a dreamer

彼女は、毎晩悪夢を見る。どうしてだかは分からない。もちろん、きみたちの収入が互いに不安定であったり、研究が進んでいなかったりと、不安になる要因は幾つもあった。けれど、それにしても彼女は悪夢を見過ぎていた。きみたちはいつも、手をつないで眠った。とはいえ、眠るのは彼女だけで、極端に眠りが浅く短いきみは、彼女の手の温かさを感じながら、何をともなくいつまでも待ち続けていた。時折、彼女の呼吸が乱れると、きみは彼女の手を握る力を少しだけ強める。大丈夫だよ、ぼくはここにいるよ。そうすると、彼女の寝息は再び穏やかになる。そうやって、彼女を悪夢から守るために寝ずの番をするのが、きみは好きだった。彼女を守れているという実感を得られる、それは数少ない時間だったからだ。

それでも、すべての悪夢から彼女を守れるわけではなかった。ほんのわずかな隙をついて、悪夢は彼女を襲う。それはきっと、彼女の才能なのだ。そうである以上、それは本人にはどうしようもなく、逃れようもない。才能というのは、大抵の場合はその持ち主を不幸にする。徹底して凡庸な人生を送ってきたきみは、そう思う。夜が明け、彼女が目を覚ます。彼女は疲れ切った顔に、それでも柔らかい笑みを浮かべ、ありがとう、ときみに言う。そっと、つないだ手に力を込める。その手を握りかえす。コーヒーを淹れるよ。そう言って、きみはベッドを離れる。

風の音が、きみは恐ろしかった。どうして、と問われれば答えに窮するのだが、とにかく、それはきみにとって耐えがたい恐怖だった。夜中、真暗な大気を風が震わせ、どうどうどうどう、空全体が振動する。毛布にくるまったきみは、ベッドの外に拡がる虚空に耳を澄ませ、身を震わせる。きみは気が狂いそうになり、彼女の身体を抱き寄せる。強く抱きしめた彼女の温かさと柔らかさを感じている間だけは、その恐怖に耐えることができる。彼女は目を覚まさず、それでも無意識に、きみの頭を胸に抱いてくれる。

彼女の悪夢は、大抵は分かりやすい、グロテスクでおどろおどろしいものだった。あるいは単純に誰か大切なひとが死ぬような夢もあったし、自分が追われたり、傷つけられたり、殺されたりする夢もあった。けれどもいちばん彼女を恐れさせたのは、傍からすればそのどこが悪夢なのか、よく分からないものだった。たとえば眩しいばかりの月明かりの下、古びたアパートの中庭で延々ジャグリングをしている男の夢、そしてたとえば、海岸に、赤や黄色といった原色に染まった、幾人かの人間の遺体が打ち上げられる夢。話を聴くだけであれば、そのどこがそれほどまでに彼女を脅かすのか、理解するのは難しい。けれどもそういった夢を見ると、彼女は飛び起き、数秒の失見当のあと、必死にきみにしがみついてきた。その凄まじく早く打ち続ける鼓動を感じながら、きみは彼女の髪を撫で続けた。

ほとんど眠らず、眠ったとしても一切夢を見ないきみは、夜の底に鳴り響く地鳴りのような風の音に怯え、彼女の手を握る。悪夢に嵌りこんだ彼女は、夢のなかに差しのべられたきみの手を必死に握り、きみのいる世界へ戻ろうとする。きみたちは、互いに助けあっていた。根本的な救いにはならなかったとしても、確かにきみたちは、互いを必要としていた。

きみは夢を見ない。自分を凡庸だと思っているきみは、だけれども、決して凡庸などではなかった。いっさい夢を見ない人間など、果たして本当に存在するのだろうか。――だから、もしかすると……。彼女の寝顔を眺めながら、きみはふと思う。――きみこそが、ぼくの夢なのかもしれない。あるいはぼくがきみの夢なのか。朝になれば消えてしまう迷妄に過ぎないのは分かっている。それでも、きみは不安になり、彼女をそっと抱きしめる。彼女は眠ったまま軽く身じろぎ、きみに身体を添わせる。

夜に、目が覚める。きみたちを脅かすものに、きみはじっと眼を凝らし、見張り続ける。

きみに伝えたい沈黙

最近、LifeLogに関心を持っている。その概念は、ぼくらの持っている技術と不死への欲望の、ひとつの見事なまでに醜く美しい到達点だ。そこに人間は存在しないが、その人間の非在にこそ、人間の匂いが色濃く残されている。

技術について語るとき、結局、(技術論者、反技術論者を問わず)技術の次元にとどまった議論にしかならないのは何故だろう。そこには常に、人間の持つ悲しみ、希望、愚かさ、そして恐ろしいまでの高慢がともなう。けれども、多くの研究者がそれを見ようとしない。

だいぶ前に投稿した論文の査読結果が戻ってきた。ぼくとしてはかなり自由に書いてしまった論文なので、リジェクトされたらされたでしかたないね、と思っていたのだけれど、意外にも高く評価されていて、ちょっと嬉しかった。ただ、査読者のコメントのなかで、筆者(ぼく)はバタイユ的な非知へと傾きすぎているという指摘があって、確かにそうだよね、とぼくは思った。

友人の彫刻家が一時期帰国して、ほんのわずかだけれど、共に過ごす時間を持てた。ぼくは最近、研究というものが持つ枠組みに息苦しさを感じることが多い。――研究って、学会発表とか論文とかでしか表現できないんですかね、もっとこう、ライブハウスとか、いやどこでもいいんですけれど、アートってことではなくて、でも何か、みんなの耳や目や肌や魂に直接伝えるようなかたちで表現できないんでしょうか。そんな、訳の分からないことを彼に訊ねた。――分からないけれど、やってみればいいじゃない。そう、彼は答えた。

大学で喋るのは楽しい。大学というシステムはまるで糞のようだけれど、ぼくはやっぱり、若い子供たちに語りかけるのが好きだ。でも同時に、語るのではなく、沈黙する講義があったっていいのにな、とも思う。瞑想とか、そういう下らない話ではなく、ただたんに沈黙する。別に、そこから何が生まれる訳でもない。ただ、ひたすら沈黙をする。じっと、耳を澄ませる。そうしてもちろん、何も聴こえてはこない。そういう講義を、いつか、ぼくはしてみたい。

研究をする、ということは、自分にしか見えていない光景を見ること、そしてそれを、他のひとに伝えるということだ。ぼくの見ている非知の世界を、きみにどうやって伝えられるのだろう。分からないけれど、でも、やってみるしかないのだろう。

ひああふたあ

用事がなければ延々部屋に篭り続けるクラウドリーフさんですが、今年は(まだ終わってはいませんが)けっこう旅行に行きました。とはいえ、どこに行っても何を見ても、何を食べても何をしても、いっさい覚えることのできない彼のことです。そもそも本当に旅行に行ったのかどうかさえ怪しいのですが、まあ、それはそれでどうでも良いことです。

ともかく、つい先日、相棒とふたりで、丸の内に近いあの駅の、改装したばかりのあのホテルに泊まってきました。いまはそこそこ混んでいるようですが、予約開始とほぼ同時に申し込んだときには空き部屋はじゅうぶんにありました。

駅全体が改築されたということもあり、たくさんの見物客が写真を撮っています。ぼくらはドームに面した側の部屋をとったのですが、ドームを撮ろうとする人びとの焚くフラッシュで、部屋が明るく照らされます。バッバッババッバッバババッ。部屋に入り、ほっとくつろいでカーテンを開けたぼくは、眼下に蠢く無数のカメラとフラッシュに恐れをなし、すぐにカーテンを閉じます。部屋の電気をすべて消し、相棒と二人でベッドの上に身体を伏せます。少しでも顔を上げれば、天井を撮る人びとのレンズに撃ち抜かれます。もともと写真が苦手なぼくらにとって、これは予想外の危難です。しかし厚いカーテンを閉めてしまえば、もう部屋はシャンデリアの人工的な明かりに照らされた、面白くもない空間でしかありません。薄いカーテンだけを閉め、二人で寝転がったまま、高めの天井を眺めます。薄暗い部屋を、外のフラッシュの光が断続的に照らしだします。

最近、どこかへ泊りにいくと、相棒は「年をとったらまた泊まりに来ようね」といいます。彼女の言いたいことは、何となく分かる気がします。

どこからか、電車の行き来する音が、音というより振動として伝わってきます。ホームのアナウンスが、何を言っているのか分からないままに、ぼんやりと響いてきます。外からのフラッシュは相変わらず、音もなく、ぼくらが並んで眺める天井を一瞬白く浮かび上がらせます。

やがって眠ってしまった彼女の隣で、やはりうとうとしているぼくは、もうまるですっかり、余生を通り抜けて来世の自分を眺めているような心持になっています。

生きている!

いま、自分が生きているということに対する絶対的な疑義。ぼくらが生きているということは、ある日海岸を歩いているとき、ふと波打ち際に打ち寄せられた人形を手に取れば、それが昔自分の失くした人形であったというのと同じくらいの偶然でしかない。

不思議なことに、講義をしていると、何十人かいる学生のうちの4、5人はぼくの人間性を強く嫌悪する。そして同じように不思議なことに、1、2人はぼくの講義スタイルを結構強く好いてくれる。憎まれ嫌われる方が慣れているぼくとしては、好意は苦痛でしかないけれど、それでも、無論、嬉しいことではある。けれども、ぼくを憎んでくれる学生の方が、ぼくには理解できる。なぜなら、ぼくも同じように、あるいはより強く、彼女らを憎んでいるからだ。

信じてもらおうとは思わないけれど、ぼくは、自分が生きていて当然だと思っている人間を見分けることができる。例えそこに不安や恐れがあったとしても、それは所詮、「自分は生きていて当然なのになぜそれを脅かすものがあるのか」という甘えの反射に過ぎない。そんなものには、何の意味もない。もちろん、それはすべてぼくの妄想だ。きみの世界がきみの妄想であるように、ぼくもぼくの妄想を抜けだすことはできない。だから、いうまでもないけれど、彼女たちを憎むとはいっても、それを成績に反映するとか態度に表すとか、そういう下らない次元の話をしているのではない。

それは単純な憎しみではなく、そこにはぼくにとっての倫理がある。自分が生きていて当然だと思う、当たり前のように光を纏った人間に対する全力の憎悪。けれども、恐らく、より正直に自分のなかを覗きこめば、ぼくら誰もが、きっと多かれ少なかれ自分の生を当然のものとして感じている。だから結局のところ、ぼくの憎悪は生きている人間すべてに対する憎悪になりかねないし、それはそのまま、自罰という逃避をしか生みださない。そうでないというのであれば、それは人間に対する憎悪であってはならない。だから、ぼくが憎むのはそういった人間それ自体ではない。ぼくのなかにある、そういったもののあらわれを憎んでいるということだ。

とはいえ、それはそれ自体としては憎しみであることに違いはなく、ぼくの憎悪は鏡像として彼女たちの憎悪を引き起こす。楽しいはずの大学生活に無遠慮に土足で入り込み、それは嘘だと唾を吐かれれば、誰だって良い気はしない。

だけれども、ぼくが本当に感じているのは、憎悪ではなく、恐怖だ。自分の生を前提にできる人間に対する本能的な恐怖。決して分かり合えない断絶と深淵。

1限などとい阿呆臭い時間にわざわざ大学へ行く。教室にはすでに何人か学生たちが座り、思い思いに、あるいは友人同士でそれぞれの時間を過ごしている。定刻になればそれなりに教室が埋まり、講義を開始する。いつも通り遅刻する子たちはいつも通り遅刻してくる。

本当は講義なんてする必要はない。ぼくはそう思う。そんなもの、本を読み、自分の足で歩き回り、人とぶつかり、最後に地面を踏み外して死んでいけば、それでけっこう、ぼくらはこの人生において学ぶべきことはすべて学べる。

狭く明るく白く空調の効いた教室で本当に伝えたいのは、「生きている!」ということだ。「存在している!」ということだ。ほんの一瞬、何の保証も支えもなく表れては消えてしまうその一瞬を、もし共有することさえできれば、ぼくらはもう、それ以上学ぶべき何ものもない。

生きている! ぼくは叫ぶ。学生たちがぎょっとしてぼくを見つめる。ぼくは何ごともなかったかのように笑みを浮かべ、おはよう、出席を取るよ、という。

じみじみ

証明写真のストックが切れたので、近所の写真屋さんに行ったのです。ひさしぶりにスーツを引っぱりだし、ネクタイを締めたりします(普段会社に行くときは、以前友人にもらったジャケットと黒ジーンズでごまかしているのです)。スーツなんぞを着るとまるで真っ当な社会人のようですが、下半身はカーゴパンツに登山靴です。はっきりいって不審者です。けれども、登山靴でがしがし歩くのは気分良く、どこまでもどこまでも歩いていけそうです。そういって彼は時折歩いて海まで出てしまったりするので要注意です。

彼の彼女はフィールドワーカーなのですが、登山靴のことを「ザングツ」などと言ったりします。プロっぽいね。彼はそう思います。彼は自分の分野でそういうプロっぽい感じの言葉使いができないかしらなどと考えたりします。マルティン・ハイデガーを「マルデガー」なんてどうでしょう。ちょっとキュートな感じがしませんか。しませんね。だいいち、マルデガーはナチだから嫌いなのです。あの業突親爺のような顔からして無理です。むりむりむりむり。何だかカタツムリの行列のようです。うふふ、カタツムリみたい、などと呟きながら、写真屋さんへと歩いていきます。ザングツにカーゴパンツ。ワイシャツにネクタイ。婉曲にいっても不審者です。

* * *

良い学者というのは、あたりまえですが、良い顔をしているものです。これは本当。まず間違いなく、学者として本物かどうかは一目で分かります。だいたい、お勉強が得意なのを研究だと勘違いしている研究者などというものは、「リアル」のない顔をしている。けれどもそういう自分だって、証明写真を撮る前に鏡を見せられると、別段リアルがあるわけでもありません。まあ、ぼくの場合はお勉強が得意ということはまったくなく、ただそれだけが救いです。それでもやっぱり、写真屋さんのひとに「レンズを見て、レンズを見て、トートトト」と何やら鶏を呼ぶように声をかけられながら、コーティングされたガラスに映る自分の顔を見るのが苦痛です。何とまあ気迫のないのほほんとした顔つきをしていることか。

そう、ぼくは顔を見るのも見られるのも苦手です。講義のとき、何十人と居並ぶ女の子たちを前に、いったいどこに目を向けたら良いのかいつも困惑しています。しかたがないので、白目を剥きながら「見るなっ! 俺をミルナーッ!」と裏声で叫びつつ、黒板に、鬼に追われるキース・ヘリング的赤ちゃんを書いたりします。いったい何の講義なのでしょうか。この前はシュミラクラ現象について話をしました。黒板に点を3つ描き、「これ顔に見えるじゃん? 見えるじゃん? これ顔、顔に見えるじゃん? 消せないじゃん、罪悪感すげーじゃんうわあああ!!」と絶叫しながら黒板消しで3つの点を消したりします。でも本当のことをいえば大丈夫。実際、起きて講義を聴いてくれている子はほとんどいません。みな嵐に倒れる稲穂のようにばたばたと眠りについていきます。「あの先生声が良いよね、すごくよく眠れる」ぼくは挫けません。だいいち、みんな眠っている方がぼくは安心なのさ、などと油断して顔を向けると、ぼくを凝視している生徒さんと目が合って失禁したりします。ぼくは講義が大好きです。

などと考えているうちに、証明写真も撮り終わったようです。6枚くらい撮られ、好きなものを選べといわれます。正直、みな白目を剥いて涎を垂らしているので、どれでも同じだろうという気がしますが、無難にいちばん最後のものにしておきます。「良いのを選んだな、小僧。そうでなければ死んでいた」みたい表情をした写真屋さんに怯えつつ、これでまたしばらくのあいだは、お祈りをされるためだけに公募に出すことができるでしょう。お祈りをされ過ぎて、最近どうも後光がさしてきたようです。もう少しすればきっと、雲間からレンブラント光線だってだせるでしょう。

会社も、来季の契約を無事に更新できそうです。あと1年、という区切りで考えるのであれば、これでどうやら、またもう少しだけ生き延びることができそうです。パスポート以外には身分を証明するものなど一切ない生活ですが、そもそも保証された身分なんて幻想にすぎません。

ああ、早く何もかもが滅茶苦茶にならないかなあ! などと思いつつ、でもやっぱりそうじゃないよね、などとも思いつつ、その「そうじゃないよね」にかけられた気が狂いそうなほどの凡庸な苦痛だけを誇りに、毎日じみじみ生きています。

drawing your face, drawing my eyes.

きょうは手洗いに立つとき以外はほぼ正座をしていました。ふと思ったのですが、これってなかなか凄いことではないでしょうか。食事のときも、椅子の上に正座をしています。どう考えてもおかしいのですが、最近笑いの少ない生活です。多少の可笑しさはあっても悪くはないでしょう。可笑しいといえば、先日眠っているとき、ふと気づくと腕を巨大なクモが這っていました。ぼくは土も虫も苦手ですが、フォルムのはっきりしている虫は平気です。なので、うわあこれは大きいなあと思いつつほいほいと放りだしたのですが、そのクモは、もう秋も終わりが近づいているからでしょうか、分かりませんが、だいぶ弱っており、足も4本しかありませんでした。可笑しさというものは、つねに、悲しみをともなっているものです。悲しくて、愛しいからこそ、可笑しさが生まれます。どうでしょう、伝わるかどうか分かりませんが、もちろんそれは、あははという意味ではありません。自転する地球の上のぼくらがみな大地とともに運ばれていくように、日が落ち、日が昇るたびに死へと向かって運ばれていくぼくらの人生を俯瞰する可笑しさです。

やれやれと思い、眼が覚めてしまったぼくは寝返りをうち、枕元のノートを開きます。暗い部屋のなかに蒼白い光があふれます。ヘッドフォンをして音楽を聴きつつブログなんかを書いたりします。それはきっと、外から見ればひどく閉じたものに見えるのかもしれません。でもほんとうにそうかな、といつも思います。モニタの向こうにあるのは何でしょうか。もちろん、ただの基盤です。でもやっぱり、それだけではありません。だけれども、そこにあるリアル、そこにある世界へとつながる経路というのは、なかなかに説明するのが難しいものです。芝生に寝っ転がって空を見上げて、背中がちくちくして風が心地よくて、日差しが眩しくてくしゃみをしたりして、でもそのリアルを、その空が地球上のどこにでもつながっていることの意味を、説明するのはとても大変なことです。

不思議なことに、きっとこの感覚は、こんなブログを読んでいる奇特な「きみ」にはおそらく何も言わなくとも通じるんじゃないかな、と「ぼく」は思うのだけれど、一歩アカデミズムの世界に入っていくと途端に通じなくなるのです。そこには何かユートピアなりディストピアなりがあり、そこに居ない人たちが語る世界にそこに居るはずのぼくはすっかり途方に暮れます。

でも、ぼくはここにあるリアルを知っています。知っている? いやそうではなくて、ぼくは感じています。それがリアルです。モニタとキーボードによってのみ接続された世界も、ノートを閉じて立ち上がり歩きだす世界も、どちらもシームレスにリアルな世界です。そうしてリアルな世界である以上、そこにあるのはただ苦痛だけで、のたうちまわるぼくらを、ぼくらは俯瞰して、そこに可笑しさと愛しさと、透明な寂しさを風のように魂と身体に受け取ります。

ぼくにとってのリアルを、きみにとってのリアルを、きみとぼくをつなぐリアルを、殺してほしくはないのです。だからぼくは、もう少しだけ、このくだらなくてどうしようもなくてでも「ぼくら」がそこに居るリアルとしてのインターネットについて、アカデミズムのなかで語ってみようと思うのです。

am 03:07

学会発表が終わり、これでことしの研究活動はとりあえず一区切りです。もちろん、一区切りというのはあくまで外的なスケジュールとしてはということで、研究そのものはいつでもいつまでも続いていきます。まともなプログラマなら誰でもそうだと思いますが(どう表現するかはそれぞれでしょうが)、頭のなかに一つの臓器を作り出して、それは心臓のようにいつでも眠っているあいだでも止まることなくアルゴリズムを組み続けています。その臓器に焼きつけたロジックを何度もなぞり直し、呼吸のようにバグがないかどうかをチェックし続けています。心臓の動きが不随意であるように、それはもうぼくには止めようのないものです。研究も同じです。頭のなかに独立した臓器を作り出す。研究臓器。どくどくどくどく、薄気味悪くけれど避けようもなく、それは何かを齧り続け吐き出し続けています。しかしそれらは同時に動くことはできません。仕事と研究。頭のなかに切り替えスイッチを思い浮かべて、そのスイッチを指で軽く弾きます。ぱちん。いまからぼくは研究頭。もちろん、もちろん、そんなこと、できるはずもありません。それは、つまらない話ですが、気が狂いそうになるほどの苦痛です。「仕事と研究の両立をしているなんて偉いね」と言われてそれはそれでありがとうと思うのですが、現実はそんなに良いお話でもありません。他人の0.6の能力しかないぼくが仕事と研究の双方をしようと思えば、オーバーヘッドの部分を除いておそらく0.2と0.2くらいしか成果を出せない。しかし出せないというのはただの私的な言い訳に過ぎないのでそんなことはおくびにもださず、吐き気がするほどすがすがしく罪悪感の欠片もない嘘によって片足立ちのまますり抜けていきます。とはいえしかし、そうはいってもそれにしても、やはりそれは気が狂いそうな苦痛です。最後は叫びながらへらへらへらへら笑いながら論文を書いたりします。存在しないスイッチを切り替えようと無理やり脳のどこかに指をねじ込むと指が折れたりします。ぼくはいったいどこに何を突っ込んでいたのか。ぶらぶらする指を眺めつつしばし呆然とします。呆然としつつ、明日はふつうに会社です。学会の雑務も山のように残っています。スイッチを切り替えすぎて、何だかどこからか焼け焦げた匂いがしてきます。それでも、講義のコメントシートに、先生のお話は面白いですなどと書かれているのを読むと、頼むから俺のような屑を先生と呼ばないでくれ俺は人間としての屑の極北に在ることに誇りを持っているんだと胸を抉るようにつかみつつごろごろ転げまわりつつ、それでもやはり嬉しかったりします。学会発表面白かったよと言われれば、夜中にげろを吐きつつ口からは出さず気合で飲み込んだりすつつ少しばかり無理をして良かったと思ったりもします。

生きている限り、ぼくらはつねに生きなければなりません。それは死者に対するぼくらの義務であり、生きる苦痛のなかでのみ死者とつながれるという意味においてそれはエクスタシーをぼくらにもたらします。苦しければ苦しいほど、そこには確かに何かがあります。表現できない何か。だけれども、だからこそ、ぼくらは目を閉じたまま、言葉を発しないまま、それに触れ、撫でまわし、漠然とその総体を想像したりします。それはきっと、死んだ後にぼくらの目の前に現れ、あり得ない解像度で見えるナニモノカの予兆でしょう。でもとりあえずは、生きている限りにおいて、走り続けなければなりません。

明後日には、執筆者の片隅に混ぜてもらった書籍が書店に並ぶそうです。出版社から直接購入する場合には著者割引というのがあるそうなのですが、なんとなく、一冊、書店でこっそりひっそり定価で購入し、いまはもういない誰かさんたちとともに、ささやかにお祝いをしようと思っています。