夜、庭で蛙が鳴いているから。

雨が近づくと、庭で雨蛙たちが鳴き始めます。彼女の家の庭の場合は蝦蟇蛙です。無論どちらもかわいいのですが、面白いことに、雨蛙よりも強面の蝦蟇蛙の方が、鳴き声が慎ましいのです。昔、まだ近所に田んぼしかなかったころ、たくさんの牛蛙がいました。あの鳴き声はさすがにたいしたもので、夜のあいだ、いつまでも町中に響いていました。いま、牛蛙はほとんどいません。

雨蛙が鳴き始めると、そっと障子を開け、庭のどこかに潜んでいる連中を探すのですが、さすがにそう簡単には姿を見せてはくれません。庭にはいろいろな鳥もよく来るので、そんなのんきなことをしていたら、あっという間に鳥に食べられてしまうでしょう。それでも、持って生まれた根気の良さで、じっと庭を観察していきます。時折、庭の奥の岩陰に、蛙の鼻先を見つけたりもします。

先日は、裏山に登る階段途中で、山楝蛇に会いました。昔、川沿いの高校に通っていたころは、しばしば蛇にも会っていたのですが、最近は滅多にお目にかからなくなっていました。何となく懐かしく、蛇が嫌がらないように大回りをしつつ、挨拶をしておきました。

まだまだ、けっこう、ぼくらの周りには生き物たちがいます。ぼくらの日常が大量の生命をすり潰していくことによってのみ成り立っていることは事実です。センチメンタリズムは嫌いですし、現実から目を逸らした綺麗ごとには反吐がでます。けれども、現実の上に開き直り残酷さのリアリティを気取るのもまた、どうしようもなく醜く卑怯なことです。

格好の悪い話ですが、いま、ここに眼を向けること、それを受け入れ、かつあがき続けること、自分の美意識に反するものには美意識に反すると言い続けること、一線を超えたと思うのであればその一線の手前で立ち止まること、それが、少なくともぼくには、必要だと思えるのです。

ほんとうに格好の悪い話です。けれども、論理とか原理とか、そういったものには、大抵、どうしようもなく暴力がつきまといます。しかもそれは、単なる自己弁護や自己愛やらに塗れた、覚悟のない暴力です。だから、中途半端でもよいのです。悩み続け、立ち止まり続け、失敗し続け、けれどもその過程に在り続けるところにのみ、倫理という問いが可能になる場があるのではないでしょうか。

ぼくはもともと、極めて倫理観のない人間です。残酷さというのは、残酷さがあるということではなく、何かがない状態なのだと、自分のなかを覗いていて感じます。それでも、夜中に雨蛙が庭で鳴いているのを聴くと、その鳴き声が、静かに、一滴ずつ、ぼくの心のなかにある欠落を満たしていってくれます。

水滴

 

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