[アーカイブ]せめて恥を知ろう(2006/08/20)

言葉には力がある。プログラマなら誰だって知っていることだ。言葉には、世界を造る力がある。いや、言葉そのものが世界だと言ってもいい。それこそがプログラミングの本質だとぼくは思う。だからぼくは、悪い言葉は書きたくない。粗雑な言葉も、粗暴な言葉も、相手を見下したような言葉も書きたくない。もし世界が完璧なら、誰もわざわざ別の世界を造ろうとはしないだろう。この世界がまったく完全どころではないと知っているからこそ、ぼくらはたどたどしくも新しい世界を言葉によって造ろうとするのだ。そうであれば、何もわざわざ不快な世界を造る意味はない。

それにも関わらず、これだけは書きたい。昨日、ふとした流れで行ってきた「小さな骨の動物園展」(INAX GALLERY)。
http://www.inax.co.jp/Culture/2005g/12hone.html

最悪だった。昨日が最終日だから、ぼくも運が悪かった。

これは、小動物の骨格標本の展示。上記のサイトを見てもらえれば、「生命の神秘」とか何とか奇麗事が書いてあるが、そんなものは後づけのおためごかしだ。ぼくは少なからずニヒリスティックなところがあるが、それでも生命をせせら笑うほど落ちぶれてはいない。これは、一生懸命生きてきた動物たちを、死んだ後に晒し者にしているだけでしかない。行かなければ分かってもらえないと思うが、本当に晒し者だった。写真撮影が許可されていたので、多くの人間が、友人たちと笑いながら、デジカメや携帯のカメラで骨を撮っていた。

生命の神秘? 冗談じゃない。下品に笑いながら、後々の話のネタにするために携帯のカメラで動物の死体を撮る連中のどこに、生命への畏敬の念があるというのだ。

何を怒っているのか、分かってもらえないかもしれない。でも、ちょっと想像してみて欲しい。自分が大事に育てた犬が居たとして、いや猫でも金魚でもいいけれど、それが死んでしまったとしよう。その犬が標本にされて、ただ物珍しさや下世話な興味だけで来るような連中に写真を撮られ、「カッコいい!」だの「スゲエ!」だのと笑いながら指をさされるのを見たら、怒りを覚えないだろうか? そうでないのなら、それはそれで良い。あなたはきっととても心の広い人間なのか、あるいはぼくの心が異常に狭いかのどちらかだろう。

でも、少しでも共感してくれるのなら、きっと、あの場の異様さも分かってもらえると思う。どんな生き物も、我々の一時の退屈しのぎのために精一杯生き、死んで、標本になった訳ではない。自分以外の生き物の生も死も、下らない好奇心で触れてよいものではないはずだ。

自分が死んだ後、骨格標本となり、どこの誰とも分からない連中が押し合い圧し合いしながらニヤニヤ笑いつつ携帯を向けて写真を撮りまくる。ちょっとで良いから想像してほしい。死んでしまえばすべては無だと考えているぼくでさえ、そんな仕打ちはごめんこうむりたい。そこに「生命の神秘」とやらを感じる可能性があるというのなら、そう思う人の思考回路こそ神秘に違いない。

「生命の神秘」? 本当に、冗談はやめてほしい。

そうか。きっとぼくは、真実を伴わない、ただ表面だけ取り繕うだけの言葉を平気で使う人間が、嫌いなのだ。まして自分でその欺瞞に気づかないようなら、それはもはや救いようがない。

[アーカイブ]考える/疑う/伝える(2009/07/18)

ある時期、ぼくは会社で新人研修を担当していました。ぼくがいた会社は小さなところでしたので(ソフトウェア会社としては普通でしょうが)、新人研修担当は自分の仕事にまるまるプラスで新人の面倒を見なければなりません。その負担は結構大きいのですが、ぼくはそもそもプログラムそのものも、プログラムに関して考えることも好きなので、この仕事は本当に楽しんでやっていました。

さて、研修において、しばしば新人さんたちが共通して戸惑うことがありました。それは10進‐16進変換です。コンピュータでは2進数が基準になりますから、それをもう少し扱いやすくした16進表記に慣れる必要があります。これは技術的には極めて容易なことですから、慣れてしまえばどうということはありません。けれども、単なるテクニックとして10進‐16進変換ができても、それではあまり面白くないのです。というより、そんなことを言ってしまうとあらゆることが単なるテクニックで片づいてしまう。理解し、使えるというだけでは、三流のプログラマにしかなれないとぼくは思います。「良い歯車」を作る新人研修など反吐が出そうです。

さて、10進‐16進変換に話を戻しますと、新人さんたちはこのように言うことが多いのです。「16進で13は、本当は19です」。プログラムをしているほとんどの方は、こんなこと言わないだろうと思うでしょう。また、プログラムをしない方はそもそも何を言っているのかお分かりにならないかもしれません。けれども、経験的にこういう言い方(この通りでなくとも)をする新人さんを何度も見てきました。要するに、初めて16進数に触れたとき、それはすごく人工的なものに感じられるようなのです。彼らの感覚では、「本当の数」はあくまで10進数であって、16進数は単に技術上便利だから作られた、ある種仮想的なものに過ぎない。だからこそ、最初のうちは10進‐16進変換を頭の中で意識的に変換しないといけないのです。

でも本当にそうなのかな、と、研修担当だったぼくは彼ら/彼女らにねちねち絡みました。いや嘘です、さわやかに絡みました。本当の数ってなんでしょう。10進数だって、人間の恣意に過ぎないのではないでしょうか? 人類の指が基本的に4本4本の8本構成だったら、ぼくらは8進数の世界に生きていたかもしれない。そんな世界では、きっとぼくらは、「10進数の12は、本当は14」だと考えていたかもしれない。本当って、何でしょうね。

ぼくらが直接には表現できない本当の数っていうものがあって、10進も16進も2進も、いや何進数だっていいのだけれど、それは単に、その本当の数のそれぞれ恣意的な現れに過ぎないのかもしれない。それを感覚的に理解している人というのは10進‐16進変換に何の抵抗も抱かないのです。恣意‐恣意変換は、真‐仮変換よりも移行がたやすいということかもしれません。もちろん一般的に言えばそんな変換などたいした手間ではありませんから、慣れてしまえば誰だって問題なくできます。けれども根本的なところでそれは頭の良さに頼った方法ですから、進数の変換だけではなく、あるものとあるものを変換するということにおいて、問題が複雑になるにつれ、だんだん対応するのが大変になってきます。

いずれにせよ、ぼくらは言葉では捉えきれないリアルな何かに対して恣意的に言葉を与え、それを表現し、形を与え、理解可能なものへと落とし込んでいくしかない。それがプログラミングです。それは、不定形のナニモノかを切り落とし、ぼくらが共通認識できる形へと暴力的に整形してしまうことです。それはそうせざるを得ないのですが、けれどもその向こうにある不定形の何かに対する感覚を忘れてはならない。ぼくはそう思います。

と、そんなことをですね、プログラムの基礎を普通に学ぶ一方で、新人さんたちと一緒に考えるのです。無論、この通り話すわけではまったくありません。そもそもここまで話した内容って、完全に適当な法螺です。けれども、ぼくは新人研修において、何よりもまず考えることに重きを置きたかったのです。そして当然、ぼくの法螺に対して疑うということも。

本に書いてあるから、学校で学んだから、先生や先輩が言っているから、あるいはそれが習慣だから。冗談ではありません。そんなものを疑わずに飲み込むようでは、まともなプログラマになどなれるはずもないのです。あらゆるものを考え、疑わなければならない。一方で、ぼくは口だけはうまいので、そんなぼくを言い負かし、言いくるめられるくらいに、自分の考えを伝える能力も身につけなければなりません。プログラミングの知識と技術だけあってもコミュニケーション能力が低くては一流のプログラマにはなれません。プログラマに限らないですが。別に社交的であれ、ということではなく、自分の考えを他人に伝える能力ということです。

一からプログラムを学ぶのは、語学を学ぶときと同じくらい、多くの違和感や疑問を感じるチャンスです。単に技術を学ぶだけなら、誰にだってできるでしょう。けれども、自分の腕に誇りを持てるプログラマになるためには、あるいはプログラムを組むことの楽しさを知るためには、ぼくはその第一歩として、考える/疑う/伝えるということが欠かせないのではないかと思っています。

まあ、全部法螺なのですが。

[アーカイブ]新世紀宮沢賢治(2009/07/29)

ぼくは以前、はてなブログで書いていました。はてなをやめて、ここで書くようになって、そのとき、あまりに投稿が多くてすべては引っ越しませんでした。でもひさしぶりに非公開設定にしてあるはてなブログを眺めてみたら、個人的にはですが、けっこう懐かしくて笑える投稿があるのです。そこで、いまは次の論文に向けてなかなかブログを更新できないでいますし、せっかくなので昔の投稿をこっちに持ってこようと思います。[アーカイブ]カテゴリーでまとめていきますので、良かったらお読みいただければ幸いです。基本、ばかばかしいお話が多いです。というわけで、第一回目は「新世紀宮沢賢治」。そうそう、ぼくは何しろ記憶力がないので、毎回毎回、投稿の間隔が空くたびに自分の文体を忘れていたんですよね。

こんばんは。誰も待っていなかったでしょうけれど、二週間ぶりの雑記です。いや誰も待っていなかったとしてもこのぼくが待っていたのです。雑記! おお何という甘美な響き! 何を書いても誤魔化せ……もとい、許されるというこの究極の自由! などと言いつつ、いつものことですがこのブログの文体を忘れてしまいました。いつもぼく、どんな感じで書いているんでしょうか。良く分かりません。分りませんがまあこのまま書いてみましょう。

昨晩連絡がありまして、論文が通りました。ゎぁぃ。と、少し喜びました。論文は良いですね。反論があってもそれは言葉で来るから、こちらもじっくり言葉で応答することができる。学会発表とかはダメです。相手が何を言っているのか良く分からないけれど、本気で訊き直しているうちに時間が終わってしまう。いや本当に何を言っているのか分らない。そして向こうもぼくが何を言っているのか分らないのでしょう。と思って、前回の学会発表では録音を取りました。セルフ録音。セルフつける意味あるのかな。でも自分の声を聴くのって嫌ですね。自分の歌声とか聴くと、普通に昏倒してその後三日間くらい昏睡できます。あと、人前で話すときはだいたい頭の中が真っ白になっていますから、後になって不安になります。何かとんでもないことを叫んでいたりしなかったかしら、と。だいたいこういうときって身体に刻み込まれた言葉がでてくるでしょうから、ぼくの場合は大学時代にやっていた人形劇の台詞ですね。「お兄ちゃん、お遊戯しよう! お遊戯しよう!」とか「じゃあぼく、これ食べちゃうよ!」とか「うん、ぼく根性ある!」とか、何かそんな言葉が無意識のうちに口から出てしまっているのではないか。そんなことを考えながら、録音機の前でぶるぶる生まれたての小鹿のように震えていたのですが、なあにソクラテスだって毒の杯を飲んだではないか。で、聴いたのが三日前でいままで昏睡していたのですが、意外にまともに喋って受け答えしていました。当たり前か。

そんな感じでそもそも人と話すのが苦手なのですが、その上さらに、どうもぼくは耳が悪いようなのです。いや自分ではそうは思っていなくて、むしろ他の人よりも身の危険を知らせる音には敏感だと思っているのですが、でも実際、人の話している言葉が良く聴き取れないのは事実のようです。特に相棒の話が最近聴き取りにくくて、といってもこれは前からその傾向はあって、彼女の声質のせいもあるとぼくは思っているのですが、ともかく聴き取れないことが多い。先日一緒に食事をしていたときに、彼女が子供のころにどんなおやつを食べていたか、と訊いてきました。子供のころなんていったらあなた、もう三十年弱前ですよ。この前怖い話のまとめサイトを見ていたら、「築三十年の廃屋」とかが出てきて古くて怖〜いとか書いているやつがいた。三十年なんてわけーよ俺の方がこえーのかよ! とか切れやすい十七歳のニバイニバ~イとか思っていたのですが、そのくらい昔のことです。でも話しているうちにいろいろ思い出してきてけっこう懐かしかった。ちょっと話がずれますが、サラリーマンになって何がいちばん嬉しかったかっていったら、これはもうカルピスを原液で飲める! という一事に尽きました。何という贅沢。何というこの背徳感! 気分はもうかぶと虫です。まあそれはともかく相棒にも訊いてみました。きみは子供のころどんなおやつを食べていたの? そうすると彼女は「釣り餌」と答えたのです。いや……いくら何でも、釣り餌はないだろうと思うのですが……しかしもしかしたら、と思わせる何かが彼女にはあります。いやないけど。で、もう一度訊き直したのですが、やっぱり「釣り餌」に聴こえる。「釣り餌!?」と訊きかえすと違うよと言うのだけれど、とりあえず釣り餌でいいやと自己完結して、その話題は終了しました。

そんな感じで、査読つき論文が通りました。まだまだ先は長いけれど、とりあえず博士号に向けて第一関門は突破です。神学士、環境学修士ときて最後は農学博士。脈絡はなさそうですが、目指すは二十一世紀の宮沢賢治。どっどど どどうど どどうど どどう 青いくるみもぶっ殺せ! すっぱいかりんもぶっ殺せ! 「莫迦め、クラムボンは死んだわ」

このブログの文体、どんなんでしたっけ……。

倫理マシン

例えばぼくの世代だと、好き嫌いがあったり我儘を言ったりすると「アフリカの子供たちのことを考えなさい……」的な感じで叱られたりしなかったでしょうか。うーん、どうだろう、いまはこういうのってあまりない気がします。そしてそもそもぼくは両親にこんなことを言われた経験は恐らくなくて、当時の文化というか雰囲気というか、それがぼんやりと形を取ったに過ぎないように思います。

いずれにせよ、ぼくはいまでもこういう言葉が頭のなかに固く残っていて、何か嫌なことや大変なことがあっても、その固いナニモノかが「アフリカの子供たちのことを考えなさい……」と言ってきます。言うまでもなくこれはめちゃくちゃな話で、完全に差別です。何も知らないのに上から目線であの人たちは可哀そうと決めつけている。そして同時に、まさにぼくは何も知らないのであって、だから何の意味もないほど漠然とした言説になっている。繰り返しますがこれは本当にめちゃくちゃな言説です。ただ、それが自分の頭のなかに残ってしまっているということと、それを俯瞰で理解できているということとは併存するということですね。

そしてその漠然性が恐らくポイントでもある。ぼくは自分の頭のなかにあるこの固い何かを倫理マシンと呼んでいます。この倫理マシンは非常に抽象的で、だからこそあらゆる局面に適用可能で、ぼくの行動や思想をつねに監視しています。と書くと何だか常軌を逸しているように思えるかもしれませんが、ぜんぜんそういう話ではありません。誰でも自分のなかにそれぞれ独自の倫理的規範を持っていて、それがいろいろな状況で自分を律してきますよね。要するにそれです。

あ、これ、暗い話ではないですよ。けっこうばかばかしい話です。で、この倫理マシン、他にも幾つか言葉を持っています。そっちはもっと具体的で、あるとき読んだ本の一節が元になっているもの。恐らく上記の「アフリカの……」が倫理マシンの根源で、それが育つなかで、本の言葉を覚え、取り込んでいったということなのだとぼくは理解しています。ともかく、その言葉のなかでも汎用性が高いものが幾つかあり、そのうちの二、三を以下ご紹介します。一つ目は『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』から。

逃げてしまっては、きみは惨めな敗残者になるだけだ。きみはソクラテスのことを思い出す。彼は差し出された毒杯を黙って受け取り飲み干してしまったのだ。

ジェイ・マキナニー『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』高橋源一郎訳、新潮文庫、1991、p.85

怖いこと、嫌なことが待ち受けているとき、それでもその場に行かなければならないというのはしばしばありますよね。そんなときに倫理マシンはこの言葉をぼくに言うのです。「なーに、ソクラテスだって毒の杯を飲んだじゃないか」。確かにそうだなあとぼくは思ってしまいます。これはつらい。ソクラテスを持ち出されたら、もう逃げるわけにはいかないじゃないですか。

二つ目。これはカロッサの『ルーマニア日記』から。この本、素晴らしさに反してあまり知られていない気がするのですが、機会があればぜひお読みください。ぼくが持っているのは新潮文庫版でこれは恐らく絶版ですが、岩波文庫版はいまでも手に入ります。ちょっと長いのですが引用。

朝食の時、少佐が壺からマーマレードをだそうとすると、小さな鼠の死んだのがでてきた。どうして壺の中にはいったのか、誰にもわからない。[…]少佐はちょっときめかねた様子でいたが、それも一瞬間のことで、鼠の死骸を棄てさせ、気味わるさに眼玉の飛びだすような思いをしながらパンにマーマレードを塗り、壺をわれわれの方へまわしてよこした。われわれが身ぶるいするのを見ると、少佐はなおさら沢山塗りつけて、言葉すくなに無愛想にいいだした、鼠は昨夜落ちこんだばかりだ、腐敗の懼れはない、ドイツの町々は飢えにおそわれているのだ、こんなマーマレードをみじめな糠入りのパンに塗って子供たちにやれたらと思っている母親はどれほど沢山いるかわからぬのだ、と。そういいながら、少佐は気味のわるさに顔を歪めて、パンをむりむたいに噛んで呑みこんでしまった。とうとう彼は立ちあがって、立ったままで二枚目のパンにマーマレードを塗りつけ、われわれもまた彼に見ならうかどうかを見定めることなく、その場を外した。そうすると二三の者が声を立てて笑った。少佐を豚という者もいた。しかし誰の顔にも、ぴしりとやられたような気配が認められた。

ハンス・カロッサ『ルーマニア日記』高橋義孝訳、新潮文庫、1994、pp.57-58

ぼくはかなりの潔癖症で、床に落ちたパンとかを拾って食べるのには(その床は毎日拭き掃除をしているので汚くはないのですが)ものすごく抵抗があります。子供のころはとても無理でした。でも倫理マシンがこの一節を取り込んでからは、まあだいたいの汚れについては意思の力で、というほど大げさなものでもないのですが、食べられるようになりました。あと消費期限切れのものとか、表面がカビてしまったジャムとか。倫理マシンがぼくに言います。「こんなマーマレードを……子供たちにやれたらと……」。これもまた強力な命令になります。

挙げればきりがないのですが、あと一つ。サン・テグジュペリの『人間の土地』。言わずと知れた世紀の名著(堀口大學)からの一節です。砂漠に不時着したサン・テグジュペリと同僚のアンドレ・プレヴォー。生還が絶望的ななか彼らが何十キロも走破した晩、プレヴォーはついに泣き出してしまいます。けれどもそれは自分を憐れんで泣くのではありません。――ぼくが泣いているのは、自分のことなんかじゃないよ……。そしてサン・テグジュペリもそのときはっきりと理解します。むしろ助けを求めているのは、もうサン・テグジュペリもプレヴォーも見つからないと思って苦しんでいる、彼らを愛した誰かたちの方なのです。だからこそ、二人は一秒でも早く生還しなければならない。自分のためではなく苦しむ彼ら/彼女らを助けるために。そしてそこで驚異的で偉大な逆転が生じます。

ところが、彼方で人々が発するであろうあの叫び声、あの絶望の大きな炎……、ぼくは考えるだけで、すでにこれには耐えかねる。この多くの難破を前にして、ぼくは腕をこまねいてはいられない! 沈黙の一秒一秒が、ぼくの愛する人々を、すこしずつ虐殺してゆく。はげしい憤怒が、ぼくの中に動きだす、何だというので、沈みかけている人々を助けに、まにあううちに駆けつける邪魔をするさまざまの鎖が、こうまで多くあるのか? なぜぼくらの焚火が、ぼくらの叫びを、世界の果てまで伝えてくれないのか? 我慢しろ……ぼくらが駆けつけてやる! ……ぼくらのほうから駆けつけてやる! ぼくらこそは救援隊だ!

サン・テグジュペリ『人間の土地』堀口大學訳、新潮文庫、1994、pp.143-144

この逆転! 苦しんでいるとき、しかし本当に苦しんでいるのは、苦しんでいるぼくを見る誰かなのかもしれません。あるいは、本来であればぼくが果たすべき責務を果たせないが故に誰かが苦しみ嘆くことになるのであれば、自らの苦難などから無理やりにでも足を引き抜き救援に向かわなければならない。自らの苦難は、だからむしろ、救援するものとしての自己を自らに知らしめるための契機にすぎない……。そんなことを、倫理マシンはぼくの背後で語り続けています。

言うまでもなく、ぼく自身は適当でいい加減で、逃げること以外に関心がない人間です。本を読むのは自分が楽しいからであって、それ以外の理由はありません。物語は常に物語として、それのみで美しい。だけれども同時に、ぼくのなかにある倫理マシンもまた、貪欲にそれらの物語を咀嚼し、そこから彼の糧となるフレーズを取り込み続けていきます。恐ろしいことに、その過程はいまでも続いています。

もちろん、これもまた言うまでもなく、倫理マシンなどといったものは存在しません。頭蓋骨を切り開いてみたところでそんな器官はどこにもない。要するにそれは、誰にでもあるありふれた倫理規範の言い換えにすぎません。それでも、やはりそれは在る。矛盾した言い方ですが、それはぼくに取りついている。だけれども、最初に書いたとおり、これは暗い話ではなくばかばかしい話です。いまだかつて他に見たことがないほど、ぼくは自分をいい加減な人間だと思っています。いい加減オリンピックがあったら金メダルを取れるでしょうが、授賞式をうっかり忘れて欠席するくらいです。そして同時に、薄気味が悪いほど倫理的に自分を律している面もある。誰でもがそうです。そういった分裂を、でもちょっと突き放して眺めてみること。常にぐだぐだ寝そべっている誰かが居て、その誰かをつねにエイエイとどこかへ急き立てようとしている誰かが居る。それって、ちょっと可笑しい光景ですよね。自分自身の生き方とか信条とかイデオロギーとか、まあいろいろありますが、それに囚われつつもどこかから眺めて笑ってもいる。倫理ってそんなものだし、たぶんそれで良いのではないかと、ぼくは思っています。

あるとき本を買って

例えば昨晩の夕食は何だったかとか、まあそれはまだしも、いま頭痛薬を飲んで一瞬後にはもう忘れているということってしばしばありますよね。ないかもしれませんが。ぼくは時折自分の記憶力のなさ(もはや悪さでさえない)に自分でびっくりするのですが、びっくりしたことさえ忘れるので、いつも新鮮にびっくりしています。

でもある種のことはよく覚えていて、例えば20年近く前、当時住んでいた地元の駅に本屋さんがあり、仕事帰りにそこで石川九楊氏の『筆触の構造』を手に取ったのです。小さな本屋さんだったのですが、ちくま学芸文庫もしっかりそろっていたんですね。で、ぱらぱら捲っていたら、こんなことが書いてありました(下記に引用しているということは、つまり立ち読みしただけではなくこの後ちゃんと購入したのです)。

パソコンのキイを叩く、あるいはキイに触れることは、書くことと同じように手を使うが、筆記具=尖筆の尖端が紙に触れることによって生じる〈筆触〉が不在である。このため〈筆触〉に導かれている「書くこと」とは完全に切れている。

石川九楊『筆触の構造 書くことの現象学』ちくま学芸文庫、2003、p.60

ぼくは当時まだ生粋の、汚れなき、純粋な瞳をしたプログラマで、この個所がぱっと目に入って激怒したんですね。いまとなってはその感覚そのものは出てこないのですが、要は、筆記具=尖筆が一本一本(たとえ同じメーカーの同じ型番のものであっても)その筆触が異なるように、キーボードだってまた同様に、タッチの感触も音も異なるし、キーに触れるその一瞬というのは不確定で不安で、未知への投企なんじゃ! みたいな感じでした。

でもそのとき、ぼくはまだ、デジタル化されたものとそうでないものの相似と差異に関する感覚が荒くて、確かにそこでは、石川氏が言うように完全なる切断がある。例えば、彫刻と3Dプリンタで印刷された頭部像の相似と差異ですね。ただ『筆触の構造』は(そもそもそれがテーマではないのだから当然で、批判すべき点ではまったくないのですが)デジタルデバイスにも存在する、あるいは存在する可能性のある無限の差異への言及はない。なかったように思います。いやあるのか? というわけで、夜眠れなくなってしまってつらつらと考え事をしていたら、ふいにあのときの本屋で激怒していた自分、その全体を思い出したので、改めてこの本を読もうと思ったのでした。タイトル、とても良いですね。『筆触の構造』。いまの自分ならもう少しちゃんと読めるのではないかと思います。

すべてを一瞬で忘れていく私ですが、不思議なことにどの本をどこで買ったのか、そのときの、自分自身を含めた全体像というのは、何故か忘れずにいます。プルーストにおいて匂いがそうであったように、ぼくの場合は本を買ったときというのが、記憶の再生のキーになっているのかもしれません。

そんなわけで、いやどんなわけかは分かりませんが、その時どきに買った本を並べていくと、星々を線でつないで星座になるようにぼく自身の人生が見えてきます。そしてそれは、語るたびに自分の人生が変わるように、いかようにも描きなおせるものでもあります。今回、人文系出版社として素晴らしい本を出している月曜社さんにお声をかけていただき、hontoのブックツリーという選書紹介を書く機会をいただきました。「断絶と孤絶の時代に抗して他者について考える」というテーマで(自著を抜かして)4冊紹介しています。もしよろしければご覧ください。あ、4冊だけでは足りなかったのと、あと説明文の文字数がフォーマット上限られていたのとがあり、noteでその周辺も含め書きましたので、併せてお読みいただければ幸いです。

断絶と孤絶の時代に抗して他者について考える(hontoブックツリー)

断絶と孤絶の時代に抗して他者について考える(note)

本の紹介って、本それ自体を書くこととはまた違ったかたちで物語を生み出すことで、それってすごく楽しいことですよね。読んだ本、noteになりますが、また紹介していこうと思います。

手を離すこと

その昔、KiwiのアニメーションがYouTubeにあった。いまでもあるのかもしれない。調べればすぐに分かるが覚えているので調べる必要はない。十数年前だからアニメーションといっても素朴なものだけれど、よくできていた。そのなかで、Kiwiは果て無く切り立った断崖に木を一本ずつ垂直に釘で打ち付けていく。そして気が遠くなるほどの時間を恐らくかけて、やがてKiwiが十分だと思うだけの木を打ち付け終えたとき、Kiwiは崖から飛び降りる。Kiwiは落ちていくけれど、視点を90度回転させると、崖に垂直に打たれた木々の間をまるで飛んでいるように見える。落ちているのではなく。飛べないKiwiの夢。

ぼくはこの動画がけっこう好きで、でも彼女は嫌いだと言っていた。それも分かる。それはKiwiのすべてを、ほんとうにすべてを賭けた夢なのだけれど、でもその対価がKiwiの命だとしたら、ぼくらはそんな、命を賭けなければならないほどの夢に憑かれなければならないのだろうか?

でも、そうではないとぼくは思う。そんな物語では、これはない。それは、何かに憑かれ続けてきたきみが、あるいはぼくが、ついに憑かれていたものとしての自分自身から手を離せたということ、手を離すことの物語なのだ。

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その昔、マイケル・キートンの『マイ・ライフ』という映画があった。名作かどうか、もはや記憶にないけれど、でも、矛盾した言い方だけれど、いつまでも記憶に残る映画だ。マイケル・キートンは名優だし、心霊術師(だろうか)役はなんとハイン・S・ニョールで、この人もほんとうに素晴らしい演技をする人だ。人だった。『キリング・フィールド』のディス・プラン役といえば伝わるだろうか。それはともかく、この映画のラスト、キートンが幻想のなかで、遊園地のジェットコースターに乗って手を離すシーンが、下らない言い方しかぼくはできないけれど、涙なしには見られない。あれも、末期癌に冒されたキートンが、怒りや悲しみ、どうしようもないことへのどうしようもない感情から、ついに手を離した瞬間なのだ。

ぼくらはいつか、手を離すことができるのだろうか? ぼくら自身から。

ぼくの人生の指針につねになってくれる物語が幾つかある。そのひとつはヨブ記だ。ヨブ記を物語と言ってよいのかどうかは分からないけれど。義人ヨブは、どこまでも神により痛めつけられる。それでも自分の義を信じるヨブは、人間としての限界に達するまでの異様な気高さでもって神に抗議する。けれども神はそれに答えず、ただ私(神)が宇宙を作ったとき、おまえ(ヨブ)はどこにいたのか、と訊ねる……。

これは人間が自分自身からついに手を離し神に帰依するもっとも美しい物語のひとつだ。

+ + +

だけれども、それは美しく、そこに最終的なこの宇宙すべての真理があるとしても、やはりそれだけではない。最初のKiwiに戻って言えば、そのパロディがあって、そこではKiwiが最後にパラシュートを開いて着地する。それはバカみたいだし、子供みたいなハッピーエンドだけれど、でも、そこにもやはり真理がある。

ヨブ記のラストでも、これは本文批評的には元来別の物語とするべきだろうけれども、唐突なハッピーエンドで終わる。それはあまりに唐突すぎて、それまでのヨブ記におけるテーマがすべてひっくりかえってしまうのではないかという気もするけれど、でもそうではない。Kiwiのパラシュートと同じで、やはりそこにも、人間が人間として生きるということの本質があらわれている。ぼくはそう思う。

+ + +

庭のハヤトウリが大量に実をつけた。彼女がそれを収穫して、小さな生き物たちがその占有を宣言していた。ぼくらの日常はそんなふうにして過ぎていく。

単著が出ます

12月に単著が出ます。出版社は共和国。いまもっとも優れて尖った本を出し続けている出版社だとぼくは思っています。共和国に今回の企画を目にとめてもらえたのは本当に幸運でした。書誌情報は以下の通り

ISBN 978-4-907986-75-9 C0010 四六判 288頁
価格 2,800円+税
発行 共和国
書店発売日 2021年12月15日

デザインは宗利淳一氏によるもので、帯も含め非常に美しい仕上がりになっています。

帯あり表紙。共和国代表の下平尾直氏による帯の文章もすばらしいです。「きみは神になりたいのか? そして、人間は、人文学は、いかに回復可能なのか?」

帯を取るとこんな感じ。共和国のロゴが美しいですね。

裏表紙です。

内容や目次については版元ドットコムのページをごらんください。ここで普段書いているようなことを別のフォーマットで表現してみるとこんなになるという感じで、興味がある方はぜひ手に取っていただければ嬉しいです。共和国の本はどれも一つの作品として成立している美しい佇まいのものばかりです。まだ実物はできていないのですが、ぼく自身、実際に手に取るのが楽しみです。

研究者としては常に次のテーマに向かって進み続けなければならないのですが、とりあえず、まずは一点刻めたなと、いまは少しホッとしています。具体的に名前を出すわけにはいきませんが、ここまで支えてくれた人びとに、そしてもちろん、このブログを読んでくれている皆さんにも、心からの感謝を。