歩いている影とぼくの足

帰り道、頭痛がひどくなり困りました。外に出るというのに頭痛薬を忘れてしまったのです。そういうときは心の中で目を瞑ってひたすら時間が過ぎるのを待つしかありません。ロボットのように家にたどり着き、薬を飲みしばらくしてようやく落ち着きました。痛み自体はともかく、電車での移動はぼくの数少ない読書の時間なので、そういうときにせっかく持って出た本を読めないのがいちばん困るし残念です。けれども、ただひたすら痛みを耐えている時間というものも決して無駄ではなく、あとから振り返ってみるとその痛みの塊の漠然とした記憶のなかにも、それなりに自分の研究に役立つものがあるという実感があります。ほんとかな? 無論、だからといって痛みにも意味があるなどということを普遍化するつもりはないのです。それにどのみち、ぼくの頭痛もしょせんは六、七割は市販薬で抑えられるものでしかありません。

少し話は飛びますが、ぼくは大学教員があまり好きではないのです。あるいは、あまり関心がないというべきかもしれません。それでも心から尊敬している人もまた何人か居て、その一人である牧師先生から年賀状が届きました。牧師に敬称として先生をつけているのではなく、言葉通り牧師でかつ先生だった方。もう九十歳も半ばを過ぎていらっしゃると思うのですが、極めて達筆で、衰えることのない魂の力を感じさせる文面でした。以前にも書いたかもしれませんが、彼のある日の説教をよく覚えています。ぼくが在籍していたその二つ目の大学ではいつもお昼に誰もが参加できる礼拝がありました。最初に行っていた大学でも、週に一度だったかな、そういう日があった気がしますが、それには何の関心もぼくは持てませんでした。それは端的に、その一つ目の大学に居た牧師をぼくが信頼できなかったからです。牧師というのは途轍もなく怖い職業(と言っていいのかどうかは分からないけれど)で、生半可な説教など簡単に見抜かれてしまいます。言うまでもなくぼくだって、いやぼくこそ偉そうなことなど言えないのですが。けれどもぼくが尊敬していたその牧師先生の説教は真の意味で魂が込められたもので、そういう言葉を聴くためには、そのとき、その場に居合わせなければなりません。どうしてもそうしなければならない。それは人間によって、あるいは個人の意思によって選択できるものではなくて、だからほんとうに幸運だったのだと思います。ともかくそこで彼がひとつの挿話として語ったのは、彼があるとき大きな事故に遭いそれでもほとんど無傷で生還したときのこと。それは彼の力でもただの偶然でもなく(彼にとっては)神の力が働いたからなのですが、だけれども、そこで自分にはやるべき使命があるから神に生かされたとか、これは信仰心のないぼくにはうまく説明できないのですが、そう考えてはならないと彼は言っていました。なぜなら、もしそう考えるのであればそれはすなわち、同じような事故に遭って亡くなった人びとには神に与えられた使命がなかった、自分は神にとって生かす価値があったけれども彼ら/彼女らはそうではなかったのだと、たかが人間でしかない彼がそう断定することに他ならないからです。つまるところ、ぼくらには神の意図など決して分かりません。それでもとにかく全力で、生きている限りは全力で、自分には理解できない神の意図のもとで生きなければならない。ただそれだけのことだし、同時にだからこそ凄まじく大変なことでもある。

その大変さと恐ろしさは、信仰心の対極に位置するようなぼくであっても――なんてったってマルクスとかまともに読んだことさえないのに唯物論研究協会とかに入っていたのです。もともと悪い意味ではなく義理で入っていたのでもう退会しますが――分かる気がするのです。要するにそれは、自分の感じる痛みや恐怖に対してその向こうへ穴がつながるほど自分のものとして集中しつつ、同時にその痛みや恐怖を感じている自分を、どこに行くのかは分からない大きな流れに位置づけられる小さな豆のようなものとして、遥か上空から俯瞰するということです。必然と偶然が究極的に結びつくところで、ただただ一歩一歩極小の歩みを進めること。それはたぶん、一般的な意味での研究をするということとは何の関係もないことなのだと思います。一般的に言えば。だけれども、ぼくにとってそれは生きつつ研究するという最も根本的なスタイルとして、いつでも心にあることです。

いずれにせよ、ぼくは年賀状を書かない主義なので、彼には最近の研究テーマについて書いた手紙と最新の論文を送ろうと思っています。もっとも、人間は技術によって神になることはできないというのがぼくの近頃の研究テーマなんですよと書いたところで、恐らくこれを読んでくださっている皆さんとはまた違った意味で、彼にとっては当たり前のことだと思えるのでしょうけれども。