新しく配属されてきた新人たちに名刺交換の仕方を教えながら、何だか無駄だよなという気持ちをきみは抑えることができない。こんなもの、マニュアル本でも一冊読めば十分なのではないだろうか。もっとも、きみはそんな本があるのかどうか知りはしないし、興味もない。それでも、表面的には優しい先輩のふりをして、受け取った名刺の置き方なんかを指導している。まっとうな社会人などというものからかけ離れた自分が新人研修を担当していることの莫迦莫迦しさに思わず失笑しかけ、怪訝そうな顔をする新人に、いやいや何でもないよと誤魔化す。
きみが好きなのはプログラミング研修だ。これなら、きみにも違和感なく教えられる。何しろプログラミングこそはきみの天職だった。もっとも、会社員としての常識を教えるときに比べ、きみのプログラミング研修は上司たちからは評判が悪かった。もちろん基礎はきちんと教えたけれど、きみがいちばん時間をかけるのが、会社の求めているようなスキルではなかったからだろう。例えばいちばん初め、お約束としてHello worldを教えるときでも、きみはすぐに脱線してしまう。――Hello worldって言うけどさ、このworldって何のことだろうね。誰がどの世界に向かって言っているのかなとかって考えてみると面白くないかな。無論、プログラミングなどほとんど初めてという新人たちの大半は、きみが何をいっているのか分からずに困惑するばかりだ。――たとえば初めてプログラムを作るきみたちが、コンピュータのなかの世界に向かってこんにちはって言っているのかもしれない。逆にきみたちが生みだしたプログラムが、コンソールを通してこの世界に、あるいは自分を生みだしたきみたちにこんにちはって言っているのかもしれない。あるいはそもそも……。きみはどこか夢見るように話し続ける。それでも、上司たちの受けはともかくとして、きみのそんな研修は新人たちには案外人気があった。きみが働いている小さなソフトウェアハウスに入社するのは、プログラミング経験のまったくない文系出身者が多かった。そんな彼らにとってきみの研修は、ほどよく適当にコンピュータに対する身構えをとりのぞくのかもしれなかった。
高校のころのきみは、大学に進んだら天文学をやろうと思っていた。けれども受験したほぼすべての大学を落ち、唯一受かった大学へ否応もなく進学したとき、コンピュータに触れたことさえなかったきみは、なぜか情報科学専攻を選択していた。生物や物理や化学は実験系が必修で、集団作業が苦手なきみにはとても無理だと気づいたからかもしれない。そして数学はといえば、きみには明らかにその方面の才能がなかった。
けれども自分でも驚いたことに、きみはそこで意外な才能を発揮した。プログラミング実習で、コンソール上にオセロのマス目を書くという課題が与えられたとき、それは本当にただそれだけのシンプルなものだったのだが、きみは三日ほど徹夜をして簡単なゲームを作り上げた。それはきみが生まれて初めて寝食を忘れて打ち込んだ経験だった。もっとも、ゲームとしてのできはそれなりだったが、試しにクラスメートに遊んでもらうと、数回に一回は勝てる程度には賢いものだった。きみはその課題で”e”、すなわちexcellentを取った。教授がそのeの上に手書きで赤く書いた”++”の記号が、きみにはとても嬉しかった。
もともと対人恐怖症気味だったきみは、きっとその大学の雰囲気に馴染めなかったのだろう。徐々に人の輪から外れるようになり、大学へ行っても芝生の上で寝転がり、猫を撫でながら空を眺めているか、コンピュータルームで課題に必要以上の質で応えようとしているかのどちらかになっていた。それでも、初めのころに無理やり誘われて入った部で知り合った女の子とつき合うようになり、彼女といるときだけはきみもプログラムのことなど忘れ、街に出てぎこちなくデートの真似事などをした。それはそれで、幸せな青春時代だったかもしれない。
いまになって、きみはそんな風に思う。そんな風に思うのは、けれども、きみが十分に年を取り、あの当時からそれだけ遠ざかったからだ。きみが与えた課題を真面目にこなしている新人たちを眺めながら、きみはそんなことを思う。――できました、と一人の子が声を上げ、きみはモニタ上の短いソースコードを背後から覗き込む。――良い出来だね。でも一箇所明らかなバグがあるよ。えーっ、と心底残念そうに溜息をつくその子に、ふと昔の彼女の面影を見いだし、きみはその記憶にそっと微笑む。きみの彼女もプログラムが苦手だった。一度だけ、彼女が単位を埋めるために嫌々プログラミング実習を受講したとき、課題を手伝うきみは、彼女としばしば喧嘩をした。きみには当たり前のことが、彼女にはそうではなかった。彼女には当然のことが、きみには理解できなかった。それでも、どうにか課題を片づけてしまえば、きみたちはいつも通り仲の良い二人に戻った。
いま、きみが一生懸命にプログラミングをしている若手を見て感じるのは、葉の上にいる天道虫を眺めるときと同じ程度の微笑ましさでしかない。きみは自分がひととして何かを失ってしまっていることに気づいていた。それでも、きみなりの形で、若手がこの世界で潰されないように、それなりにしたたかに生き延びていく手助けをできればと、それは心から願っていた。
新人研修の担当は、たいてい、古株の社員には嫌がられる。新人の面倒を見つつも自分の作業が減るわけではないから、要は負担が倍に増えてしまう。新人たちを定時で帰し、きみは自分の仕事に手をつける。終わるころには終電近くになっているが、誰かが家で待っているわけでもない。セキュリティをセットしてオフィスを出てからアパートの部屋の扉を開けるまで、きみにはほとんど記憶が残っていないが、それはいつものことだ。家具もほとんどなく、清潔だけれどもどこかかび臭い部屋に入り、きみはパソコンの電源を入れる。部屋の電気をつけるよりも先に、きみはそうする。暗い部屋が蒼白く照らされる。
夜中にふと目が醒め、枕元のノートを開く。デスクトップの片隅に置かれたkadai1.exeという、どうしようもない名前をつけられたファイルをダブルクリックする。dos窓が開き、きみが昔作った――実際にはコンパイルし直したものだが――プログラムが動きだす。単純なインターフェイス、単純なアルゴリズム。目を瞑っていてもきみが負けることはない。頭の片隅で、まだきみたちが本当に若かったころ、そのゲームに負けて悔しがる彼女の声が響く。――だいたい、あのHello worldっていうのもふざけているわよね、と彼女は八つ当たりのように言う。きみは苦笑いをするしかない。――でもHello worldって、何だか気の重い言葉だなあ。不意に、彼女の声が暗く落ち込む。――どうしてさ。コンニチハセカイなんて、ちょっと可愛いじゃないか。彼女は首を振る。――私たち、このままいけばあと二年後には卒業して社会に出るじゃない。でも何だか実感がわかないし、自信もないのよね。きみにもそれは痛いほどよく分かったけれども、でも、答えは分からなかった。だからきみは軽薄な笑いで覆い隠すしかなかった。――実感がわかないっていうのはぼくもそうだよ。何しろ進級さえ危ういんだからね……。彼女はやれやれというように笑い、きみの肩を軽く叩く。――きみはもっとしっかりしゃなくちゃ、だよ。まったくもう。そうして、――コンニチハセカイ、って、確かにちょっと可愛いわね……、と呟いた。きみたちは二人で笑いあった。
――きょうはね、一日かけて良いから、きみたちがいま持っている知識で、何か簡単なゲームを作ってみよう。課題はそれだけ。条件も何もなし。ぼくからはこれ以上の指示はしないから、質問があったらいつでも訊きにくるように。ある朝、新人たちにきみはそんなことを言う。こういう自由な課題というのがなかなか厳しいものだということは分かっているから、とにかく楽しく作ればいいんだよ、とアドバイスをしておく。自分の仕事を片づけながら、新人たちの質問に答える。夕方、新人の一人がきみの席に来る。――先輩、課題ができました。――早かったね、ときみは言い、その子の席へ行く。たった6×6マスのオセロゲームが、モニタ上で入力を待っている。――遊んでみてください、という彼女の言葉に頷き、きみはマウスをクリックする。単純ではあるけれど、きちんと動作するだけでも大したものだ。――良いできじゃない。きみは本心からそう褒める。――まだまだ。クリアしてください。きみは言われるがままにあと数回クリックを繰り返す。シンプルなアルゴリズムに負けるはずもなく、ゲームは圧倒的に白のきみの勝利となる。するとチープなファンファーレとともに、マス目が反転して”Hello world”という文字が点滅した。あまりの下らなさにきみは思わず声を出して笑ってしまう。――Hello world、だね。きみがまだ笑いを残しながらそう言う。彼女も恥ずかしそうに、――Hello world、ですね、と答える。