったような気もするし、何年も昔のことのようにも思える。どのみち、きみをあの世界に繋ぎとめていたすべてをぼんやりとしか思い出せないきみには、何の関係もないことなのかもしれなかった。――つまりこれは……。きみは呟くが、別にその後に続けたい言葉があったわけではない。空腹も眠気も感じないまま、やがて夜が訪れ、再び朝がくる。電車は静かに走り続け、きみは座り続ける。

けれども、やがて電車はとある駅へと到着した。くぐもったアナウンスに耳を澄ませれば、どうやらここが終点らしい。晴れわたっているのに妙に寒々しいホームへときみは降り立つ。駅には改札もなく、ホームの反対側には手すりがあり、その向うの眼下には真青な海が拡がっている。狭く急な階段が海へと続き、他の乗客たちは声もなく並び海へと向かって下りていく。古びて罅の入ったコンクリートを踏みしめ、きみも彼らのあとについていった。

覆うように茂った木々の下を歩き続け、やがて階段を下り切れば、そこはもう突然に砂浜だ。海風は強く、けれども波は穏やかに寄せている。幾艘かの小舟が沖に向かって進んでいくのに気づき、ふと周りを見回せば、さっきまではいたはずの乗客たちはもう誰もいない。波打ち際には一艘の舟が残されており、老人がその傍らに佇んでいた。――あんたも乗るのかい。どこかで見たような気がするその老人をぼんやりと眺めつつ、きみは答える。――どうしようかな……。この舟、どこに行くんですか。老人は苦笑したようだった。――そんなもの、私が知るはずがないだろう。そうして、あんたが知らないはずがないだろう。そんなものなのかもしれないな、ときみは思う。そしてふいに、自分でも思いがけず笑みを浮かべる。――どうした、何か愉快なことでもあったのかね。特に興味もなさそうに訊ねる老人にきみは言った。――いえ、たいしたことでもないんですが……。ぼくはね、子供のころ、船乗りになるのが夢だったんですよ。父がそうだったからっていうだけの、単純な話ですけどね。船乗りになって世界中を旅したかった。結局、そんなものは夢でしかなかったけれど……。嘘みたいな話ですけど、世界中を旅した船乗りの息子がこの国を一歩も出たことがないんです。でもこんなときになって思いがけず舟に乗れて、海の向こうの向こうのもっと向こうにまで行けることになるなんてね。それが少し可笑しくて……。よくよく考えてみれば、可笑しくも何ともないのだが、きみは気が抜けたように俯き、ふふふ、と息を漏らすように笑う。

――むかつくな、あんた、凄えむかつく。突然、押さえてはいるが激しい怒気をこめた言葉を叩きつけられ、きみははっと顔を上げる。そこには先ほどまでいた老人の姿は見えず、少年がひとり、きみを鋭く睨みつけていた。――この舟にあんたは乗せてやらないよ。これは俺の舟だ。昔の夢だ? 莫迦らしい。腐ったやつには腐ったやつにふさわしい行き場があるんだ。さっさと失せろ。その小さな子どもにきみが反論できなかったのは、その子の声にこめられていた蔑みのせいではなかった。そうではなく、そこに隠しようもなく滲みでてしまっていた鋭い悲しみが、きみを黙らせたのだ。――この舟は、楽になりたい、いまから逃げたいなんて思っているやつが乗れるような舟じゃないんだ。どうしても乗りたければ、もう一度、初めから自分で作り直せ。

急に強い風が吹き、潮が強くきみの顔を打つ。思わず両腕で顔を守り、ふと我に返れば、きみは再び電車のなかにいた。正面の薄暗い窓ガラスには、荒んだ顔をした男の顔が映っている。よく知っているその顔には、けれどもいまはただ困惑だけが貼りついている。走行音はうるさく、さらにそれを圧するほどの音量で、車掌が次の停車駅を告げていた。きみの降りる駅だった。

きみはもう誰も居ない駅に降り立つ。どうやら終電だったようだ。眠そうな顔をした駅員の脇を通り、きみは駅の外へと出る。風は冷たく、町は既に眠りに沈んでいる。

――いつかさ、ぼくも自分の船に乗って、父さんみたいに世界中を冒険して周るんだ。記憶の底で、まだ幼いころのきみが楽しそうに話しているのが聴こえる。――ぼくだけの船で、ぼくだけの旅! あ、でも父さんは乗せてあげよう。記憶ではないどこからか、もう誰のものか思い出せない、けれども懐かしい誰かの声が聴こえる。――そうか、それは楽しみだな。そんな日が来るといいな。――絶対来るに決まっているよ。じゃあ、約束しようよ! むきになった子どもの声と、誰かの暖かい笑い声。

暗い道で立ち止まり、きみは呟く。――そんな日が来ると、いいな。