彼女とTVを観ていた。ぼくは普段TVを観ないのだが、ただ彼女と並んで、古い古いブラウン管TVを眺めているだけでも、何だかひどく、その全体を愛しく思ったりする。画面のなかでは、何やら雲に映像を映すとかいう話を流していた。まるで糞のようだった。子供のころ、しばしば、家族であちこちに旅行に行った。どこの観光地でも同じように、糞のような音楽を垂れ流していた。子ども心にぼくは、その罪とも呼べるほどの腐った感性を憎悪していた。いま、どこかに行くと、ライトアップなどという阿呆な単語で、ただ在るだけで良いものに汚物をぶちまけ、それをアートだなどと呼んでいる。先の雲に何かを映すという話に戻せば、アナウンサーの言葉によると、それは自然を傷つけない何とか、だそうだ。何とか、の部分は、あまりに下らないので覚えられなかった。気が狂っているのかと思う。それは、自然も、人間も、技術でさえも汚染し、冒涜し、傷つけるものだ。
ただ、雲が在ったりする。それに、ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ、概念やら何やらを投げ込み、ぶちあて、切り刻んだりする。そこには怖れも祈りも覚悟も何もない。
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彼女とどこかの店に行った。ほんの数日前の金曜日の夜のこと。あれはどこだったのだろうか、よく思いだせない。ともかく、彼女が商品を見てまわる後ろで、彼女が気づかないときに、ロバート・スミスの真似をして踊ったりしてみる。Friday I’m in loveとか、口だけで歌ってみる。綺麗な格好をした店員のお姉さんが、もう少しで警察を呼びそうな顔でぼくを睨んでいる。朝方雨に濡れ、働くうちに乾いたぼさぼさ髪のまま、よれよれの白いYシャツに黒ジーンズに登山靴。唯一の身分証明書だったパスポートの期限も既に切れ、残っているのはロバート・スミスの真似だけでしかない。
もちろん、そんなことはすべて嘘だ。あらゆることがすべて嘘でしかない。だけれども、問題はそれが真実かどうかなどという下らないことではなく、そこに祈りがあるかどうか、ただその一点だけだ。たとえぼくらが既に、虚空を憎むより以外に神との関係性を持ちようがなくなっているとしても。
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論文を書きながら、リヒターのトッカータとフーガ ニ短調を聴く。昔はテープレコーダーで聴き、いまはmp3で聴いたりするが、彼の神業に変わりはない。神、というのは、別段超絶技巧ということではない。そうではなく、そこにリヒターの祈りが厳然として顕れているということだ。安易に一神教の排他性と多神教の寛容性、などという排他的な論理を振りかざすひとびとに対して嫌悪感しか抱けないのは、そのぶくぶくと水膨れした自己愛の塊に、何の祈りもないとぼくが感じるからだ。
ある一点の「絶対」があり、それを放棄する覚悟のなかでこそ、その絶対に対する祈りが可能となる。それは逆説でも何でもない。ただ、ぼくらの日常だ。そうしてそれは、途轍もない日常だ。