長靴を履いたナニカ

例によって親知らずを抜いて、いまはまだ痛くてごろごろもだえ苦しんでいます。また歯医者の話。この人いったい何回親知らずを抜いているんだろう。もはや親どころかクロマニヨン知らずくらいに行っている気もします。いや逆か、曾々々孫知らずとかかな。ヒヒヒッ! それはともかくこの前所属している研究会で司会をしました。最近は学会発表もせずに司会ばっかりしている。zoom開催とはいえ研究会の事務局がある大学までてくてく歩いていく途中、急に雨が強くなり、ずぶぬれになりました。ずぶぬれになり泣きぬれ蟹と戯れ、それで靴はおしゃかです。周囲の人びとにいくらなんでもさすがに捨てろと責め立てられ、再び泣きぬれつつ捨てました。となるともう履く靴がありません。翌日は仕事なので、仕方なく長靴で出社しました。晴れているのに、嗚呼、世界はこんなにも晴れているのに。

しかしこのブログ、靴のことか歯のことかしか書くことが無いようですが、そんなことはありません。先日『現代思想』に掲載させていただいた原稿について、とてもありがたいことに批評があったので、その応答を少し。少し、というのは手を抜いてということではまったくなく、ありがたい100%なので同意以外に書くことがないためです。蚯蚓鳴さんによるブログ「てのひらに蕃境」の記事です。

『現代思想:特集メタバース(5)』「希少性と排除にもとづくデジタル所有権vs.メタバース」「宇宙の修理とメンテナンス」

一連の投稿で丁寧に今回の特集号を紹介、解説なさっており、とても興味深いです。ですので、本特集に興味のある方はぜひ上記ブログの一連の投稿をご覧いただければ。というわけで早速ですが応答を。

著者は「神=ユーザー」を、自分の秩序を全面的に信奉する者として一様に捉えているようで、個人的には自分の手に余るカオスを好む神もいると思われますし、ときには悪神のようなクラッカーが降臨し大災害のような事態に見舞われることも事実あり、企業が強固にデザインした箱庭といえども、すべてがデザイナーのコントロール下にあるといった想定は、ややいきすぎているようにも感じられました。

http://kinjikisoul.blog.fc2.com/blog-entry-1455.html

これはまったくご指摘の通りですね。メタバース(以前に書いた通り、私はやはりこの「メタバース」という言葉はどうにも恰好悪いと思っていて、恐らく別の言葉によって表されることになるのではないかと感じているのですが、でも案外こういうのが残ったりするのかもしれませんね)がほんとうの宇宙、つまりぼくがそこで生活しているという実感を持てる宇宙になるのであれば、今回の私の論考はあまりにその分析対象が一面的すぎると思います。メタバースがほんとうの宇宙になったとき、そこには必ず他の在り方、存在の様態が生まれるはずです。ただ、いまの時点でその無自覚的なユーザー意識が内包している問題点は指摘しておかないとまずいなということがあります。この「やばいな」感が私の場合は強いので、こういうテーマで書くことになりますが、特集の良いところは他の方がしっかり他の視点での分析をしてくれるところにもありますよね。

では他の在り方とは何か? その大きなものの一つが、蚯蚓鳴さんがまさに指摘なさっているようなカオスや破壊を基本的なモードにしたものであり、大災害であり、予測できない事故や社会情勢の変化(などの諸々)だと思います。私の場合は予測不可能性やコントロール不可能性としてこれを考えますが、同じようなことです。私たちが生きている世界がまさにそうであるように、メタバースもまたそういう側面が当然のものとして現れてきたときこそ、ようやくリアリティとは何かを問える空間になるのではないでしょうか。ですので、ここでのご指摘はその通りだと思います。

それにメタバースの原住民をAIと想定するのも、現状からは乖離しています。

引用同

これもまたご指摘の通りです。そもそも私は、いまのAIがいつか、少なくとも私たちの生という現実的な時間軸において強いAIになるとは考えておらず、しょせんは計算の塊でしかないと思っています。この場合の問題は、むしろ人間の方がAIに何を要求するのか、何を見出すのか、ということになります。これは人間の欲望であり幻想の問題なので、技術とはまた別に、現実として私たちの生き方に影響を与えるでしょう。これはメタバース分析としては上記の通り一面的なものかもしれませんが、特にいまのAI言説最盛期においては必要な批判だと感じていて、今回の議論もその流れに沿ったものだということになります。ページ数が少ないのでこの辺りは全体のコンテクストが分かりにくいのが反省点ですが……。

ただ、先の自分のブログに書いた通り、これは批判一辺倒ということではなく、チープで戯画的なAIに自分の欲望や幻想を投影するというのは、凄く切実で、それは人間の在り方としてはリアリティがあるものだとも思います。そういった意味で岡嶋裕史さんの『メタバースとは何か』は良い本だと思うし、今回の私の論考はそのネガ的なものだとも思ったりしています。あ、あと、モラヴェック的な野生AI、幽霊AIについていえば、私はこういうオカルト的な怪しい話が好きなので、どうでしょうね、いつかそういうのが出てきたら面白いだろうなあ、などと妄想してしまいます。コントロール不可能性って、どこから生まれてくるのでしょうかね……。

いずれにせよ、ご指摘いただいた点は私がいちばん関心を持っているところで、出版のあてもないままに書いている二冊の本のうちの片方ではこれが大きなテーマになってきます。コントロール不可能性こそが存在の根本原理であること、あるいは何かが壊れるとき、それがある空間内での出来事なのか、それとも空間それ自体の破壊なのか(リベラル優生学に対するハーバーマスによる批判はまさにこういった問題ですし、いまなら気候変動もそうだと私は考えています)、そしてまたそれによって犠牲になる存在があるとすればその絶対的な取り返しのつかなさをどう考えるのか、などなど、いくつもの重要な問いにつながっていくものです。絶対に面白くなるのでぜひご期待いただければ……。いえ、出すあて、ないんですけれども。

そんな感じで、ご紹介、ご批判いただけるのはほんとうにありがたいことです。ありがとうございます。読んでくれている人がいるんだ! というだけでも嬉しいのですが、リアクションがあるとさらに嬉しいですね。