というわけで、ほんとうにこのブログ毎回同じことしか書かないのですが、靴を買いました。ひさびさの登山靴。あまりに嬉しくてしばらく本棚の上に飾っていたのですが、ちょっとお出かけするときにいよいよお目見えすることになりました。誰に対してお目見えなのか、無論ぼく自身しか見てくれるひともいないのですが、それでも新しい靴、しかも登山靴は気分が上向きます。めっちゃ上向く。上向いて歩く。スキヤキ!
その勢いを借りて、何十年ぶりだか分かりませんが、いやさすがにそれはないかな、でも体感そのくらいでセーターも買いました。さらに靴下まで買ってしまった。鎧袖一触。脈絡もなく四字熟語が頭に浮かびます。一騎当千と言っても過言ではない。ただセーターと靴下を買っただけなんですけれども。そんなこんなでひさしぶりに帰国した友人に会うときに新しいセーターを着ていきました。もうこれはファッションリーダーという新しい種族に生まれ変わった私。しかし彼からは「これまでと何も変わらない」、「根本的にファッションというものを勘違いしている」、「冒険しなきゃだめだ」などなど、その他もろもろ人格批判を受けました。文化大革命、などとこれまた脈絡もない言葉を思い浮かべつつ、それでも、ここ数か月首を痛めているために前しか向けないことにより精神的にも前向きになっているぼくにダメージはありません。そういえばさっき上向くとか書きましたが、いま上を向けないんですよ。なんか落ち込んできたな。
けれども新しいセーターに新しい登山靴は気分が良いものです。意味もなく近所をてくてく歩いている途中でこれまで知らなかった郵便局を発見して嬉しくなり、後日さっそく手紙を投函しに行きました。どこに送るのでもない手紙。ポストの近くでは蟻が元気に何かを探索し、モンキチョウがぱたぱた飛んでいます。春は死の始まる季節なので苦手ですが、それでも、生き物を見るのはとても楽しいことです。
+
ここしばらく生活の基盤を変えるためにだいぶ忙しくしていました。あとひと月もすればだいぶ落ち着くのではないかと思うのですが、それでも本だけは読んでいました。そもそもこの人、他に趣味がないのです。最近はユッシ・パリッカ『メディア地質学 ごみ・鉱物・テクノロジーから人新世のメディア環境を考える』(太田純貴訳、フィルムアート社、2023年)とツヴェタン・トドロフ編『善のはかなさ ブルガリアにおけるユダヤ人救出』(小野潮訳、新評論、2021年)がすばらしかった。前者はタイトルからしてエルキ・フータモ『メディア考古学 過去・現在・未来の対話のために』(太田純貴訳、NTT出版、2015年)を思い出すのですが、っていうかいま気づいたのですが訳者が同じなのですね。1980年生まれでまだ若い方ですがフータモに師事していたとのこと。優秀な人っているものですね……。ちなみにパリッカはフータモとの共著論文もあるとのこと。とにもかくにも、本書、テクノロジーってぼくらの目の前にあるものだけを思い浮かべがちですが、そうではなくてその前にも後にも時間を持つものだよね、というお話です。これは凄く重要です。正直いまのメディア論(っぽいもの)って批判するにせよ肯定するにせよファンタジーみたいなものが多いのです。でも、じゃあどれだけそれについて語る空間それ自体を成立させているもの、そしてそれは目の前のデバイスやテクノロジーだけではなくその総体まで含めたものですが、そこに目が向いているのかしらというと、極めて疑問です。だけれど、そもそもその観点がなければ善も正義も自由も何も語れないはずです。だってそれらのデバイスやテクノロジーって、その前においては生態系も人間も徹底的に搾取して、その後においても生態系も人間も徹底的に破壊しまくるものですから。ぼくはzoomとか平気で言ったり使ったりする人文系研究者って信用できない(突然の発作)。そんなこんなで本書はとてもお勧めです。
あとは『善のはかなさ』。トドロフは翻訳もたくさんされていますが、ぼくは『個の礼賛 ルネサンス期フランドルの肖像画』(岡田温司、大塚直子訳、白水社、2002年)しかちゃんと読んだことがありませんでしたが、『個の礼賛』は素晴らしい本でした。今回の『善のはかなさ』もほんとうに面白い。第二次大戦時に、ブルガリアの管理下にあった西トラキアとマケドニアのユダヤ人たちは一万人以上が強制収容所に送られ、そのほぼ全員が殺されます。けれどもブルガリア本国のユダヤ人たちはそれとは異なる道を辿ることになる。それはなぜか、そしてどうしてそのようなことが可能だったのかということをトドロフは丁寧にかつ徹底して資料に基づきつつ考察していきます。本書はトドロフ編とあるように、彼自身の記述は四分の一程度で、あとは当時ユダヤ人保護のために奔走した人びとによる記録や資料になります。こういったものを(優れた翻訳で)読めるのはありがたい。資料が多いことについては訳者小野氏による解説がとても良いです。
トドロフが自分のものとして要求するのは、「真理の保持者」としての資格ではなく、「真実を追求する」権利である。そして同時に彼が望むのは、読者にもそうした姿勢を共有してもらうことである。自分が利用した資料をできるだけ生のまま読者に提供し、読者もその資料を自分の目で眺め、そこから浮かび上がる人物たちのそれぞれの視点やその人物についてのトドロフの見方を知ることで、読者自身に自分なりの判断基準を形成して欲しいと願うのである。
『善のはかなさ』pp.237-238.
そしてタイトルも良いですね。美しく、そして恐ろしい。
ある場所で特定の瞬間に善が到来するには、こうしたことのすべてが必要だったのである。繋がった鎖に少しでも欠損があればあらゆる努力は無に帰していたことだろう。公共生活に悪がもたらされれば、その悪はたやすく広がる。これに対し、善は困難で、まれで、もろいものとして留まる。しかしそれでも、善は可能なのである。
『善のはかなさ』p.63.
善は可能なのである……。けれどもぼくはそこまで確信を持てません。希望もたぶん持てない。そしてだからこそ、やはりトドロフのように真摯に調べ続け、考え続け、書き続けるしかないのでしょうね。しんどいですけれども。上記二冊、この時代、この社会においてぼくらがどう生きているのか、どう生きるのかを考える上で、それぞれ欠かせない観点を伝えてくれるものだと思います。お勧めです。
+
何だかまじめな話になってしまいました。いやまあ、ぼく自身まじめの権化みたいな人間なのでまじめな話しかできないのですが、いつでも目が笑っていない。でもいつでもニヤニヤしている。新しい靴を眺めてニヤニヤ。登山靴なので雨が降っていても平気で庭に出られます。庭でじみじみ草と水滴の写真を撮って、ふたたびニヤニヤ笑っている。でも家に戻ると新品の靴についた泥跳ねに愕然として、慌てて落としたりしている。そんな感じで元気に生きています。
いやはや、元気に暮らしています。