昔、人形劇部に居たとき、どうして人形劇なんてやろうと思ったの? と、当時出会ったばかりの相棒に訊かれたことがある。それ以降、数年おきに訊ねられるので、たぶん、ぼくのイメージと人形劇というのは、あまり合わないのかもしれない。もっとも、最後には中退することになる大学生活においていちばん多くの時間を過ごしたのがこの部だったし、ぼく自身としては似合わないとは思っていなかったのだけれど。でも、ともかくそのとき思っていたのは、例えばぼくらの人形劇を見た子どもたちが、何年も経って大人になって、ありふれた過程を辿って糞のような人生に行きついて、もうどん詰まりでどこにも行けなくて、ぼーっと川面を眺めているとき、ふとどうしようもなく下らなくて莫迦げていて、だからくすっと笑ってしまうようなぼくらの劇を思いだして、ま、そんなもんだよねと目の前のどん詰まりから一歩身を引けるような、そんなふうにぼくらの劇がなれたら良いよね、と思っていた。考えてみればずいぶん変な動機だけれど、けっこう、ぼくは本気でそう思っていた。
大学で講義をすると、阿呆らしい話だけれど、生徒による授業評価みたいなものが最後にある。大学の講義において成績をつけるのと同じくらい、その講義について成績をつけるというのは下らない。下らないことばかりをしているから、大学自体に意味がなくなっても仕方がない。とはいえ、結果をみると、それはそれで面白いこともある。ぼくの評価のうち、目だって低いのは「講義に対する熱意」とかいう項目だ。最初は意外な気がした。自己満足という面もあるかもしれないが、熱意だけはこめているんだぜ、と思って毎回講義をしているからだ。
でも、改めて思えば、分かる気がする。ぼくは、講義に遅刻しようが欠席しようが、そのこと自体はけっこうどうでも良いと思っているし、学生さんたちにもそう伝える。無論、それなりに欠席が重なり、レポートも未提出となれば、形式的には単位を出せない。けれども、単位を取れないことだって、中退をすることだって、ほんとうはどうでも良いことだ。そんなぼくの態度が、学生さんたちには熱意のなさとして映るのかもしれない。
無論、大学を中退すれば誰かに迷惑をかけるかもしれない。世間体も悪いだろう。けれども、迷惑をかけないためとか世間体のためとかで大学を卒業するというのもおかしな話だということは、理想論ではなく事実として頭の片隅に入れておく意味はある。そうして、いまの時代、大学を中退すれば、それはまず間違いなく取り返しのつかない、ものすごく大きなハンデとなる。それは事実だし、その結果をすべて当人の責任だと言い放つことはできない。しかしそれを社会構造の問題だというのは単なる正論であって、ぼくらが置かれている状況の異様さを無批判的に受け入れる理由にはならない。
まあ、細かい理屈なんてどうでもいい。講義に出席してレポートを規定文字数埋めて良い成績を取って。学ぶということは、そういうことではない。一般論として、大学は、それを知る最初で最後のチャンスだとぼくは思う。残念ながら。だけれど、ぼくらはたいてい、高校生頭のまま大学に来て、時間を潰して、何も変わらないまま社会人頭になって押し出されていく。そもそもいまの教育システムというのは「使える社会人」を作りだすためのものだから、高校生頭はイコール社会人頭だ。
それは、現実問題として、まず変えられない。ぼくらは革命家ではない。でももっとささやかなお話として、将来社会とやらに出て、お決まりのコースを辿って糞のようなどん詰まりに行きついて、フェンス越しでもそうでなくとも良い、ビルの屋上端から下の道路を見下ろしているとき、ふと、ああ、そういえば大学生のころ、何だか訳の分からない講師が訳の分からない話を、やけに楽しそうに話していたな、変な奴だったな、あのひとまだどこかで生きているのかな、なんてことを想い、くすっと笑ってしまって、ま、そんなもんだよねと目の前のどん詰まりから一歩身を引けるような、そんなふうにぼくの講義がなれるのであれば、それはどんなにか素晴らしいことだろう、と思う。
ひとと話すのを極端に怖がるきみがどうして大学で講義なんてしているの、と、相棒にときおり訊かれる。ひとが怖いのは昔から何も変わらない。子どもたちと直接向き合うことさえできなかったぼくは、人形という仮面を通してどうにか演じることができた(もっとも、最後のころは半分ふっきれたのか、人間の役者として人形を相手にした舞台を作ったりもしていたけれど)。でも、それでも人前に立って話すのは、こんなことを考えているからだよ、と言う。
どこまで本気なのかは自分でも分からないけれど、いずれにしてもそれは綺麗ごとではなくて、ぼくらが互いに最後のところで無力なままになお相手をここにそっと引き留める、目に見えない無数のネットのひとつなのだと、ぼくは思ったりしている。