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学会発表が終わり、これでことしの研究活動はとりあえず一区切りです。もちろん、一区切りというのはあくまで外的なスケジュールとしてはということで、研究そのものはいつでもいつまでも続いていきます。まともなプログラマなら誰でもそうだと思いますが(どう表現するかはそれぞれでしょうが)、頭のなかに一つの臓器を作り出して、それは心臓のようにいつでも眠っているあいだでも止まることなくアルゴリズムを組み続けています。その臓器に焼きつけたロジックを何度もなぞり直し、呼吸のようにバグがないかどうかをチェックし続けています。心臓の動きが不随意であるように、それはもうぼくには止めようのないものです。研究も同じです。頭のなかに独立した臓器を作り出す。研究臓器。どくどくどくどく、薄気味悪くけれど避けようもなく、それは何かを齧り続け吐き出し続けています。しかしそれらは同時に動くことはできません。仕事と研究。頭のなかに切り替えスイッチを思い浮かべて、そのスイッチを指で軽く弾きます。ぱちん。いまからぼくは研究頭。もちろん、もちろん、そんなこと、できるはずもありません。それは、つまらない話ですが、気が狂いそうになるほどの苦痛です。「仕事と研究の両立をしているなんて偉いね」と言われてそれはそれでありがとうと思うのですが、現実はそんなに良いお話でもありません。他人の0.6の能力しかないぼくが仕事と研究の双方をしようと思えば、オーバーヘッドの部分を除いておそらく0.2と0.2くらいしか成果を出せない。しかし出せないというのはただの私的な言い訳に過ぎないのでそんなことはおくびにもださず、吐き気がするほどすがすがしく罪悪感の欠片もない嘘によって片足立ちのまますり抜けていきます。とはいえしかし、そうはいってもそれにしても、やはりそれは気が狂いそうな苦痛です。最後は叫びながらへらへらへらへら笑いながら論文を書いたりします。存在しないスイッチを切り替えようと無理やり脳のどこかに指をねじ込むと指が折れたりします。ぼくはいったいどこに何を突っ込んでいたのか。ぶらぶらする指を眺めつつしばし呆然とします。呆然としつつ、明日はふつうに会社です。学会の雑務も山のように残っています。スイッチを切り替えすぎて、何だかどこからか焼け焦げた匂いがしてきます。それでも、講義のコメントシートに、先生のお話は面白いですなどと書かれているのを読むと、頼むから俺のような屑を先生と呼ばないでくれ俺は人間としての屑の極北に在ることに誇りを持っているんだと胸を抉るようにつかみつつごろごろ転げまわりつつ、それでもやはり嬉しかったりします。学会発表面白かったよと言われれば、夜中にげろを吐きつつ口からは出さず気合で飲み込んだりすつつ少しばかり無理をして良かったと思ったりもします。

生きている限り、ぼくらはつねに生きなければなりません。それは死者に対するぼくらの義務であり、生きる苦痛のなかでのみ死者とつながれるという意味においてそれはエクスタシーをぼくらにもたらします。苦しければ苦しいほど、そこには確かに何かがあります。表現できない何か。だけれども、だからこそ、ぼくらは目を閉じたまま、言葉を発しないまま、それに触れ、撫でまわし、漠然とその総体を想像したりします。それはきっと、死んだ後にぼくらの目の前に現れ、あり得ない解像度で見えるナニモノカの予兆でしょう。でもとりあえずは、生きている限りにおいて、走り続けなければなりません。

明後日には、執筆者の片隅に混ぜてもらった書籍が書店に並ぶそうです。出版社から直接購入する場合には著者割引というのがあるそうなのですが、なんとなく、一冊、書店でこっそりひっそり定価で購入し、いまはもういない誰かさんたちとともに、ささやかにお祝いをしようと思っています。

誰それさんの物語

来週からまた講義が始まります。前回よりは面白い講義にしたいので、それなりに資料を集めつつ、講義の準備をしなくてはなりません。今月締切の論文もあるので、なかなかに忙しいです。だけれどもまあ、それについてはどうとでもなります。一年近く……かどうかはもはや思いだせないのですが、ともかく長いあいだ関わっていた論文も、この10月半ばにはようやく出版されるそうです(そのなかの1章を書いているに過ぎませんが)。みなさんの目に触れることはまずないかと思いますが、このブログの雰囲気にかなり近い内容ですので、もしお読みいただければ、ああこれはあれが書いたものだなと、きっとお分かりいただけるだろうとも思ったりします。そういった偶然の出会いというか何というか、それがぼくは好きなんです。

名前とかって重いじゃないですか。ぼくは重いんですよね。声の大きさってつらいじゃないですか。ぼくはつらいんですよ(白目)。誰が、なんてことは本当にどうでもよくて、誰かさんでかまわないわけです。たまたま手に取った本のページの隙間から微かに聴こえてくる誰かさんの声。偶然それが誰それさんに届くことを夢想しているときが、何だかんだでいちばん幸福なのかもしれません。

話がずれていくわけですけれども、だから、ぼくはアイデンティティの危機云々というお話には、基本的にはほとんど関心がないのです。先日、相棒と二人でとある美術展に行ったとき、あるひとの作品に記されたサインが何故だか本当に嫌で嫌で、彼女とため息をついてしまいました。

アイデンティティなんてものは、在るとすればどうしようもなく在るのだし、同時に、別段なくたってどうということもないものです。もちろん、そんなことを言えるのは、「在るとすればどうしようもなく在るのだし、同時に、別段なくたってどうということもないもの」だと言いきってしまえる誰それさんだけであって、アイデンティティの危機に苦しむ誰かにとってそれは、在ることに確信を持てず、ないかもしれないことへの途轍もない恐怖を抱えているわけですから、話は平行線になってしまうのですが……。

ぼくは神を一切信じてはいませんが、人間の魂が不壊であることは知っています。この「ぼく」という、社会的に、言語的にあるいは生物学的に規定された特定の構造をはるかに超えたところにある、透明で無音で、だけれども荒々しくうねり、決して到達し得ない究極へと突き進み続けるナニモノかが在ることを確かに知っています。何か変な宗教みたいですね。

* * *

最近あまりにも憂鬱なことが多いので、数日のあいだ、口をぱっくり開けて涎を垂らしながら、自分を自分だと意識している自分ってどこにいるのかな、などと身体のなかを探っていました。自分、要するに無音でも透明でもないこのぼくという有限で刹那的な誰かのことです。こういうのってチョータノシイ(裏声)! で、まあこれはあくまで主観ですけれども、どうも指先には「ぼく」はいないように感じる。肘とか腰にもいなさそうですし、背中にも肩にもいなさそうです。それはそうで、現代自然科学の影響下にあるぼくらは、それが頭にあると自然に思ってしまっている。でも頭といっても大きいわけで、もう少し場所を突き詰めたい。いや何のメリットもないのですが。

ぼくは頭痛持ちでして、頭痛が酷いときには脳の一部がブラックアウトしているのをリアルに感じます。他のひとはどうなんだろう……。で、そのブラックアウトしている部分というのは、頭の中心部分なのですね。あ、当然ですが、この話、一切の科学的根拠とかないですよ。もちろんブラックアウトしていても自分という意識はあって、それが、電源断で真暗になった脳の中心を眺めているのを感じます。誰、なんていう話は、所詮そんなものです。頭蓋骨の裏側をのたのた無様に這いまわっている幽霊みたいなもの。もちろん、だからこそ愛しいということもまた確かです。

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在郷軍人病ってご存知でしょうか。ぼくも知らないのですが、子供のころ、何かで読んだか聞いたかしたのです。いまWikipediaを読んでみると、1976年、ペンシルベニア州の在郷軍人会において、近くの冷却塔から排出されたエアロゾル経由で多くの人びとがレジオネラ肺炎となり、そこからこの名前がついたとのことです。どこでそんなことを知ったのかはもはや覚えていませんが、あるとき、ぼくは父に言いました。在郷軍人病って知っている? 父は即座に、そんな病気あるわけないよ、と言いました。確かに奇妙な名前ですが、どうもぼくの血筋というのは、根拠もなしに断言するひとが多いようです。ぼく自身そのサラブレッドなんですけれど、困ったものですね。ともかく、父に否定されたからといって大人しく引き下がるような子供ではありません。へへん、在郷軍人病も知らないなんてとんだ無知だね、困っちゃうね、恥ずかしいね。もちろん、そんなことを言うぼくだって、在郷軍人病が何かなんて知りもしないのです。昔はインターネットなどありませんでしたから、ちょちょっと調べることもできません。結局そのときは、互いの無知を憐れみあって終わりました。

それから何年もして、あれはもうぼくが会社に勤めたあとでしょうか。再びぼくは、父に在郷軍人病の話をしました。このときは、本だか新聞だか忘れましたが、ともかく何か資料があったのです。すると父は、ああそう、そういう病気があるの、ふーん、という極めて薄い反応しか示しませんでした。考えてみればこれは当然で、むしろあのときあるとかないとか言い争っていた必死さのほうが不思議なのですが、ぼくとしては何年か越しの怨念の持って行き場がありません。いやだってあのときあなた凄い否定したじゃないですか、と言っても、そうかしら、としか戻ってこないことの虚しさ、侘しさ。いやそこまで思っているわけでは無論なくて、コンコンチクチクコンチクショウ、くらいにしか感じてはいないのですが、それにしてもどうして在郷軍人病などという言葉がそこまでぼくにとって引っかかるものになったのか。

我ながら不思議ですが、いまでもぼくは、街を歩いていて空調の排気やら冷暖房の風がぶわっと吹いてくるところを歩くときなど(しかしこれ、関係があるのでしょうか、分かりません)、あっ、危ない、などと思いつつ、あの二度に渡る父とのやり取りを必ず思いだしながら息を止めて通り過ぎたりするのです。

* * *

それは、確かにぼくのなかにある、忘れることのできない記憶のひとつです。だけれども、誰の頭のなかにあったって良いのです。父とのやりとりや、ぼくが街中を歩いているときの奇妙な習性、そういったすべてのことを含め、それは誰でも良い誰それさんの頭のなかにあって、誰もが知っている、けれど誰のものでもないここではないどこかを漂っています。誰かさんと誰かさんの共有した時間として、それは永遠に在り続けています。

窓ガラスなんてぶち破れるよね、高いから躊躇っちゃうけど

数日前、ひさしぶりにオアゾの丸善を覗いてきた。いきなり少し脱線するけれど、書店の店員の劣化には毎回驚く。ぼくは過去を賛美するようなあらゆる言説に対して反吐がでる性質の人間だ。けれども、記憶にある限りでは行くたびにひどくなっているように思う。無論、すべての店員さんがそうだというのではない。でもかなり目につく程度に、本を商品として扱う人が多いように感じる。いや、書店で本が商品なのはあたりまえでしょ、ときみが思うのであれば、それはそれで良い。もちろん、きみは間違っていない。きみはこの世界の神に祝福されている。

ぼくが主に眺めるのは哲学、情報系の棚となる。昔は小説が中心だったけれど、もうそれはこの人生において十分すぎるほど手元にあるので、最近は昔ほどの熱意を持って知らない作家を探そうという気持ちにならない。問題は、哲学や情報系(メディア系も含む)を探しても、自分がほんとうに読みたいようなものが見つからないということだ。どれも、インターネットやらの新しい技術によって新しい理想的な――問題があるにせよ人間が乗り越えられる――社会が到来するとか、あるいはそういった技術が人間存在を脅かすと主張している。もうそれだけで、少なくともぼくは、読む気を失う。そこには何もリアルな生が書かれていない。あるメディアが現れたとき、そこにそのメディア特有のコミュニケーション形態が生まれるのは当たり前のことだ。そうして、コミュニケーション形態が変化するのであれば、社会構造が変化するのも当たり前だろう。だけれどもそれは、結局のところただそれだけのことでしかない。

ぼくにとって重要なのは、どのようなメディアによってであれ、何よりもまずそこにはそれによって何かを発しようとしてもがいている誰かさんが、あるいは望むと望まざるとに関わらず発せられた何かによって刺し殺されている誰かさんがいるということだ。その誰かさんの「どうしようもなく在ること」を問わずに為されるあらゆる言説は、所詮、肯定否定を問わずに技術論に過ぎない。テクノロジーはひとの役に立つかもしれないね。でも立たないかもしれないね。ぼくらはもっと利口になって、道具を使いこなさないといけないのかもしれないね。やっぱり使いこなせないからそういった技術は否定すべきだね。それはそれで結構なことだ。存分に議論をすればいい。朝のコーヒーを飲むマグカップをどうするか。マグカップで飲むべきか、マグカップとは何か、それによってコーヒーの味は変わるのか、そもそもコーヒーを飲むべきか? それはそれで、もちろん十分に意味がある。けれども、それを飲む/飲まない誰かさんって、いったい誰なんだろう。

そこにあるものが何であれ、発し、発せられるぼくらが最後に死すべきぼくらであるということはつねに変わらない。最後に死すべきぼくらだから、ぼくらは発し発せられる。発し発せられるなかでのみ、ぼくらは最後に死すべきぼくらとして顕れる。そこに直接結びつけられたものとして語られるのではないネット社会の分析など、通販で手に入れたインテリア程度の意味しかない。要するに、そこにはリアルがいっさい存在しない。当たり前だ。通販で手に入れたインテリアに美を見いだすのも、これは芸術ではないというのも、あるいはどこをどう結んだのか、だから現代芸術はダメなんだと嘆くのも、みなあまりに莫迦げている。なぜなら、単にそれは、そんなものではないからだ。

多くのメディア論研究者が、モニタに映るものをまさにWindowsだと思っている。窓越しに眺める、このぼくとは切り離された世界。リアルとバーチャルの境界線。

ぼくはホラー映画がけっこう好きだ。後味の悪さがホラー映画の必須条件だなどという阿呆な意見には同意しないが、まあそれはどうでもいい。海外のホラー映画を観ていると、襲われているときに窓を閉め、これであんしーん、などと呑気に構えている人物が登場したりする。そして案の定、ガラス窓を破られてゾンビやシリアルキラーが入り込んでくる。ちなみに、ぼくが住んでいる家はスチール製の(古臭くて無駄に頑丈な)雨戸がある。雨戸のない窓にはすべて金属製の格子がついている。扉にはチェーンと2つの独立した鍵がついている。どんな監獄だよ! という気がしないでもないが、防御力はばっちりだ。などと思っていると火事になって家を出ざるを得なくなったりするから油断はならない。

ともかく、WindowsをWindowsだと思うこと、リアルとバーチャルには境界線があると思うことは、ホラー映画の登場人物と同じ愚を犯すことでしかない。確かに、バーチャルは存在するだろう。だけれども、それはリアルに対する「バーチャル」を想定するという枠組みそのもののなかにこそ存在する。ぼくはそういった言説を心底嫌悪する。それは結局のところ、リアルを否定するものだからだ。ぼくらの生はつねにリアルだし、同時につねにバーチャルでもある。リアルとバーチャルの入り混じり、その混沌のなかにこそ、本来の意味でのリアルが浮かび上がってくる。

などとまあ、自分でも何を言っているのかよく分からないけれど――本当はよく分かっているさ、この混乱した文章はあくまで計算し尽くされたレトリックだよ、と恰好をつけて言ってみたりする――いずれにせよ、ぼくはリアルなものを書きたい。いろいろな制約のなかで、それは必ずしも果たせないけれど、もがくだけの価値はある。いや、価値の有無を超えて、それしかやりようがないからそうするしかない。そして案外、ぼくは楽天的だ。大学やら学会やら、そんなところで通じなくとも、ぼくはけっこう、この訳の分からないものが訳の分からないまま、訳の分からないものとしてきみに伝わるのではないかと、無根拠に、そして寂しさを込めて楽観している。

Hello world

新しく配属されてきた新人たちに名刺交換の仕方を教えながら、何だか無駄だよなという気持ちをきみは抑えることができない。こんなもの、マニュアル本でも一冊読めば十分なのではないだろうか。もっとも、きみはそんな本があるのかどうか知りはしないし、興味もない。それでも、表面的には優しい先輩のふりをして、受け取った名刺の置き方なんかを指導している。まっとうな社会人などというものからかけ離れた自分が新人研修を担当していることの莫迦莫迦しさに思わず失笑しかけ、怪訝そうな顔をする新人に、いやいや何でもないよと誤魔化す。
きみが好きなのはプログラミング研修だ。これなら、きみにも違和感なく教えられる。何しろプログラミングこそはきみの天職だった。もっとも、会社員としての常識を教えるときに比べ、きみのプログラミング研修は上司たちからは評判が悪かった。もちろん基礎はきちんと教えたけれど、きみがいちばん時間をかけるのが、会社の求めているようなスキルではなかったからだろう。例えばいちばん初め、お約束としてHello worldを教えるときでも、きみはすぐに脱線してしまう。――Hello worldって言うけどさ、このworldって何のことだろうね。誰がどの世界に向かって言っているのかなとかって考えてみると面白くないかな。無論、プログラミングなどほとんど初めてという新人たちの大半は、きみが何をいっているのか分からずに困惑するばかりだ。――たとえば初めてプログラムを作るきみたちが、コンピュータのなかの世界に向かってこんにちはって言っているのかもしれない。逆にきみたちが生みだしたプログラムが、コンソールを通してこの世界に、あるいは自分を生みだしたきみたちにこんにちはって言っているのかもしれない。あるいはそもそも……。きみはどこか夢見るように話し続ける。それでも、上司たちの受けはともかくとして、きみのそんな研修は新人たちには案外人気があった。きみが働いている小さなソフトウェアハウスに入社するのは、プログラミング経験のまったくない文系出身者が多かった。そんな彼らにとってきみの研修は、ほどよく適当にコンピュータに対する身構えをとりのぞくのかもしれなかった。

高校のころのきみは、大学に進んだら天文学をやろうと思っていた。けれども受験したほぼすべての大学を落ち、唯一受かった大学へ否応もなく進学したとき、コンピュータに触れたことさえなかったきみは、なぜか情報科学専攻を選択していた。生物や物理や化学は実験系が必修で、集団作業が苦手なきみにはとても無理だと気づいたからかもしれない。そして数学はといえば、きみには明らかにその方面の才能がなかった。
けれども自分でも驚いたことに、きみはそこで意外な才能を発揮した。プログラミング実習で、コンソール上にオセロのマス目を書くという課題が与えられたとき、それは本当にただそれだけのシンプルなものだったのだが、きみは三日ほど徹夜をして簡単なゲームを作り上げた。それはきみが生まれて初めて寝食を忘れて打ち込んだ経験だった。もっとも、ゲームとしてのできはそれなりだったが、試しにクラスメートに遊んでもらうと、数回に一回は勝てる程度には賢いものだった。きみはその課題で”e”、すなわちexcellentを取った。教授がそのeの上に手書きで赤く書いた”++”の記号が、きみにはとても嬉しかった。
もともと対人恐怖症気味だったきみは、きっとその大学の雰囲気に馴染めなかったのだろう。徐々に人の輪から外れるようになり、大学へ行っても芝生の上で寝転がり、猫を撫でながら空を眺めているか、コンピュータルームで課題に必要以上の質で応えようとしているかのどちらかになっていた。それでも、初めのころに無理やり誘われて入った部で知り合った女の子とつき合うようになり、彼女といるときだけはきみもプログラムのことなど忘れ、街に出てぎこちなくデートの真似事などをした。それはそれで、幸せな青春時代だったかもしれない。

いまになって、きみはそんな風に思う。そんな風に思うのは、けれども、きみが十分に年を取り、あの当時からそれだけ遠ざかったからだ。きみが与えた課題を真面目にこなしている新人たちを眺めながら、きみはそんなことを思う。――できました、と一人の子が声を上げ、きみはモニタ上の短いソースコードを背後から覗き込む。――良い出来だね。でも一箇所明らかなバグがあるよ。えーっ、と心底残念そうに溜息をつくその子に、ふと昔の彼女の面影を見いだし、きみはその記憶にそっと微笑む。きみの彼女もプログラムが苦手だった。一度だけ、彼女が単位を埋めるために嫌々プログラミング実習を受講したとき、課題を手伝うきみは、彼女としばしば喧嘩をした。きみには当たり前のことが、彼女にはそうではなかった。彼女には当然のことが、きみには理解できなかった。それでも、どうにか課題を片づけてしまえば、きみたちはいつも通り仲の良い二人に戻った。
いま、きみが一生懸命にプログラミングをしている若手を見て感じるのは、葉の上にいる天道虫を眺めるときと同じ程度の微笑ましさでしかない。きみは自分がひととして何かを失ってしまっていることに気づいていた。それでも、きみなりの形で、若手がこの世界で潰されないように、それなりにしたたかに生き延びていく手助けをできればと、それは心から願っていた。

新人研修の担当は、たいてい、古株の社員には嫌がられる。新人の面倒を見つつも自分の作業が減るわけではないから、要は負担が倍に増えてしまう。新人たちを定時で帰し、きみは自分の仕事に手をつける。終わるころには終電近くになっているが、誰かが家で待っているわけでもない。セキュリティをセットしてオフィスを出てからアパートの部屋の扉を開けるまで、きみにはほとんど記憶が残っていないが、それはいつものことだ。家具もほとんどなく、清潔だけれどもどこかかび臭い部屋に入り、きみはパソコンの電源を入れる。部屋の電気をつけるよりも先に、きみはそうする。暗い部屋が蒼白く照らされる。

夜中にふと目が醒め、枕元のノートを開く。デスクトップの片隅に置かれたkadai1.exeという、どうしようもない名前をつけられたファイルをダブルクリックする。dos窓が開き、きみが昔作った――実際にはコンパイルし直したものだが――プログラムが動きだす。単純なインターフェイス、単純なアルゴリズム。目を瞑っていてもきみが負けることはない。頭の片隅で、まだきみたちが本当に若かったころ、そのゲームに負けて悔しがる彼女の声が響く。――だいたい、あのHello worldっていうのもふざけているわよね、と彼女は八つ当たりのように言う。きみは苦笑いをするしかない。――でもHello worldって、何だか気の重い言葉だなあ。不意に、彼女の声が暗く落ち込む。――どうしてさ。コンニチハセカイなんて、ちょっと可愛いじゃないか。彼女は首を振る。――私たち、このままいけばあと二年後には卒業して社会に出るじゃない。でも何だか実感がわかないし、自信もないのよね。きみにもそれは痛いほどよく分かったけれども、でも、答えは分からなかった。だからきみは軽薄な笑いで覆い隠すしかなかった。――実感がわかないっていうのはぼくもそうだよ。何しろ進級さえ危ういんだからね……。彼女はやれやれというように笑い、きみの肩を軽く叩く。――きみはもっとしっかりしゃなくちゃ、だよ。まったくもう。そうして、――コンニチハセカイ、って、確かにちょっと可愛いわね……、と呟いた。きみたちは二人で笑いあった。

――きょうはね、一日かけて良いから、きみたちがいま持っている知識で、何か簡単なゲームを作ってみよう。課題はそれだけ。条件も何もなし。ぼくからはこれ以上の指示はしないから、質問があったらいつでも訊きにくるように。ある朝、新人たちにきみはそんなことを言う。こういう自由な課題というのがなかなか厳しいものだということは分かっているから、とにかく楽しく作ればいいんだよ、とアドバイスをしておく。自分の仕事を片づけながら、新人たちの質問に答える。夕方、新人の一人がきみの席に来る。――先輩、課題ができました。――早かったね、ときみは言い、その子の席へ行く。たった6×6マスのオセロゲームが、モニタ上で入力を待っている。――遊んでみてください、という彼女の言葉に頷き、きみはマウスをクリックする。単純ではあるけれど、きちんと動作するだけでも大したものだ。――良いできじゃない。きみは本心からそう褒める。――まだまだ。クリアしてください。きみは言われるがままにあと数回クリックを繰り返す。シンプルなアルゴリズムに負けるはずもなく、ゲームは圧倒的に白のきみの勝利となる。するとチープなファンファーレとともに、マス目が反転して”Hello world”という文字が点滅した。あまりの下らなさにきみは思わず声を出して笑ってしまう。――Hello world、だね。きみがまだ笑いを残しながらそう言う。彼女も恥ずかしそうに、――Hello world、ですね、と答える。

生きているきみに生きているぼくは

例えば苦しい思いをしている誰かに対して、私も昔はつらい思いをしてね、と語りかけること。もしかすると、それは意味があることなのかもしれない。それが誰かを救うことになるのかもしれない。けれども、ぼくはどうしても、そういった言葉に対して違和感を感じてしまう。なぜなら、だってあんた所詮は生き残っているじゃねえか、と思ってしまうからだ。無論、それは素晴らしいことだ、きっと。そうして、そういった言葉によって救われる誰かさんがいるとすれば、それも素晴らしいことだ。だけれども、やはり違うとぼくのなかの何かが呟いている。そのときそれは、結局のところ生き残った人間が生き残った人間に語った言葉に過ぎない。伝えられたという事実は、成功した、正義の、善意の、理性によって理解できる、分かりあえる、希望に満ちた言葉をしか残さない。

でもそうではない。ぼくらが本当に言わなければならなかったのは、聴かなければならなかったのは、ついに届くことのなかった言葉だったはずだ。ついに誰にも聴かれずに消えてしまった言葉だったはずだ。誰にも聴かれない言葉を残してこの世界から退場した誰かさんを前にして(しかしそれは決して前にできないという意味でのみ前にするということだ)、ぼくらは、生き残っているというただそれだけで暴力の波動を撒き散らしている。そうして時折、あるいはつねに、厚顔無恥にも言葉を発しさえする。きみを救う言葉などと思い上がり、残酷な暴力の塊を気分よく嘔吐する。

それはぼくとて同じことだ。ぼくにはどこかで、自分自身を含め、生き残った人間に対する憎悪がある。生きているということは、あまりにも醜い。それがぼくらの原罪だ。そして原罪である以上、ぼくらはそれを抱えたまま、なお生き残っていかなければならない。生きることは、生きている限りにおいて、ぼくらの義務だ。だからといってそれを当然のこととして居直るのであれば、それは本当の意味で救いのない醜さとなる。

「私も昔はとてもつらい思いをしてね……」「あのとき、あの言葉によって救われました」何れにせよ何にせよ、結局きみは生き残っているじゃないか。

最後には頭がどうかしていると思われるばかりだから、もう半分は伝わらないのだと諦めているけれど、ぼくがいつでも強迫観念のように追いつめられているのは、では、つらい思いをしてそこでお終い、死んでいった誰かさんはどうなのかということだ。あのとき、あの言葉によって、あの出来事によって、あの出会いによって救われなかった誰それさんはどうなのか、ということだ。だけれど、この世界から神を差し引いたとき、ぼくらは絶対にこの問いに答えることはできない。答えることができないから、ぼくらはそれを「議論の出発点」とか「解決すべき問題」とか「不幸な歴史」にしてしまう。そうして、聴こえない言葉は聴かないことにする。届かない言葉は言わないことにする。未来のことにだけ眼を向けることにする。だからぼくらには可能になる。恥知らずにも、きみを救うための言葉、などというものを発することが。

いや、きっとそれだけではないのだろう。もっと、人間性とやらを信頼すべきなのかもしれない。誰かさんが誰かさんに何かを言って、それで誰かさんが(それはどっちの誰かさんだろう)救われてハッピーエンド。でも、どうしてもぼくにはそこに意味があるように思えない。人間性があるから信頼するのであれば、それは当たり前のことだ。もし信頼というものに意味があるのであれば、それは人間性がないにもかかわらず信頼するからこそではないのだろうか。

コミュニケーションについても同様。もう聴くことのできない誰かさんに何かを語ること、もう語ることのできない誰かさんの言葉に耳を傾けること。それをコミュニケーションだとぼくは思う。その初手で、もう、論文でも学会発表でも、誰にも理解はされなくなる。だけれども、それでいい。ぼくもきみも、所詮は醜く生き残った人間だ。生きているだけでいまはもういない誰かさんたちに対して暴力を振るい続けるしかない原罪を背負った人間だ。

少なくともぼくは、自分が醜く生き残り、醜く生き残るしかないということを知っている。

私は結界を張る

信仰心の対極にあるにもかかわらず神学士を持っているクラウドリーフさんは、同じように、土を触れないにも関わらず農学の博士号を持っています。最近、とある事情があって、ほんの数日ですが、小さな植木鉢を家のなかに入れなければならなくなりました。いったいそれがどうしたというのでしょうか。普通のひとには分からないかもしれませんが、土を怖れるクラウドリーフさんにとっては生命の危険を感じる非常事態です。いえ、土そのものが怖いわけではありません。土のなかに潜む、あのあれ、あれあれ、口にだすことすら憚れる名状しがたきあの者どもが怖い。鉢植えのなかとか、想像するだにふんぐるいむぐるうなふという感じです。手のひらに載るような植木鉢ですが、もうそれだけで、その鉢植えを中心に家全体が不定形の悪夢に満ちた異界へと変貌します。気分はもうエイリアンのシガニー・ウィーバーです。「なーに、たかが有機体じゃないか」その有機体が怖いっつってんだよ! と彼は映画に逆切れします。

けれども、クラウドリーフさんはこれでなかなか才能ある魔法使いなのです。彼は台所に行くと何やら持ちだしてきて、さっそく植木鉢の周りを大きく取り囲むように結界を張りました。そう、塩です。ぼくの、いや違うクラウドリーフさんの苦手なあれは塩が苦手なので、出てきたとしてもびっくり、慌てて植木鉢へと引き返していくことでしょう。

これは、歴とした魔術です。クラウドリーフさんは、妙に座った目つきでそんなことを言います。彼は自分のことを20世紀最高の合理主義者などと思っていますが、同時に魔法を使うこともできると思っています。別段、それは彼のなかで矛盾するものではありません。というより、矛盾などあってあたりまえです。ぼくは本当に嫌いなんですけれども、何かっていうと「西洋」に対する「東洋」みたいなものを持ち出したり、あるいは「一神教」に「多神教」を対置したりすることってありますよね。で、たいていそういう文脈だと二元論はダメだみたいな話になるけれど、その主張自体が二元論だったりして、聞いているとその浅薄さに頭がどうかしそうになります。

もちろん、その混沌を混沌として受け止めるだけではなくて、そこに言葉でもってあるかたちを呼びだすこともできるし、ぼくらはつねにそうしている。でも、それだって立派な魔術です。それは理性なんかではなくて、何よりもまずはじめに魔術なんですね。言葉が持っている力というのは、そういうものです。混沌とした世界に全面的に触れているぼくらから生みだされるからこそ力を持つ。直感的にそのことを理解していないのであれば、結局のところそれは魔術を使うのではなく、魔術に使われているに過ぎない。そう考えてみると、研究者を名乗る多くの人びとがつまるところ式神のようなものでしかないということにも納得がいきます。

ある日、とある裏通りを歩いていました。すると何やら微かな噴出音とともに、化学的な匂いがただよってきます。「うっ!」クラウドリーフさんは呻きます。これは殺虫剤です。草生した敷地のむこうに古びたアパートがあるのですが、その一階の部屋で、おじいさんが殺虫剤を噴射しているようです。ゴキブリでもいたのでしょうか。少しもごもごした声で、おじいさんが「死ねよ」と言っています。クラウドリーフさんはこういうときだけ無駄に耳が良いので、微かに届く様々な音から、その部屋の光景をまざまざと思い浮かべることができます。「死ねよ」ふたたびおじいさんが冷静な憎しみをこめていいます。呟くでも叫ぶでもない、その自然な発声が逆に鬼気迫る雰囲気を生みだしています。ともかく、クラウドリーフさんはその言葉と殺虫剤によって死にそうになります。這う這うの体でそのアパートから遠ざかりました。

家に帰り結界を確認すると、どうやら最初から失敗していたらしく、大きく抜け道があることに気づきました。所詮、クラウドリーフさんの魔法なんてこんなものです。まあ、それはそれだと彼は諦めます。その抜け道から何がでてきたのか、そもそも植木鉢のなかには何かがいたのか? 彼には何も分かりません。家のなかは既に太古の恐怖に満ちた暗黒宇宙と化しています。だけれどもその混沌と恐怖が、彼にとってはなぜか心地よいのです。