小さな子供でさえ撮影者を撃ちかえすために銃を抜く

猫磁針
相棒が、大学の部屋を掃除したときに発掘された古い方位磁針をぼくにくれた。野帳に挟んで、方位を確認しながらメモを取れるようになっている。ぼくは、最近庭仕事を始めた彼女に、”Derek Jarman’s Garden”を贈った。とても良い本だ。ちなみに、写真に写っているのはLingisの”Wonders seen in Forsaken Places”。これもまた素晴らしい本。

英語などろくすっぽ読めないけれど、彼女と寝そべりながら、分かりもしない英文を読み、写真を眺める。

ぼくらは、実はもう死んでいるんだよな、と、ふと感じる。

そんな感じさ、いつだってそうさ。

先日、相棒とふたりでインターメディアテクへ行ってきました。設備にもお金がかかっていますし、展示品の質、量ともにたいしたものです。それでも、そこにそこはかとなく漂う暴力性は、いったい何なのでしょう。そうして、そこに群がる人びとから漏れだす下品さは、いったい何なのでしょう。そう書くと、何を上品ぶっているのか、といわれるかもしれません。お前だってそこに居たのだろう、と。それはそれで、仕方のないことです。あの暴力性に気づかないひとに、ぼくはかける言葉を持ちませんし、持とうとも思いません。小学生くらいの子供が、動物の骨をみて、携帯電話を掲げ、親に写真を撮って良いかどうかを訊いていました。それはそれで、ただそれだけのことです。

ぼくは自分の凡庸さに誇りを持っています。凡庸さというのは、ぼくらが持ち得る最大の武器です。なぜなら、凡庸なぼくらが犇めいているこの世界こそが、凡庸なぼくらが生きている世界だからで、それをそのものとして見通すことができるのは、そこにいるぼくらを措いてよりほかにはないからです。だけれども、凡庸というのは、けっして多数であるということではありません。それをかんちがいした途端に、ぼくらは暴力に対して鈍感になり、下品になっていきます。下品さというのは、唯一固有の生命に満たされたぼくら自身に対する最大の罪であり、かつ最大の罰であると、ぼくは思います。

愚鈍な連中にかける憐憫など、欠片も持ち合わせてはいません。ぼくらのリソースには限りがあります。手持ちの愛はあまりに少なく、選んだものに対してさえ、足りるかどうかは分かりません。自分が、どんどん残酷になっていくのを感じますし、それが悪いことだとも思えません。

だけれども。

その日は、彼女とのひさしぶりのデートでした。デート。莫迦みたいだけれど、良い響きですね。残念ながら食事の運は悪く、夕食のとき隣席についた人びとの会話、その内容と笑い声のあまりのひどさは耐えがたいほどでした。けれども、やがてそれがある一線を超えたとき、そのあまりの救いがたい愚劣さに、 思わずくすくすと笑ってしまったのです。

それは決して愛などではなく、ぼくらが嵌りこんでいるこのどうしようもない世界そのものへの諦念に近いのではないだろうかと、ぼんやり、ぼくは思います。それでも、そこには確かに、糞のような自分自身に対してさえをも含んだ、しようがねえなあ、という透明な微笑が在らざるを得ないのです。

* * *

きょうはひさしぶりに音楽を聴きました。何だかとても音がクリアに聴こえて、違う音楽を聴いているような気持になりました。それぞれの音があまりに硬く澄んででもばらばらで、その音の向こうにやがてぼくらみなが行くことになるどこかが透けて見えて、寂しくはないけれど、少しばかり、こころがしんとしたのです。

不定点非観測

たとえば、都市には自然がない、なんて話になるといつも思うのは、でもやっぱり足下には蟻が這っているじゃない、ということなのです。自然が破壊されて云々、という意見には、もちろんぼくだって同意します。でも、都市には自然がない、といってしまうそのひとは、足元を這う数えきれない虫たちを、自然ではないとして目も向けず気づきもせずに踏んづけて歩いていくのでしょうか。そういった話をしているのではない、といわれそうですが、実はどうも、いまだに彼らが何をいっているのかがよく分かりません。

* * *

偏平足だね、と彼女にはしばしばいわれます。足の裏を眺めてみれば確かにぺったりしていて、土踏まずのつの字くらいしかありません。それでも、別段、長距離歩行に支障があるわけではなく、むしろぼくは、相当長時間歩いても、疲れることはありません。もっとも、もし土踏まずがあれば、もっともっと長距離を歩けるのかもしれませんが……。バランス感覚のなさというのは、もしかすると偏平足のせいかもしれませんね。

とにかく、ぼくは良く歩きます。てくてくてくてく。けれども、残念ながら、この散歩というもの、誰かと一緒にというのは、なかなか難しいのです。でもこれはあたりまえですね。例えばふたりで居るときはふたりのリズムがあるのであって、それはどちらかが我慢するとかいうことではなく、どちらかがどちらかに合わせるということでもなく、そこで新たな散歩のかたちが生まれているのだと思います。理想論、ということではなく、単純な事実として、そうなのだと思うのです。

だから、散歩をするとき、3人いれば3人のリズムになるし、1024人いれば1024人のリズムになる。1兆人いれば、1兆人のリズムになる。それは人間だけではなくて、蟻も、風も、ビルも星も、歩いているぼくの隣に在るすべてのもの、隣に在ることをとおしてぼくを在らしめるすべてのもの、過ぎ去ってゆくもの、ぼくが過ぎ去ったあとに残るすべてのもののリズムとともに、けっこう、ぼくらは散歩をしているのではないかと、ぼくは感じるのです。

* * *

何をいっているのかよく分からない、とか、それは分かっているけれどそのうえで、とか、そういうふうにしばしばいわれます。それは悪いことではなく、ぼくだって、相手に対してそう思うのです。そうして、そう思っているのは互いにだけであって、ほんとうのところは、お互い、何も分かってはいないのだとも思います。

歩いているじゃない? と相手にいいます。それで終わりなのですが、けれども、それで? と訊きかえされます。あ、そうなんだ、そうだよね、とぼくは心のなかで思い、そうして、それだけです。伝わるひとを、ぼくは何十年もかけて、ほんの数人見つけました。けっこう、この人生としては、それで十分なのです。

きみが殺さないでいられるのは殺されない者からの恩寵だ

これは良いことなのか悪いことなのか分かりませんが、いえ、たぶんやはり良いことなのでしょう。ぼくは根がどうしようもなく単純なので、疲弊しきっているときでも、特に状況が改善しているわけでもないままに、ほんの一瞬、これが研究だよねと思える瞬間がくると、自然と心持ちが上向いてきたりします。いまはけっこう、穏やかな気分です。

仕事中に突然割り込んでくる、研究上かかわらざるを得ない先生方の極めて無礼な電話やメールに、心底憂鬱になります。それをきっかけにして沸き起こる様々なことがらへの怒りと憂鬱とで、少し、体調を崩します。それでも、気持ちを仕事に切り替えて重い計測機器を抱え、研究棟の扉を開けようとして鍵がかかっているのに気づかず、「うっうっ!」などといいながら繰り返し扉に激突し、ようやく開けて外に出て、蟻を踏まないように地面を視線で掃き、一瞬空を見上げてそこに一面を覆い尽くすほど巨大な楓の葉のかたちをした雲があるのを眺めたりして、その瞬間、すべての鬱屈を忘れたりもします。

いま、J-L.ナンシーの『フクシマの後で』を繰り返し読み直していて、やはり、そういうときが、いちばん穏やかになれます。というと誤解をされるかもしれないけれど……。タイトルだけをみると、不快に思うひともいるかもしれません。ぼくも、安易に先の震災に「群がる」「哲学者」をみると、吐き気を催します。けれども、やはりほんとうの哲学者の言葉は、学問という枠組みを超えて、時代も社会も国も超えて、ぼくらの心に迫ってきます。

穏やかになれるというのは、なんていえばいいのかな、普段、研究をしているとかいっても、ぜんぜんそんなことはないんですね。下らない雑務に追われるばかりだし、書きたいと思うことは書けないし、「先生」なんて呼ばれている小利口な技術を持っているだけの連中に頭を下げ続けなければならない。でも、それでもやっぱり、そのどこかには研究があるんです。自分の独り遊びとしてではない、世界に開かれたものとしての研究が。その欠片に少しでも触れる瞬間、心が穏やかになれるのです。要するにそれは、自分が居て、同時に、無数のあらゆる他者からなる世界が在るということへの実感なのだと思います。

障子を開けて、小さな築山を眺めながら、学会業務など部屋の隅のごみ箱に放り込み、草叢を這う蟻たちを眺めながら、研究書を読んだりします。ジャングルのなかを歩いている相棒からメールが届き、いつも通りユーモラスな文章に微笑んだりします。ぼくも彼女も、アカデミズムとやらの世界の中では最底辺を生きていて、いつまでそこに居るかも分かりません。それでも、別段かまわないのです。少なくともぼくらは、研究とは何かを知っています。そうして、それはほんとうは、生きている誰もが知っていることです。

人間の顔

もうこれで冒頭の書き直しが4回目なのですが、なかなか楽しいお話を書きだすことができませんね。今回はうまくいくでしょうか。何となくうまくいく気がします。楽しいことがいまのところ何ひとつ思いつかないのですが、大丈夫です。要は研究のことも仕事のことも家のことも書かなければ良い。そうだ、濡れたジーンズのことでも書きましょう。

昨日はとある会合に出ました。しかし着ていく服がありません。いつも同じことを言っている気がしますが……。仕方がないので、夜中寝る前に、脱いだ服とジーンズを洗うことにしました。夏なんですから一晩あればジーンズだって乾くでしょう。無論、乾きませんでした。しかし、平熱が38℃に近い私です。多少濡れている服だって、着てしまえば、家を出て駅につくまでのあいだに乾いてしまうことでしょう。麻のシャツは乾いていたので、湿ったジーンズに脚を無理やり通し、その感触の気味悪さにうへぇへぇと薄く笑いながら、気分も中身もすっかり変質者です。駅に着くころにはジーンズはすっかり乾いていましたが、その晩家に帰ってから見てみると、白いPHSは青く、ポケットティッシュも青く染まっていました。青いポケットティッシュでかんだ鼻も、すっかり青くなっています。指先も脚も青く、目の下は疲労で青黒く落ち窪んでいます。まるでパンダが見る悪夢に登場するパンダのようです。

自分が2枚目でないことなど、34年前にはすでに気づいていました。それにしてもこれは酷い。そういえば、彼女とつい最近、自己イメージについて話をしました。ぼくはもともと、フィールドワーカーになりたかったのです。バイクに跨って中南米を疾走するフィールド系哲学者。訳が分かりませんね。けれども、あるとき彼女の部屋でくつろいでいたとき、ぼくの苦手な虫が出てきました。ほんの3、4センチしかない、どうということもない虫です。けれどもそれを見ただけで、ぼくの精神は完全に変調をきたします。きたしているところにまたもう1匹、同じ種類の虫がのこのこやってきます。――終末の世は来たれり! ぼくは叫びます。虫などまったく意に介さない筋金入りのフィールドワーカーである彼女を見ると、ぼくには到底、魑魅魍魎としか思えないような昆虫が跳梁跋扈するジャングルを駆け巡ることなどできそうもないことを実感します。それでも、しばらくするとそんなことは忘れ、なーに俺だっていざとなればフィールドを疾走する哲学者になれるのさ、などと呑気に想像したりします。

ぼくはけっこう、陰惨な人間です。だけれども、それも所詮は自己イメージの話です。客観的に眺めれば、つねにぼんやり、少し間抜けに笑っている。たぶん、そんなのが、ぼくなのです。書き直して消してしまった文章に、自分の持つ暴力性に対する恐怖感を書いていました。けれどもまあ、実際のところ、そんなに恐怖を感じる必要はないのかもしれません。羊の皮を被った狼などではなく、自分の中身が狼なのではないかと怯えているだけの羊。毛を刈ってしまえば、その下にあるのは……。いえ、やっぱりそこに見えるものは、きっと人間の顔をした、最大の恐怖の対象なのでしょう。

ヘルボイス・シティ

暑い日が続きますね。つねに人体発火状態のぼくは、巨大な保冷剤を身体に押しつけ、暑さのあまり幻覚を見ながら過ごしています。きょうは、初めて買ったペットボトルのお茶に「ヘルボイス・シティ」と書いており、思わずア゛ア゛ォ゛ア゛ォ゛と気分よく歌ってみたのですが、改めて見直せば「ヘルシールイボスティー」でした。そういえば、昔はしばしば熱を出して寝込んでは、どことなく不吉な、暗いオレンジ色をしたゴムの氷嚢を頭の下に敷いて寝ていました。あれでは悪夢以外の何を見るのかという気もしますが、さすがにいまの時代あんな色をした氷嚢はもうないだろうと思いちょっと調べてみたら、ありますね。いまでも定番のようです。まあ、スタイリッシュな氷嚢なんてものがあっても困るしなあ、などと思って念のために調べてみると、これまたありました。スタイリッシュが売りの氷嚢。世界は不思議なもので満ち溢れています。

満ち溢れているといえば、世界は不思議な言葉でも満ち溢れています。きょうはひさしぶりに喫茶店で本を読みながら相棒の仕事が終わるのを待っていたのですが、ぼくの隣の席に女子高生がふたり、座りました。聴くとはなしに耳にはいってくる彼女たちの声を聴いていると、奇妙なことに、ひとりの喋る言葉は普通に聴き取れるのですが、もうひとりの子は、いったい何を喋っているのか、3割程度しか分からないのです。無論、それが良いとか悪いではなく、 ゼネレーションギャップを嘆くわけでもなく、分からないということそれ自体のもつユーモラスな在り方に、思わず内心で笑ってしまうのです。

いうまでもなく、それは相手を莫迦にした笑いではなく、分からなさを通して避けようもなくぼくらに突きつけられるぼくらのリアル、その前で右往左往するぼくら全体が持つ滑稽さに対する笑いです。

コミュニケーション、というと、多くの場合は、分かるということが出発点にあるか、あるいは分かろうとするということが目的にあります。けれどもぼくは、やはり、分からないということを出発点として、そうして、分からないということのただなかに留まり続けるようなコミュニケーションについて考えていきたいのです。分かるということが絶対的な前提であるアカデミズムのなかで、こういったことを扱うのは、けっこう、面倒くさいものです。分からないということが分かる、みたいな中途半端な話に落とし込もうとされますし、実際、その圧力は非常に強いものがあります。けれども、だからこそ、そこで言い続けることの意味もまたあるのだと、ぼくは思います。まあ、どこまで気力が持つかは分かりませんが、分かる分からないで決まるような次元では、どのみち研究なんてものはできるはずもありません。

ご清聴ありがとうございました

学会で使用したPowerPointの最後は、こんな感じです。分からないことのなかで在り続けるって、ハードで、ハードで、そんでもってハードですよね。けれども同時に、そのハードでしかないぼくらのあがきもがきの全体が持つユーモアを、少しでも伝えられたらいいなあと、そんなことを考えています。

これもまた無駄な言葉だけれど、でも、無駄な言葉だ。

まわりを見てみると、これは良いことなのかといわれれば絶対に良くないことなのですが、やはり博論なんてものを書いていると、だいたい誰もが身体を壊すか精神の調子を崩すかその両方になります。そんな価値があるんでしょうか。あるはずもないのですが、まあぼくらの人生にあるものなんて、だいたいにおいて、価値のないものです。

ともかく、ぼくも博論のときに仕事や家のことや研究のことでいい加減限界を超え、突発性の難聴になりました。それはそれでどうということもないのですが、いま、やはりそれが慢性化してしまい、ひとと話すときはちょっと困ります。けれども、彼女の声だけは耳を近づければちゃんと聴こえますし、あとの音はオプションのようなものではあるのです。人生、彼女以外のことはぜんぶオプションですので、別段、他の音はどうしても聴きたいということもありません。それに不思議と、自然がたてる音は聴こえてきます。

きょうはめずらしく、仕事を片づけながら、一日音楽を聴いていました。無駄に高いヘッドフォンをつけ、ぽちぽちとメールを打ちながら、右下の音量アイコンをクリックし、少しばかり音量を上げます。ノイズキャンセラーを通り抜けて、世間様のうるさいノイズが届きます。またもう少し音量を上げます。またもう少し音量を上げます。そうして、またもう少し音量を上げます。

畳に幽かな振動が伝わり、障子の向こうに小さな影が一瞬、横切ります。ヘッドフォンを外し、そっと障子を空けると、アマガエルが縁側にいたりします。

* * *

夜、道を歩いていると、潰されたカエルのそばに、別のカエルがじっとしています。翌朝同じ道を通り会社へ行くとき、そこには早くも干からびかけたカエルの死骸だけが残されています。

* * *

これだけ無駄な時間を投下しつつ、アカデミックな言説というものが、やはりどうしても好きになれません。その言説が持つ暴力性がなどといいつつ、いまだにそこにしがみついているぼくもまた糞野郎であることは確かなのですが、理屈ではなくそこにある暴力性をただ純粋に暴力として感じてもらえることは、まずありません。それは残念なことではなく、むしろこの世界なりこの社会なりが正常であることの現れなのでしょう。けれども、それでもなお、ぼくはやはり、「暴力だけれど、でも」、というときの「でも」が嫌なのです。それは、ただ暴力でしかありません。ただ、暴力でしかありません。

* * *

彼女が果物を食べたいというので、何年かぶりに枇杷を買ってきました。どうして枇杷なの、と訊ねられ、種を庭に植えたら枇杷の食べ放題じゃない、と答えます。うちの庭ではちょっと無理かな、といわれ、それは残念、とぼくは答えます。