やっぱりぼくは、暗い話を書いている方が性に合っているように思うのです。何だか最近はすっかりユーモアがなくなってきてしまいましたので、暗い話を下手に避けようとしても、不自然になるばかりです。先日会社に行く途中で人身事故があったのですが、携帯電話のカメラで奇声のような笑い声をあげながら写真を撮るひとびと、にやけた顔で良いものを見たと言わんばかりに肘で突きあうひとびと、仕事に遅れるじゃねえかといらいらしながら、迷惑をかけずに死ね糞がと吐き捨てるひとびと、そんななかで日々を過ごしながらなお明るい話を書けるというのであれば、それはそれでちょっとばかり陰惨な情景ではあるでしょう。
というわけで、じみじみと根暗に、地下に潜ってきました。もちろん、地下に潜ったといっても、ごくありきたりな観光地化された洞穴に過ぎません。さいわいそれほど混雑もなかったのですが、せっせと潜り、せっせと這い出てきました。まあ、人間、あまり長く暗闇になじんでしまっては、その分日差しの下へ戻ってくるのがつらくなるだけです。ぼくのような凡人には、せいぜい15分か20分程度の暗闇が、毒にならないちょうどよい塩梅なのかもしれません。
地下には、氷やら溶岩の奇妙なかたちやら、それなりに面白いものがありました。氷の塊なんて、じっくり丁寧に撮れば、素人なりにきっと美しい写真になるように思います。けれど結局、それなりに気に入った写真は、電燈を写した1枚だけでした。
洞穴内は研究仲間と一緒に歩いていたので、やはり歩くペースは、自分だけのときとは異なります。歩く速度が普段よりも物理的に速かろうが遅かろうが、それは結局、自分のペースでないものに引きずられていくという意味において「速い」のです。良い悪いではなく単純な事実として、「速い」なかでは、自然は撮れません。けれども人工物は、意外に、そういった「速さ」のなかでこそ、何となく気に入った写真を撮れたりします。
いえ、単純に自然と人工物に分けられることでもなさそうです。もし写真がある瞬間を切り取るものではなく――少なくともそれだけではなく――むしろ被写体それ自体がもつ歴史の全体を写しだすのだとすれば、写しだす行為そのものにも、その歴史に比例した時間が求められるのでしょう。そう考えれば、古い家具を撮るのにはそれなりの「遅さ」が必要ですし、彼女と雨のなかを歩きながら何気なく撮った一枚の葉が雫に弾かれる美しい様などは、「速さ」のなかでこそ可能であったのかもしれません。
みなのペースに引きずられるという「速さ」のなかで撮られ、撮るからこそ、旅行先でのスナップ写真には、その生き生きとした瞬間性がまざまざと写しだされます。逆に、たった独りの対象に極限まで同化してひとつの「遅さ」を生みだすとき、その対象の肖像画にはその対象の人生がまるごと現れてきます。
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などともっともらしい嘘を考えながら、地下で氷の塊を撮ろうとしていたら、足元の氷に気づくのが遅れ、つるりと滑って右半身を強打しました。カメラを守りつつ転倒したときに思わずシャッターを押していたのか、ピンボケのぶれぶれのまま、ぼくの情けない顔の一部が写っています。歴史も人生もあったものではありませんが、そのぶれぶれのみっともなさのなかには、それはそれで、ぼくの人生が映しだされているような気もしたりするのです。