きみに貸した銃弾

ASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤正文さんがソロでやっている曲で『LOST』というのがあるのですが、これはとても良いです。ぼくらは、多くの場合二元論で物事を考えてしまいます。でも、ほんとうに良いものって、それは音楽でも彫刻でも小説でも映画でもなんでも良いのですが、っていうか要するに「人間」を表現するということなのだと思うのですが、二元論ではないんですよね。『LOST』も、歌詞が暗いとか明るいとか、そういう軸を超えて、ぼくらの生や生活が歌い上げられている。

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で、『LOST』から話はずれていくのですが、ASIAN KUNG-FU GENERATION(略すのは性格的にどうも苦手)は、音楽が良いということはもちろんとして、どこまで真実なのかはともかく、結成時のエピソードも好きなのです。ベースの山田貴洋さんが部室にひとりぼっちでいたところに後藤さんが話しかけ、山田さんが仲間になる。そうして、大学卒業後はしばらくそれぞれに会社員をしながらバンドを続けて、メジャーデビューしても4人で活動していって。

これは個人的な気質の問題なのですが、ぼくは、いったん仲間を作ったら、決別してはいけないと思っています。倫理的に「べからず」とか、そういう杓子定規な話ではなく、あくまでぼく個人の感覚としてですが、けれどもそれは、ぼくのなかではとても強固な信念としてあります。そうして、だからぼくは、相棒以外に仲間をつくるということに対しては、どうしても積極的になれません。自分の能力や人間性の限界を、けっこう低く見積もっているからです。

ぼくはシュルレアリスムが好きです。けれども、ブルトンとはちょっとつき合えないなあ、と思います。彼みたいにどんどん仲間を切り捨てながら運動を前進させていくというのは、ぼく自身にもそういう面があるからかもしれませんが、どうにも苦手なのです。一方で、敵を作ることを恐れず、孤高を貫いた生田耕作の端然とした生き方はほんとうに美しいとも思います。

どうにも中途半端だなあと自嘲します。だけれども、サン・テグジュペリが『人間の土地』で書いているように、愛するということが、同じ方向を向いている者同士においてこそ可能な関係なのだとすれば、敵対することさえを含むような仲間というものもまた、可能なのかもしれません。まあ、あたりまえといえばあたりまえのことですね。

けれど、ぼくらが見ることのできる、理解できる目的というのは、大抵、表層的なものばかりです。そういったものを超えたところに在る、ぼくらの魂がともに目指しているその先みたいな意味での目的――全体主義的なものと誤解されると困るのですが――は、なかなか、明示することはできません。でも、もしその観点に立つことができれば、仲間とずっと一緒にやっていくことも、そうではなくてあるとき互いの譲れない美意識なり信念なりによって決別し敵対することも、実はひとつの物語になるのかもしれません。

結局、なかなか、ぼくらの生と生活は、あっちかこっちかの二元論では、はかりようのないものなのでしょう。弁証法などではなく、つねに、単に、それ自体としてその全体にあるリアリティ。

とはいえ、やっぱりブルトンとつき合いたいとは思えませんが……。

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