会議に下働きとして出席し、お偉い先生のお話を記録したり、嫌な顔をされつつ連絡業務を片づけたりして、消耗しきって家に帰る。頭痛で倒れ込み、夜中過ぎに意識が戻る。そんなとき、心を落ち着けるために音楽を聴いたりしていて、ふと、ああ、これはダメだな、と思う。ダメだな、というのは、自分の傷んだ魂を癒すのに、研究が役に立たないことに対する諦めの意味だ。もちろん、ぼくは自分の研究が好きだし、阿呆くさい矜持だって持っている。真面目に自分の責務を果たそうとしている研究者は何人も知っているし、確かに魂を撃つ言葉が刻まれた研究書だってある。けれども、ぼくの周りにある「研究」とやらの少なくないものが、置き換え可能で数え上げ可能な糞の塊でしかない。
だけれども、1曲の音楽に負ける研究なんて、いったい何の意味があるのだろう。いや、勝ち負けが問題ということではないけれど、それは研究が世界に対して閉じていることの言い訳にはならない。だからといって言うまでもなく、「一般人」に分かりやすい研究でなければならないなんてこともない。そもそも「一般人」という言葉自体が異常であって、「先生」と呼ばれる研究者がどれだけ思い上がっているのかと思う。また他方では、ポップスだって別段分かりやすいという訳でもあるまい、と思う。ぼくらがそれを良いと思うものには、すべからくそこに独自の奥行きを持った世界がある。そしてそれがひとつの世界であるのなら、それは決して分かりやすいものであるはずがない。
もちろん、糞のような音楽だってある。糞のような芸術、糞のような詩もある。いやそれはもはや音楽でも芸術でも詩でもない。同じように、糞のような研究もまた、研究ではない。
結局、ほんものと偽物とを分けるのは、自己愛なのではないかと思う。自己愛とはすなわち、世界に対して閉じているということだ。ある種の「先生」と呼ばれるひとたちと話していてぞっとするのは、彼ら/彼女らの目が、世界のどこへも向けられていない、開いていながら実は閉じているその不気味さ故にだ。
学会の会議でダメージを受けたあと、転げるように逃げ出し、彼女と落ち合った。秋葉原近くにあるアートスペースみたいなところへ行き、そうして、そこで展示されている「アート」とやらのあまりの酷さに言葉を失い、しばらく外の花壇の縁に腰かけ、ふたりで蚊に刺されつつ呆然としていた。その「アート」の醜さもまた、閉じた世界で己に向けた愛のみによって水膨れした魂の醜さだった。
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例えば論文で苦痛や恐怖について書くとき、ぼくは決して、ネガティブにそれを描いているのではない。もっとも、それはまず理解されることはなく、単にネガティブに捉えられるか、あるいは何をどうすればそうなるのかは分からないが、結局ぼくも、普遍化可能な(とはいえ誰もそこまで露骨には表現しないが)善性や正義や理想について書いているのだと誤解を――さらに悪くは、共感をさえ――される。
苦痛や恐怖のなかに留まることによってのみ、苦痛や恐怖を与えるものとしての他者が在り、苦痛や恐怖を与えられるものとしての自分が在るということへの確信が得られる。その逆もまた真だ。ぼくはきみに苦痛と恐怖を与える。世界はそこから立ち現れてくる。
ぼくは確かにそこを通ってきたものからしか魂の救済は語れないと思っているのだけれど、どうにも、それは伝わりにくい。そうして、伝わるひとには、幾千の言葉を費やす必要もなく、伝わってしまう。にもかかわらず幾千の言葉を書いてしまうのは、要するに、ぼくにとっての開かれの在り方がそうであるからだ。
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蚊に刺されながら、彼女が雲の浮かんだ空を見上げ、この空の方がどれだけ……、と言った。ぼくも、そうだね、と答えながら、蚊に刺されていた。