我に囚われた我々に赦しはあるのか I

原罪とは何か、ということを考えるとき、当然ですが創世記を読み直す必要が出てきます。けれど旧約聖書が成立する過程というのは極めて複雑ですから、ただロジカルに読むだけであれば、そこには多くの矛盾が生じます。けれども、それを単に無意味な論理的破綻と捉えるべきではない、とぼくは思います。いまぼくらの眼前にある聖書を前にして、そこから何かを読み取るということは、決して無駄ではない。いやこれはクリスチャンの方からすれば極当然のことだとは思うのですが、ぼくのように徹底して無信仰な人間からすると、どうしても本文批評して分析してばらばらに解体してラベルを貼って、ということをしがちになる。もちろんヴェルハウゼンだってフォン・ラートだってグンケルだってノートだって、みんな立派な信仰者だったでしょう。けれどもぼくの場合、そこに神のいない分析になってしまう。それはやはり自分自身に対して批判的にならざるを得ない。聖書というのは、そういうものではない。ただ、ぼくはやはり信仰というものを持つことはできないし、ぼくにとっての信仰とは、人間が手を羽ばたいて空を飛べないように、要するに原理的に不可能なことです。そしてその上で、無神論者である自分を認めた上で、それでもなおかつ(あるいはだからこそ)、信仰とは何かということを考えなければならないとも思うのです。そうして、キリスト教の本質が救済史にあるとするのであれば、ぼくらはまず原罪から、すなわち創世記から始めなければならない。そしてもしできるのであれば、この数回のブログを通して、どうしても信仰を持つことのできない「我の化物」としての自分にとっての救いとはどこにあるのか、それを考えてみたいと思うのです。

これは極めて個人的なお話になります。聖書を本文批評的に読むわけではありませんし、かと言って純粋に信仰を持って読むわけでもない。ですから、信仰のある方にもない方にも、等しく失礼なところがあるかとも思います。けれど、ぼくは決して信仰も理性も(それらが対立するものかどうかはまた議論があるでしょうが)馬鹿にするつもりはありません。どちらに対しても最大限の敬意を払いたいと願っています。その上で、要するにどこかの誰かさんが、神と、どうしても我を捨てられない自己との間でこんなふうに考えている、考えながら生きてきたという、単にひとつの記録であると思っていただければ幸いです。と言ってもそんなに長くはありません。極々シンプルなお話です。

疑問

創世記は、恐らく聖書の中でも最も知られているもののひとつでしょう。神が世界を、そしてアダムとイヴを創り、エデンの園に彼らを置く。けれど彼らは神の禁令を破り善悪の智慧の木の実を食べ、楽園から追放される。ぼくはこの物語(と言っても良いのであれば)を初めて読んだとき、幾つかの疑問を覚えました。何故、善悪の知恵の木の実を食べると死ななければならないのか。何故、善悪の知恵の木の実を食べたことにより人は裸を恥じるようになったのか。何故、人は先に善悪の知恵の木の実を食べたのか。先に生命の木の実を食べたらどうなったか。何故、蛇なのか。そして何故、男ではなく女を誘惑したのか。

生命の木の実を食べると永遠に生きられる(3:22)とすると、善悪の知恵の木の実を食べる前の人間は死すべき存在だということにならないでしょうか。そうでなければ、生命の木の実は楽園に存在する積極的意義を失います。けれどだとすれば、善悪の知恵の木の実を食べれば死ぬことになるという神の警告は意味をなしません。そもそも人は死すべき存在だったのですから。

知恵

そこでまず、善悪の知恵の木の実によって得られる「知恵」とは何かを考えてみましょう。それは自分が裸であることを知るだけのものではないはずですが、しかし人が神のように全知になれた訳でもありません。つまり、蛇の言う「神のように善悪を知るもの」(3:5)を字義通り捉えるだけでは、この箇所は意味が分からなくなってしまうのです。そもそも裸でいることは悪だったでしょうか。けれども、確かに蛇は嘘をついていません。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった」(3:22)と神自身が言っているからです。では、「善悪を知る」とはどういうことなのでしょうか。

「知る」の原語はハ・ダースであり、これはヤーダーの[冠詞+]分詞形です。この動詞には「知る」以外にも、「認識する」「選ぶ」「経験する」「洞察する」「判断する」など、様々な意味があります。しかしこれらの動作に共通するのは、それが主体的な行為である、という点です。したがって、善悪の知恵の木の実を食べよという蛇の誘惑は、「自らの判断によって善悪を決め、それを選び取れ」という誘惑、つまり「我」の獲得を指すものだったのではないでしょうか(あるいは主体や自我と言っても良いですが、やはりぼくは己が己であるということに対するある種の妄執を表すものとしての「我」という表現がしっくりくるのです)。

ここで注意すべきは、人は善悪の知恵の木の実を食べた時点で「我」を得たのではない、ということです。人が蛇の言葉によって木を見たとき、人はすでに自らの判断を神の判断よりも優先し始めています。これこそが「我」であり、従って、仮に人がこのとき木の実を食べることを拒否したとしても、それは自分の判断による拒否でしかなく、すでに神からの乖離は起きてしまっているのです。すると、善悪の知恵の木の実の持つ積極的な意義が失われることになってしまいますが、これは善悪の知恵の木の実と蛇とをあわせて考えることで理解できるかもしれません。これについてはあとでまた触れます。

人が神と共にあったとき、死は生の自然なサイクルの一部に過ぎませんでした。「我」のない人間にとって、死は怖れるべき何ものでもありません。しかし、「我」を得たことにより、人は、自らが失われる時の必ず来ることを知ってしまいました。神の言っていた「必ず死ぬ」という警告の意味することは、まさにこのことなのではないでしょうか。死は、「我」が永遠に失われてしまうことであり、それを認識するものこそが「我」なのです。だからこそ、人は死を恐れざるを得ません。

生命の木が禁令の対象とならなかったのは、人が「我」を持つ存在ではなかったとき、生命の木の実によって不死を獲得するのが、人の中にあった神の「霊」(6:7)だからです。神の霊はそもそも不死であり、従って禁じる必要がありません。けれど人が「我」を得たとき、人を人たらしめるのは神の霊ではなくまさに「我」となり、不死性を獲得するのもこの「我」であることになってしまいます。神が「今は、手を伸ばして生命の木から取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」(3:22)というのは、まさにこの「我」、神よりも己を上に置く意識が、今度は自ら手を伸ばし、永遠の存在となろうとすることに対する拒否の表明なのです。

蛇とは何でしょうか。古代オリエントの世界において、蛇とは生命、あるいは生殖の象徴でした。しかし、これは旧約の信仰からすれば、あくまで異教的な概念に過ぎません。蛇と永遠の生命という、旧約と同じモチーフとテーマを持っているギルガメシュ叙事詩について少し見てみましょう。

ギルガメシュ叙事詩は、シュメール人に起源を発すると言われています。彼らは楔形文字により、多くの神話や文学作品を残しました。ギルガメシュ叙事詩はその後の歴史の変遷の中で大きな変容を受け、様々な版が残されていますが、完全な形では現存していません。けれども残された幾つかの異本の断片から、オリジナルが推定されています。ギルガメシュ叙事詩では、特に大洪水の物語が、ノアの洪水 (6:9~9:19)との類似によって注目されています。

多くの神話と同様、ギルガメシュ叙事詩においても、永遠の生命の探求が中心的なテーマとなっています。ギルガメシュは不死を求め、洪水を生き延びた伝説の王ウトナピシュティムに会いに行きます。そこで永遠の若さを与えてくれる植物の存在を知ったギルガメシュは、遂にその入手に成功します。しかしちょっとした隙に、彼はそれを蛇に食べられてしまい、不死の獲得に失敗してしまうのです(蛇は脱皮という生態によって、不死の象徴とされていました)。

創世記において、永遠の生命は前面には現れません。これは、ギルガメシュが求めたのが、あくまで自己の肉体的な不死、つまり「我」の永続性であったのに対し、旧約における不死性(あるいは永遠性)は、ただ神との合一の中にしか求め得ないものだからです。したがって、神を離れて「我」を得るということは、旧約においてはまさに本当の死をもたらすものに転じてしまうのです。

こういった、「我」の生を肯定する異教の象徴として、蛇が登場します。蛇の賢さは、このことを示しています。つまり、蛇もまた(他の被造物とは明らかに異なり)「我」を持つ存在なのです。だからこそ、蛇は自らの死を恐れ、そして神の庇護下にあって自然な生を生きる人を憎悪するのです。それが蛇の人を誘惑した動機であり、だからこそ、すべてが神に露見したときも、蛇は神の前で沈黙を守るのです。なぜなら、彼は(あくまで彼の次元においてはですが)既に勝利しているからです。「生」を犯すという目的を達した彼に、もはや弁解する必要はありません。

このとき、蛇と善悪の知恵の木とは不可分な存在です。人は蛇に誘惑されなければ善悪の知恵の木の実を食べなかったでしょうが、しかし蛇だけでは人を誘惑することはできません。これらは表面的には二つの存在ですが、本質的には旧約の信仰に対立する「我」の、異なった表出に過ぎないのです。

蛇の存在をこのように考えると、なぜ蛇が女を誘惑したのかが明確になります。これは、旧来主張されてきたような、女の罪に対する弱さを表すものなのではまったくなく(キリスト教史的にはそのような読み方がされてきたという歴史が確かにあるのですが)、女によって表象される「生」(すなわち性と死の自然なサイクル)と、蛇によって表象される「死」(「我」の発生とその消滅)の戦いの物語なのです(ただ、女性をここでの読みのように捉えるということ自体、実はフェミニズム的にはどうかと感じる面もあるのですが)。人の弱さは、むしろ神に対する弁解として、男女共通のものとして描かれています(3:12以下)。ここでは、子を産む力を持たない男は、初めから蛇の眼中にありません。つまり、「お前は、苦しんで子を産む」(3:15)とは、「死」と戦って敗れた「生」が、その手段としての性の中に「死」を内包させてしまったことを指しています。

善悪の知恵の実を食べることにより、人は互いに裸を恥じ(3:7)、そして神を恐れて身を隠すことになります(3:8)。これは一見知恵とは何の関係もないように思えますが、「生」と「死」の戦い、という観点から考えると理解ができます。

初め、性は「生」に与えられた自然な手段でした。しかし「我」の獲得によって「死」が別の意味を持ってしまったように、性もまたその意味を変えてしまいます。生殖は、「我」が失われることに対する不毛な足掻きでしかなくなり、そして性行為は、死の恐怖を紛らわすための逃避でしかなくなるのです。人はそれを理解しているからこそ、互いに「性」(の象徴としての性器)を神の前に恥じるようになります。

「我」を持ち、神から離反してしまった人は、もはや自然のままの姿では神の前に立つことができません。裸を恥じるようになるとは、すなわち神によって与えられた姿を恥じるということです。だからこそ、人はそのように考えるようになってしまった自己に対し、神の怒りが下るのではないかと恐れます。これ以降、人はもはや複雑に規定された儀式、儀装を通してしか神と関わることが出来なくなってしまいます。

必然としての神からの離反と回帰/イニシエーションとしての原罪

神から離反してしまった以上、人はもはや神の庇護下に生きることはできません。人は糧を得るために苦闘しなければならなくなり、生は苦しみに満ちたものとなります。

けれども、人は、旅立たなければならない。「我」を得た人は、もはや神と合一することはできません。しかし、逆説的に言えば、ここからこそ、初めて信仰が始まるのです。人は、信仰を持つために、まず神から離れなければならない。徹底的に「我」に囚われ、そこから離れられない人間が、その「我」を捨て去ること、その不可能性にすべてを賭けることこそが、信仰なのではないでしょうか。ぼくはここで、ヨブ記を想起せざるを得ないのです(ヨブ記についても本文批評的には複雑な背景がありますが、ここでも同じように、いまぼくらの前にある聖書を読む、という形でこの物語を読もうと思います)。

神に厳格に従っていたヨブは、我が身に激しい苦難が与えられたとき、その理由を理解できず、神の義しさを疑うようになります。応報思想に立つ三人の友人は、ヨブが何らかの罪を犯したからこそ、この悲惨な境遇に陥ったのだとし、ヨブに悔い改めを迫ります。無論、ヨブとて自分が全く何も罪を犯していないと考えるわけではありませんが、しかしこれほどの苦難を受けなければならないような罪は絶対に犯していないとし、友人たちに断固として抵抗します。最後には神に対してさえ自己の潔白を主張し、神に挑むことになります。

ここで主題となっていることは、序における敵対者の言葉、「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」(ヨブ記1:9)に現れています。人は神の故に神を信ずるのではなく、自己の利益のために神を信ずる、という人間中心主義がそこにはあります。応報思想では、これを乗り越えることができないのは明白です。ヨブもまた、応報思想を前提とはしています。しかしヨブが神に対して自らの義さを叫ぶとき、そこには応報思想を超えた、異様なまでに気高い人間の姿が浮かび上がってきます。けれどこのときヨブは同時に、自らの義を主張すればするほど神から自己を遠ざけることになってしまうのに気づかざるを得ません。

これに対し、遂にヨブの前に現れた神は、世界創造の時いったいお前は何処にいたのか、とヨブに問い返します。これは、端的に言えば、お前は神なのか、という問いに等しいでしょう。いつの間にか自分を世界の中心に置き、神さえ批判の対象としていたヨブは、ここにおいて世界の中心から追われ、口を噤まざるを得ません。しかし神は、「天の下にあるすべてのものはわたしのものだ」(ヨブ記41:3)という言葉によって世界全体を肯定し、ヨブをも被造物として受け入れます。ヨブは自己の不信を悔い、そして神の全能を讃えるのです。

神から離反した人の罪の歴史、すなわち原罪史は、人間としての限界までにその「我」を高め、けれどなおかつその「我」を捨てさり神に回帰したヨブにおいて、完結します。

ここまでたどり着いて、ようやくぼくは断言できます。エデンの園に善悪の知恵の木が存在したのは、神にとっての必然ではなく、人にとっての必然であったのです。創世記からヨブ記を通してぼくらが見てきた物語とは、すなわち人が無自覚な信仰から自覚された離反を通り、やがて真の信仰へ至るためのイニシエーションの物語であり、その意味においてまさに、これは人類の原初史なのです。

さて、けれども、その上でぼくはやはりどうしようもなく「我」に囚われていますし、ヨブの姿に胸を打たれるとしても、ぼくはぼくなりの形で、信仰というものを常に切り捨てて生きていかなければならない。そう感じています。そこで次回は、このどうしようもなく己に固執した「我の化物」である自分にとって赦しとは何か、そして救いはどこにあるのかについて考えてみたいと思います。

それでは、また。

床に残る記憶

学園祭の時期ですね。いやもう終わったか。まあいいや。いま、ぼくは勉強することが好きでして、またとても楽しいとも感じています。それは自分が生きるということと自分の研究テーマが、極めて強く結びついている、結びついてあるようになったからだと思います。呼吸をするように研究テーマを考えることができるようになって、だいぶいろいろと楽になった気がするのです。最初の大学では情報科学というものを形ばかり専攻していましたが、このときは辛かった。周りの連中は、確かに優秀なのもいる。けれどではいったい彼らが何のために勉強しているのか、それが全然見えてこない。単なるマニアにしか見えないのです。そういう自分も結局は同じで、知識を自分の生にとっての武器にできていなかった。自分の魂を表現するものとしての学問を持てていなかった。だから中退したのはある種当然の結果であって、まあ適当にやって卒業して、良い企業に就職してさっさと結婚していまごろ役職についていて、もしかしたら子供もいて、そういう人生もあったかもしれませんし、それを否定しようとも思わないのですが、けれどやはりぼくはいまの人生を送らざるを得なかったし、それがぼくの在り方なのだなあといまは思っています。もちろんそれは現状肯定ということではなく、いまのぼくの生活には深刻な問題が多々ありますし、それには立ち向かっていかなければならないけれども。

何の話でしたっけ……。そうそう、学園祭です。だからいま、ぼくは学園祭というものにあまり関心がない。まあ当たり前でして、三十過ぎの男が「学園祭だーいすき☆」とか言っていたらそれはそれでちょっとやばい。けれども昔はぼくも学園祭が好きでした。学園祭そのものというより、そこでぼくらは人形劇を公演するのですが、それが楽しかったのですね。

先日、相棒とふたり、とある大学の学園祭を覗いてきました。ぼくらとは縁もゆかりもない大学ですが、たまたまやっていたのです。時刻はもう夕方で、ほとんどの企画や展示は終わりかけていたのですが、まだ校内にはその日最後の盛り上がりが残っており、その中を二人で歩きました。ただ、ぼくらはあまり賑やかなのは苦手でして、流されるように賑やかな表から裏側に入り込んでしまいました。そこは製作棟のような雰囲気の建物でした。その、ペンキ跡に汚れた床を見て、ぼくはふいに、昔自分がまっとうな大学生だったころのことを思い出していたのです。

大学時代、ぼくは相棒他何人かの部員と人形劇をやっていました。だいたいは子供向けで、たまに近所の幼稚園へ出張公演をしたりもしました。けれども学園祭では、どちらかと言えば子供向けよりも少し大人向けの演目をやることが多いのです。子供向けには子供向けの、学生向けには学生向けの、それぞれなりの難しさ、楽しさがあるのですが、まあそれはいずれ。

学園祭が近づくにつれ、当然ですが部室はだんだん修羅場になっていく。ぼくらは弱小な部でしたから、大抵脚本と演出は兼任になります。で、人形劇ですから人形を作らなければならないし、同時に役者も演じなければならないから台詞の通し練習や立ち位置の確認、発声練習もある。大道具小道具の製作もあるしパンフやポスターの作成もある。みんながひとり何役も持っているから、とにかくてんやわんやになります。手が足りないので、公演前になるとヘルパーさんも来る。狭い部室に作りかけの人形や大道具小道具、裁縫道具や工具が散らばり、ポスターやパンフの原稿、脚本も積んである。ベランダでは発声練習をする者もいるし、部屋の中では裁縫をしたり鋸で木材を切っている者もいる。何故か単に遊んでいるだけのやつもいる。

ぼくは、その雰囲気が好きでした。そしてもちろん、公演直前の緊張感、真暗なけこみの中にしゃがんでいるとき、あるいは音響/照明担当で開幕のタイミングをはかりつつスイッチに手をかけているときの緊張感も、あるいは舞台が終わり、お客さんのはけた後の客席にぼんやりと座っているときの開放感も好きでした。

だけれど、いま、ぼくの記憶に何よりも残っているのは、公演が終わりすべての後片づけが終わった後、再び見えるようになった冷たいコンクリート剥き出しの、部室の床なのです。そこには長年にわたってついた傷、塗料などの跡が点々と残っています。そして今回の公演準備の間についた新しい汚れや傷も増えています。ぼくはそれを見るのが好きでした。堅く、ひび割れ冷え切ったコンクリートに、けれど確かに、生き生きとしたぼくらの活動の跡が残されていたのです。

いま、もうその部室は使われていません。もしかしたら建物すら、すでにないかもしれません。けれどもし、あの部室をもう一度訪れることがあったら、ぼくはきっと、あの床を写真に撮るだろうと思っているのです。

旅に出たって自分なんか見つからないってお母さんいつも言ってるでしょ!

いや、先日とある映画の試写会に行ったのですが、これがまあひどい映画でした。タイトルは”Into The Wild”。基本的にぼくはレビューとかしないんですけれども、あまりにひどいのでちょっと書きます。内容どころかラストにまで触れていますので、映画を観ようと思っている方は以降お読みにならないでください。

とか言ってですね、まあみなさんご存知のように、ぼくにレビューができるはずがない。絶対に話がずれるに決まっています。それから、いつも書いている通り、ぼくは自分の主観と他人の主観を厳密に分けています。ですから、ぼくにとってつまらなかったからと言って、その映画に価値がないというつもりはありませんし、あなたがその映画を観てもつまらないかどうかは分かりませんし、あなたが面白いと思うのであれば、それを否定するつもりもまったくありません。ぼくが書けるのは、ただ、ぼくがその映画をどう思ったのかだけであって、このブログも、ぼくが何をどう感じるか以上のことは書けるはずもありません。

今回この映画を観に行ったのは、相棒が試写会の抽選に応募して、それが当たったからです。相棒は結構こういう試写会とかに応募するひとで、たまに当たると、二人で観に行きます。で、おんぶにだっこの状態で申し訳ないのだけれど、これが大抵、つまらないどころか無茶苦茶な映画であることが多い。いや『ダーウィンの悪夢』は面白かったな。でも『中国の植物学者の娘たち』はひどかった。あまりにひどくて憤激して、これは絶対ブログに書くぞと思っていたのだけれど、基本的につまらないことはすぐに忘れるたちなので、きょうのきょうまですっかり忘れていました。まあそれは良いや。で、どのみちぼくは映画そのものよりも相棒と映画を観に行くという行為自体を楽しむので、映画の内容がひどくても、行ったこと自体を後悔することはないのです。

で、今回の”Into The Wild”。これもひどかった。これはクリス・マッカンドレスという実在のアメリカ人の若者が、親との反目やら何やらが原因で、「本当の自分」を探しに「すべてを捨てて」荒野を目指し、けれどもその途中で毒の豆を間違えて食べて死ぬ、という、現実の話を元にした映画です。90年代初めですから、年代的にもぼくに近い。彼の方が半回りくらい上ですけれども。

誤解されがちなのですが、ぼくは決して優しい人間ではありません。むしろまったく逆だとお考えいただいた方が良いでしょう。ぼくが恐れるのは偽物の生です。ぼくにとっての悪とは本当の生を腐食させるあらゆる偽物のことであり、それを認めてしまったら、人間、もう後は生きたまま死ぬだけになります。それは絶対に嫌なのです。そして”Into The Wild”にはぼくの敵たる「偽物」の匂いが芬々としている。だからぼくはぼくに対して、それを告発しなければならない。

と言いつつなかなか本題に入らないのですが、映画だけでなくて、試写会全体もひどかった。最初に配給会社の宣伝部か何かの担当者が出てきて能書きを垂れたのですが、サイトでこの映画の広告をしているから見てくださいと言うのです。それだけなら、ああそうですか、という話ですが、何かですね、繰り返し繰り返し「このサイトには著名人の方々も参加して云々」と言う。その俗悪さたるや! だいたい「著名人」って何ですか? ぼくらは名もなき衆愚ですか。そりゃ結構。けれどもですね、あの、人を見下したような、私はセンスがある! みたいな虚飾の自信に溢れた宣伝担当者を見ていると、とても悲しくなってくるんです。「著名人」ねえ……。それからしばらく、相棒とぼくの間では「チョメイジーン!」というのが流行っていました。

そしてもうひとつ、ラウンジで登山靴を展示していたんです。何だろうと思っていたのですが、その担当者によればどこかのメーカーとタイアップして、まあ要するに映画を観て”Into The Wild”したくなったらその靴を買え、と。はっきり言えばそういうことです。莫迦らしい! ハイテク登山靴なんて、まさにこの資本主義に塗れた世界の成果として生れたもののひとつな訳ですよね。悪くないですよ? ぼくだって登山靴は好きです。出勤時にまで履いているくらい好きです。でもね、それは決して、”Into The Wild”じゃあないんです。繰り返しますが、悪いことじゃない。むしろぼくらは、そういったもので武装してWildに乗り込んで良いんです。でも、それは自然と自分との一対一の闘いなんかでは決してない。人類の総体が、自然を破壊してきた工業社会の歴史全体を背負った人類の総体が、自然と「一対一で」向かい合っているなどとたわ言を吐く誰かさんの背後に間違いなく存在するんです。それを誤魔化してはいけない。

で、いきなり本題に入るのですが、要するに主人公もそうなんですよ。家族との軋轢に悩んで、大学では南北問題とか人権問題とかを学んで、卒業するときに「本当の自分」「ありのままの自分」を求め、”Wild”に行こうとする。でもそのとき、彼の装備は、何度も言いますが、彼が否定したつもりになっている資本主義経済が生み出した製品なんです。銃とか、服とか、靴とか、あらゆるものが。それはね、全然否定になっていないし、自然との闘いにもなっていない。自分がそういった世界の中にあり、そこから離れがたくあることを認めた上で、初めてぼくらは自然と戦える。もし戦うというのなら、ですけれども。どんな御託を並べたところで、それが分からないなら、そりゃあピクニックですよ。

そして第二に、結局彼は最後、食べられない毒のある豆を間違って食べて死ぬんですけれども(まあこれもですね、自然を甘く見すぎだろうと思うのですが)そのときにですね、心の中で両親と和解するんですよ。ちょっと待てよ! と思うのです。何か最後の章のタイトルは「偉大なる英知」とか何とか、たぶん違うけれどそんな感じでした。おいおい、資本主義を否定して家族を否定して、そのくせ工業製品で武装して”Wild”に行って、そのすぐ入り口で挫折して(彼は結局、最後まで遠くに見える山の麓にすら辿り着きません)、豆食って死んで最後「お父さんお母さん仲良くしたかったです」かよ! それが最後につかんだ偉大な智慧かよ!

ちょっとね、おい、なめるのもいい加減にしろよ、という話ですよ。権威に、親に、社会に唾を吐いたなら、死ぬまで反抗し続けろよ。そうでなきゃ、そんなんただの若気の至りで、大人になってですね、いやああのころは私も若くてねえあっはっはとか、そんな大人になりたいのか。それでいいのか? 恥ずかしくないのか、自分の人生に対して、自分自身に対して? 反抗って、そんな適当なものなんですか?

だからですね、もの凄い保守的なんですよ。結局のところ。最後は家族の愛(笑)かよ、みたいな。あえて不快な言い方をしますけれど。これはね、凄く危険ですよ。第一に、自分というのがここではないどこかにあるという安易な思考。そんなん、「いま、ここ」で戦えないお前の姿が本当のお前の姿な訳です。当たり前ですよ。第二に、「自然の中でたった独り」というこれまた安易な思考。たった独りじゃないっつーの。じゃあお前が履いているその靴を、お前は作れるのか? そして第三に、死ぬ間際に頼るのが結局家族の愛かよ、という安易な思考。もう考えるのが面倒くさいんで「安易な思考」を連発するぼくの方こそ「安易な思考」なんですけれど。戦うことを選んだならね、すべてを殺す覚悟を持たなけりゃならないんですよ。和解するくらいなら、最初から戦うべきではない。何もかもが中途半端。最初から親を許すか、最後まで許さないか、それができて初めて戦ったと言えるんです。いや、ぼくらは大抵、そのどちらもできない。それで良いんです。人間ってそういうものです。けれど、そのときに、その結果をですね、「偉大な智慧」だか何だか、そんなお為ごかしで誤魔化してはいけない。それはぼくらの弱さなんです。戦い辿りついた偉大な結論ではなく、逃げた結果、負けた結果であることを認めるからこそ、ぼくらはそれを智慧と呼べる。

まあとにかく滅茶苦茶でした。何が言いたいのかさっぱり分からない。主人公も、ちょっとそのストーリーで表そうとしているらしい「繊細さ」を表現するにはあまりに鈍い演技だったし。最後、気合で痩せれば良い訳ではない。役者はボクサーではない。断食芸人でもない。

そしてもしあの映画のテーマが馬鹿な若者の過ちを描いたものであるのなら、それこそふざけるな、と思います。最後まで親を許さず、社会のすべてを否定しつつ荒野の中で死んでいくのか、あるいはヘラヘラと笑いながら荒野に行き、ヘラヘラと笑いながら社会に戻ってきて一生を過ごすのか、あるいは最初から荒野になど「逃避」せず、真正面から家族の問題と取っ組み合うのか。そこで初めて、ぼくらは人間の強さ、独りで戦うことの意味、全力で戦った結果その向こうに現れる巨大な悲劇を見ることができる。

とか何とかですね、激怒していたのです。そうしたらタイトルバックで、彼が生前に撮ったポートレートが出てきました。おいおい、お涙頂戴かよ、と思ったのですが、相棒がですね、映画館を出た後でぽつりと、「彼は戻るつもりだったんだよね」と言ったのです。「戻るつもりがない人間なら、写真など撮らない」、と。

そのとき、何か少し、彼に共感できた気がしました。映画は糞です。それは間違いない。けれども……。そう、やはり……、何とも言えないな。ぼくは彼に同情する気は一切ない。けれど同時に、やはり、やはり、帰る気があるのなら、帰させてやりたかったなあ、と思うのです。

正しいとか戦うとか、そんなん、普通の人間にはどうでも良いんです。生きて帰って、たまに楽しいことがある。まあでも、だいたいはくだらなくつまらない、何も起きない日常生活。そんな人生で良いんだともっと早くに気づけば良かったのに。そう思うのです。戦いっていうのは、結構、そんな日常生活そのものにある。分不相応な背伸びをしなくたって良いんです。そのままで、この場所で、いやこの場にこそ、世界でいちばんハードな戦いがある。

もっと早く彼がそれに気づいていればと、そんなことを思いました。

ぼくはあなたの家畜ではない

しばらく体調を崩していた。といっても、長年にわたる過負荷とストレスの結果だから、これはすぐにどうなるというものでもない。身体のあちこちに問題が出てきて、正直ちょっと参った。とは言え、根が頑健にできているので、少しずつ調子は戻ってきている。面白いことに、具合が悪いときには、自分の身体の中のことがまったく見えなくなる。まるでウィルスの培地が一杯に詰まったみたいに、透視しても何かモアレのようなものが見えるだけ。いまは少しずつ、内臓や筋肉の形が見えるようになってきた。

さて、きょうはちょっと怒っているお話です。いえ、本当は滅茶苦茶に激怒しています。

先日、相棒と二人で大学の近くへ買い物に行きました。で、少し遅めの昼食でもとろうかという話になったのですが、その辺りにはレストランはあまりありません。ぼくは基本的には何を食べるかより誰とどう食べるかを重視します。これが相棒には少々不満のようなのですが、ぼくとしては相棒とゆっくり話しながら食べられれば、コンビニの肉まんだって良いと思っているわけでして、どうしてそれが不満なのか、本当のところは良く分からない。まあそれはどうでも良くて、いやどうでも良くないですね。今回書く内容は、食べるということから始まるので。

とにもかくにも食べるところがないのであれば仕方がありません。幸い近くの大きなオフィスビルの一階にコンビニが入っていましたので、そこでお弁当を買い、外の広場のようなところで食べることにしました。その日は土曜日だったので、人影もほとんどありません。

お弁当を買って、相棒が手を洗うというので、ぼくだけ先にベンチに座って待っていたのですが、戻ってきた彼女が変なものがあったと言いました。トイレに、「ここで食事をするのはやめてください」と書いてあったというのです。

どことは書きませんが、整備された区画にある、まだ新しい大きなオフィスビルです。立地から考えても、それなりに名の通った企業が入っているのだろうと思います。

ぼくも、すでに十年以上会社員をやっています。酷いことも体験したし、惨い話も見聞きしてきました。ですから、いまさら驚愕するようなことではないのかもしれない。

それでも、やはり、これはあまりに異常です。誰が好き好んで、少ない休み時間にわざわざトイレで弁当を食べたいと思うのか。「やった、お昼休みだ! きょうも楽しくトイレでお弁当だよ!」などと思う人間が、どれだけいるというのか。あのですね、理想は大事ですが、確かに実際問題、ぼくらは全員が全員天職について、楽しく働いているわけではないですよね。それぞれに生活があって、いろいろ大変なこともあって、それでも一生懸命働いているわけですよね。それで、そんな風に働いている誰かが、どうして食事を、トイレで食べなければならないのか。なおかつ、どうしてそんな境遇に置かれた上で、置いているシステム側から「食べるな」と命令されなければならないのか。

これは、そういった張り紙をするのがビルのメンテナンスをする人々であるとか、そんな無意味な反論を認めるような問題ではないのです。確かに、ビルの清掃をしているのはぼくらと同じ誰それさんです。彼ら/彼女らからすれば、トイレで弁当を食べ散らかされれば、それは本当に困ったことです。けれども、ぼくが言っているのはそういうことではない。ぼくらをそういった奴隷以下の存在へと押し込めようとしているシステムそのものの話なんです。

ぼくらは、奴隷ではない。家畜ではない! 狭いコンクリートの中に押し込められ、人間性を導き育てるようなことからかけ離れた仕事さえ、もしかしたらしていて、それでも必死に生きている。そうした人間に対して、トイレでしか食べる場所、時間がないような環境を与え、なおかつそれを禁止する。そのようなことに対して恥じることのない人々を、ぼくは唾棄します。それは、もはや人間ではない。ぼくらを人間以下の存在に貶めようとするあなたがたこそ、人間ではない!

これは、人間性に対する重大な犯罪です。ぼくらは、もしそうできるのであれば、誰だってゆっくり時間を取り、自分の好きなところに行って、おいしいものを食べたいと思う。もちろんそれはとても贅沢なことですし、一歩間違えれば傲慢や退廃に堕するかもしれない。けれども、それは彼らの犯罪を正当化する理由にはまったくならない。ぼくらが自らに対する誇りと、他者に対する責任とを忘れるのであれば、それはぼくら個々人の罪です。まだ起きてさえいないその罪を、無関係なシステムに責められる謂れはまったくない。

あなたがペットを飼ったとします。例えば番犬だとしましょう。あなたは番犬としての仕事を彼に要求する。けれどあなたは最低限の散歩しかしない。仕方なく彼が庭でウンチをしてしまったら、あなたは激怒し、彼を折檻する。庭でうんちをするなと言ったろう、と。

けれども、彼をそうさせたのは、他ならぬあなたなのです(ブログを読んでくださっているあなたではないですよ)。ぼくらは、誰も、トイレでお昼ご飯を食べたいなどとは思っていない。そうせざるを得なくしているのは、誰でもない、あなたなのです。そのあなたに、「トイレで弁当を食べるな」などと、ぼくは絶対に言われたくない。

これはお昼ごはんの話でしたが、それ以外にも、こういった例はいくらでもあります。けれども、ではどうしたら良いのかと言うと、残念ながら答えは、ありません。ぼくらは確かに、働かなければ生きていけない。残念ながら現代社会において、ぼくらは自分の好きな生き方を選ぶことはできない。もし、現実社会においてそれが可能である、できないとすればそれはお前の努力や才能が足りないのだ、と言う人がいるのなら、おめでとう、あなたは御立派な人間様なのですね。どうやらぼくは、あなたから見れば人間ではないようだ。別段、それでかまわない。ぼくもあなたを人間だとは思わないから。

人間は、確かに戦わなければならない。ぼくがぼくであるために、自分の全存在をかけて戦わなければならない。けれど、それとこれとは、まったく別の話だ。現実社会における成功しか基準を持てないのであれば、それはその人の「現実」という仮想に囚われた奴隷でしかない。ぼくらの本当の生は、ブルトンの言う通り、もっと別のところにある。

繰り返すけれど、答えは、ない。そんな職場をやめろとは言えない。ぼくは次の職を紹介することはできないし、そもそもこれは、どこか特定の企業だけに限った話ではないだろうから。それでも、ひとつだけ、この世界において意味があるかどうかは分からないけれど、ぼくらにひとつだけ、できることがある。

それは、心の中で、「これは人間に対する挑戦だ」と叫び続けることだ。それ自体に救いはない。何も解決する力はない。それでも、ぼくらは、それを忘れないことによって、どんなに泥に塗れ頭を彼らの足で踏みつけられても、人間でいることができる。人間で在り続けることができる。人間で在るということは、楽しいことでも、救いの在ることでもない。それを受け入れることができる者だけが人間になれるとぼくは思っている。

それは誰にでもできる容易な、かつ不可能であるとすら思われるほど難しいことだ。けれど、それがぼくらの戦いなのだ。ぼくらは、家畜ではない。

Let’s speak English, DAGA KOTOWARU!

と、言う訳で、何だか最近軽い話をしていないので、軽い話をします。ぼくは根が軽いので、軽い話をしないと息ができなくなって死んでしまうのです。

週に一度、教授を囲んで原書講読をする自主ゼミに参加しています。で、自分の担当部分をやるときにまずいったん原文を読んでから訳すわけですが、これが我ながら酷い発音なのです。相当酷い。ひどいというか、もはやむごい。

こう見えて、ぼくは英語の教育に関してはかなり有名な大学に行っていたらしいです。伝聞なんですけれども。どうもそうだったのではないかというのが最近の学説です。当然、案の定というか、落ちこぼれもいいところで、挙句の果てには中退したのですが。まあもちろん、中退の理由はそれだけじゃないですけど。まあそんな大学生活の中でいまでも覚えていることがありまして、あれは入学してすぐ位かなあ、英語の授業があるんですね。っていうか英語の授業ばっかりあるみたいな感じ。でもって、何か相手の目を見て話せとか言われる。アイコンタクトから始めよう、みたいな。困るんですよ、そんなこと言われても。ぼくは英語を読むということなら、多少はできます。ですから、純粋に翻訳とかであるのなら、そうそう酷いことにはならない。でも会話になるとですね、そもそも日本語による会話だって危ないのに、いきなり周囲には田んぼしかないような高校から出てきてですね、何かもの凄いおしゃれな学生に囲まれて、みんな英語できるみたいな雰囲気が溢れているわけですよ。もう床に滴るくらい溢れている。で、目の前に女の子が座って、もの凄い大きな目を見開いてですね、こっちを見てくる。その授業では二人一組になって、相手の目を見ながら自己紹介とかするのです。何の拷問なんだよ! と叫びたいけれど、いやそれどころではない。息をするのがやっとです。正直、女性の顔なんて真直ぐ見たことないんですよ、こっちは。でいきなり相手の目を見て英語を話せとか、ああ、ぼくは一生忘れないだろうなあ。このときの苦しみ。苦しすぎて変な世界に目覚めそうなくらいの苦痛ですよ。で、目を伏せると、相手の女の子が、わざわざ下から覗き込んでくる。じっと目を見つめてくる。

ぼくは中退しました。

いやそれが理由じゃないけど。で、それから数年働いて、今度は働きながら大学に入り直すんですよ。そうしたら、例によってぼくは読み書きテスト的なものはできてしまう。これは基本的に話す能力とは無関係ですから。そうして入学して、オリエンテーションがありました。バスに乗ってどこかへ行って、バーベキューをするんです。もちろんきちんとオリエンテーション的なこともするけれど。そうしたらそのバーベキューのときに、ぼくの在籍することになる科の先生がいらして、「cloud_leafくん、悪いけれどあそこにいる先生のお相手をしてくれない?」と仰る。見ると、アメリカ人(このときは何人かは知らなかったのですが)の先生が所在無げに立っていらっしゃる。新任の先生で、日本語はまったく喋れないらしい。けれども他の先生方は忙しいので相手をできない。だから、入学試験で英語ができたぼくに相手をしろと、そう命令が下されたのです。

もうね、あれです。オリエンテーション中に退学したら結構伝説だよね! とか、冷や汗流しながら考える訳ですが、向こうから様子を伺っていたらしいアメリカ人が近づいてくる。アメリカ人が近づいてくる! けれどもある一線を越えると、小心者のぼくは妙に冷静になりまして、なあにソクラテスだって毒の杯を飲んだではないか、などと開き直るのです。とは言え、英語が話せないことに変わりはないので、「あわわ、あわあわ、おわああ」とか、月に吠える状態になる。向こうは前もって学生が相手をしてくれると聞いていたらしく、もの凄い期待を込めた目つきでいろいろ話しかけてくる。ぼくはコスモポリタンでいたいと願っているけれど、このときばかりは攘夷派の気持ちが分かりましたね。最後は、ひたすら気まずい沈黙、沈黙、沈黙。

でもこの大学はがんばって四年で卒業した(当たり前だ)。

それからしばらくして、正確にはいつ頃のことか忘れましたが、とある天気の良い日曜日、ぼくは地元を散歩していました。当時その辺りはまだ宅地が多く、お昼前後のその時間は人っ子一人居なくなります。結構、白昼夢みたいな不思議な空間です。すると、道を曲がったところに、巨大な白人の中年男性が立っていました。一瞬ぎょっとしたのですが、地図とにらめっこをして、どうやら道に迷っているようです。嫌な予感がして、瞬間的に気配を殺したのですが、やはり手遅れでした。向こうはぼくに気づいて、「へいぼーい、うんにゃらかんにゃら、ほにゃららほっほーい!」とか話しかけてきます。もちろん、黙って逃げるとか、ヘブライ語で挨拶し返すとか、とりあえず失禁するとかいろいろ選択肢はある訳です。人間には常に選択肢がある。けれど例によってソクラテスです。毒杯を飲むことに比べれば何ほどのこともない。で、とにかくボディランゲージで(一切英語は話さなかった!)、彼が行きたがっているらしい地点を地図上で指してもらった。ぼくも良く分からない場所でしたが、町名的にそう遠くはないところのようです。何しろ散歩に出るくらいでしたから時間はありましたし、連れて行くことにしました。こういうところから草の根外交とか広がったり世界平和の種がまかれたりするんですよ。本当かなあ。

で、このとき既に妙なスイッチが入ってしまっていて、俺はもう絶対に英語を喋らないでこの男を連れて行くぞと思い決めてしまっている。だから「あいうぃるていくゆーでぃすぷれいす」とか、拙くても言えば良いのに、何か(自分なりにタフガイっぽい笑みを浮かべて)ついてこい! みたいな身振りをして歩き始める。相手が困惑しているのが良く分かる。そうして、二人でてくてく歩き始めました。いまだに人っ子一人見かけない中、無言で歩く東洋人と、巨大な白人が一列になって無言で歩いていく。たまに地図を借りて番地を確かめながら、だんだん不安そうになっていくおじさんに、こう、ニヒルな感じの笑みを浮かべて、サムズアップしたりする。俺に任せておけ! みたいな。でもぼく自身、本当にぼくに任せられるのかどうか疑問なんですよね。相手の警戒と不安がどんどん高まっていくのが手に取るように分かる。

けれども、そんなこんなで二十分くらい歩いて(よくもまあ、あのおじさんもついてきてくれたものです。異国で、言葉も通じない、訳の分からない男の後についていくというのは、相当の度胸がいるでしょう)、おじさんが何か言いました。どうやら、自分が行きたかった家が見えたようです。で、急に緊張が解けたのか、もの凄い喜びながらぼくの手をつかんでぶんぶん振ります。さんきゅーとか言っています。こっちは手が離れたときに、またサムズアップですよ。ぐっどらっく! みたいな感じ。

先日、あてどなくてくりてくりと散歩をしていたら、そのときおじさんが入っていったお家を再発見しました。数年前に見たままで、ぼくは何だか、嬉しいような懐かしいような、けれどそのどこにでもある小さな日本の建売住宅に入っていった大きな白人のことを考えると、なぜだか少し寂しくなったのでした。

球体人間

ぼくは友人がとても少ない。まあその最大の理由はぼくの人格に問題があるのは間違いない。しかし一方で、ぼく自身あまり友人を必要としていないということもある。友人を必要としないというとちょっと違うか。仲良しごっこは大嫌いだ、と言った方が良いかもしれない。

ぼくは偽物が大嫌いだ。これだけは本当に、ちょっと病的だと自分でも思うくらいに嫌いだし、怖いし、憎い。偽物って何? というと、これは答えるのは難しいのだけれど……そうだなあ、例えばぼくが死んだとき、存在しない神を前にして、俺は俺の人生を生きた、お前の負けだ、這いつくばって死ね、と神に向かって言い放てる、そのときぼくがどこに立っているのかというと、それはぼくがぼくの真実を生きた、というところに拠るしかないとぼくは思っている。そしてその足場を侵食するものが「偽物」なのだ。偽物に頼った人生は、おそらく最後の最後で、あるいはそのもっと手前で、神に頼らざるを得なくなる。ぼくはそんなのはごめんだ。

基本的にぼくの考えは、この世界は糞だというところから出発している。もちろん、世界にだって美しいものはたくさんある。というか無数にあるだろう。けれどもそんなことを言っているのではない。「人間」に対してこの世界が持つ根本的な不条理さのお話。で、そこに意味を見出そうとするのが宗教だとぼくは思う。何をされたって神を赦す。その覚悟があれば、なるほど世界の不条理さなんて何ほどのこともない。とまあ、これはまた別のお話だからいまは触れないけれど、ぼくは神というものを徹底して否定している。当然だけれど、誰かが信仰心を持っていたとして、それを否定するつもりはまったくない。ぼくのスローガンは「世界は主観でできている」なので、これはあくまでぼくが見たぼくの世界のお話。あなたにとっての神を冒涜するつもりは一切ない。

だから、その不条理な世界で、ぼくという存在の持つ意味というのは基本的に0になる。あらゆることに意味なんてない。死は突然やってくるし、ぼくの死によって世界はいかなる影響も受けない。そもそもそのような不条理さの総体として世界があるのだから。ぼくは無価値で、はきだめの中で無意味にのた打ち回って死んで、世界の端からゴミのように転がり落ちてそれっきりだ。

仲間もいないし、愛なんてものはそもそも存在しない。そんなものが存在できる世界ではない。

けれども、その上で、それを徹底的に真実として受け入れた上で、なおかつ「舐めるな!」と叫んで這い上がってくる人間が、ぼくは好きだ。この世に救いはない。仲間はいない。愛もない。ただ苦痛だけがあるし、希望はない。だけれど、だからと言ってそれは自分が世界に負ける理由にはならない。それを乗り越えて、ぼくは初めて、人は人になれるのだと思う。

そういったある種の死と復活を通っていない誰かが、どうして他の誰かと真の関係を結ぶことなどできるのか。それは結局のところ、ただ恐怖から目を逸らし、偽物の安逸の中で芋虫のように自我ばかりぶくぶくと肥大させるに過ぎない、偽物の人生だ。傷つくのが怖い、死ぬのが怖い、生きるのが怖い、独りが怖い。当たり前だ。世界は、そうできている。救いは、ない。だからぼくらは、存在しない神を乗り越え、自分の死も乗り越え、人間にならなければならない。

繰り返すけれど、これはぼくがそう考えるというだけで、あなたがどう考えるとしてもそれは自由だ。ぼくはぼくの考えが客観的に真実だなどとはまったく思っていない。

けれども、ぼくはぼくに対して、ぼくの世界において、そう考えている。

しかし明らかに、これは非人間的な考え方で、現にぼくは、ある時期まで、あらゆる人間を徹底的に侮蔑していた。こいつらはみんな芋虫だと思っていた。もちろん、これはおかしな話で、人間が人間であるということは、もっと自然なことであるはずだ。普通に生まれ、普通に苦しみ、普通に喜び、普通に一生懸命生きて、普通に惰眠を貪る。それの何も悪くはない。

ぼくは相棒に会って、初めて、自分とはまったく違う生き方、人生の捉え方をしていても、それでもなおかつぼくの尺度で測ってさえ人間であるとしか言いようのない者が存在することを知った。そして、自分の尺度とは別の何かを認めざるを得なくなった。なぜなら現にそうである人がいるのだから。

いまでも、ぼくの中心にあるものは、昔とまったく同じままだと思う。ぼくはいまでも、偽物を徹底的に憎むし、恐怖している。仲良しごっこ、友達ごっこ、偽善に偽悪は見ているだけで反吐がでる。ぼくが願うのは、本当の生だ。救いのない不条理だけのこの世界で、ただ人が人になることだけが、ぼくの願いだ。

それでも、自分という枠を超えることを、超えられることを、ぼくは知った。おそらく、いまのままでは、ぼくは人間にはなれないだろうということにも気づき始めている。ぼくは彼女を通して世界を見ることを学んだ。ぼくがぼく一人でいたときと、「世界は主観でできている」という言葉の意味はまったく違うものになっている。

そしてもちろん、昔のぼくを間違っていたと断罪するつもりもまったくない。ぼくが見た世界は、ぼくが見た世界として間違いなく真実であったし、だからこそ、ぼくとは違う真実を見ていた彼女と、互いに見つけあうことができたのだと思っているから。

ぼくらは二人とも、恐ろしく不完全な形をしている。それでも、それを恥じるつもりはない。少なくともぼくらは、偽物を見る目を持っているし、それを憎む点において共闘することができる。ぼくらが何らかの答えに辿りつくのだとすれば、それはぼくらの進む先に必ずあるだろう。

プラトンの『饗宴』の中でアリストファネスが語っているように、ぼくと相棒はある種の割符のような関係にあるのだとぼくは思っている。ぼくは (フロイト式のたわ言を抜きにして)物心がついて以来、彼女に会うまで誰かを愛したことはなかった。これからも、彼女を愛するような意味で愛することはない。そんなことはないだろう、と言われることもあるが、しかしそういう誰かさんの生き方とぼくの生き方はあまりに違いすぎる。だからぼくはただ笑ってやりすごす。もちろん、何度でも繰り返すけれど、ぼくとは違う価値観を持った人を否定するつもりはまったくない。愛には、それこそ人間の数だけの種類があるはずだ(そして同時に、「人間」の数しか愛はないとも思っている)。

ぼくが彼女との関係性を表すのに「彼女」や「恋人」ではなく「相棒」と言うのは、この世界でぼくらがぼくらであり、人間である、あるいは人間になるために絶対に必要な存在であると、相手のことを思っているからだ。存在しない神を相手にした、ぼくらが人であるための戦いの、彼女は唯一の相棒だ。

だから、ぼくがぼくの言葉を語る上で、相棒の存在を抜きにして語ることは原理的にできない。それでは、ぼくがぼくである意味がないし、ぼくになれるであろう可能性もない。

と、そんなことを言うとですね、いつも相棒に、「そんなことないんじゃない? 楽しいから一緒にいるだけでしょ」と言われまして、なるほどなあ、そりゃそうだよなあ、と思ったりするのです。まあそんなこんなでして、何かものすごいアンチクライマックスなんですけれども、どうなんでしょうね、やっぱりこれ、のろけなんでしょうか。良く分かりません。

虚ろ

きょうはですね、あまり明るくないお話です。ですから、もしこれをお読みになる方がわははと笑いたいな、とお思いになっているようでしたら、どうぞここでお読みになるのをお止めください。

さて、と改めるほどでもないのですが、ぼくはいわゆる善人ではありません。むしろ、ぼくはかなり冷酷な性格をしていますし、倫理観というものもほとんどありません。ところが、ぼくは見た目が真面目で優しそうに見えるらしくてですね、しばしば誤解を受けます。ぼくにも常識はありますので、初対面の人に向かって「ぼくは真面目ではないですし優しくもないので勘違いをなさらぬように」などと言ったりはしません。で、第一印象があまりに真面目で丁寧なので、後で本性に気づかれたとき、そのギャップの激しさからより一層嫌悪されることになります。困っちゃうよねー、えへへ、などと笑ってやり過ごすには、あまりにも双方にとって残念な結末を迎える場合が多いのです。とは言え、これがぼくという人間の出来具合でして、変えるのはなかなかに難しい。ま、それは今回の本題ではないのですが、ぼくが善人ではないということはこれからのお話の大前提になります。

次です。ぼくはいままでに、駅のホームから転落した人を引き上げたことが三回あります。三回、というのは、十五年程度に渡ってであることを考慮しても、恐らく相当な数字なのではないでしょうか。もっともそのそれぞれにおいて、ぼく一人で助け上げた訳ではなく、居合わせた何人かがかりで引き上げたのですが。
この三回とも、時刻は終電近く、落ちたのは酔ったサラリーマンでした。で、この話をするために先ほどの前提が必要になるのですが、これを読んでですね、「わあ、落ちた人を引き上げるなんて偉いなあ」などとは、絶対に思わないで下さい。こんなことはですね、愚の骨頂です。昔はともかく、いまは駅のホームに緊急ボタンみたいのがありますよね、あれを押せば良いのです。慌てて手を貸して自分までホームから転落したら、それこそ誰にとっても良いところなしです。それに、酔っ払った大の大人を引き上げるというのは、口で言うのは容易いですが、実際にやってみると途轍もなく重い。正直、全力で引っ張ってもびくともしません。逆にこちらが引き込まれます。最初のときは、五人くらいの男が全力で引っ張って電車の連結部に落ちた一人の男を引き上げました。そのくらい重い。ですから、決して手を出してはいけません。あなたも道連れになるのが落ちですし、そもそも、繰り返しますがいまはホームに緊急ボタンがある。

第一、本当にあなたが身体を張って助ける価値があるのか。ぼくは人前で酔っ払う人間が嫌いです。仮に辛いことがあったとしても、そんなのは誰もが同じです。みんなそれでも全力で戦っている。それでも、たまには酔いたくなるときもあるかもしれない。けれどその挙句に無様にふらついてホームから落ちて、真直ぐに立って世界と戦っているあなたに道連れの危険を冒させる権利など誰にもない。いや権利とかじゃないのかもしれないけれど、ぼくはそう思います。生きるというのは戦いです。誰もが戦っている。どんな理由があれ、自分の弱さ故他人を危険にさらして良いはずがないとぼくは思います。もちろん、そこに特別な関係がある場合は別です。そんなことは言うまでもないですね。

第二に、ぼくは手を出しますが、しかしいざとなったら、すなわち万一電車が進入してきて、もう引き上げることができないと判断したら、落ちた相手の顔を全力で蹴り飛ばしてでも、自分の身の安全をはかる覚悟をしています。その瞬間、絶望に歪んだ相手の表情を目にしてしまったとしても、決して後悔しないだけの覚悟を持って、手を出します。ぼくはそんなに優しい人間ではない。相手を殺すだけの決意がなければ、救うことなどできないと思っています。けれども、恐らく、あなたはそうではない。あなたは、きっとそんなに冷酷ではない。だから最後の瞬間に相手を切り捨てることが出来ずに巻き込まれて死ぬか、あるいは切り捨ててしまったことを一生後悔しながら、毎晩相手の最後の表情を夢に見ながら生きることになる。そうであるのなら、最初から手を出してはいけない。あなたがそんなリスクを負う義務はどこにもない。

それでも、そういった場面に遭遇したとき、ぼくがどうしても走り寄って落ちた誰かを引き上げようとするのは、要するにそれが、ぼくがぼくであるために必要なことだからです。ぼくは自分が人間でないことを知っている。だから、ぼくにとっての「人間らしい」行為に自分を懸けなければならない。極めてエゴイスティックな理由でやっているにすぎません。

もう一度繰り返します。誰かが転落しているのを見ても、あなたは決して手を出してはいけません。もちろんそれがあなたの信念であるのなら、ぼくには何も言う権利はありませんが、しかしそこに何の価値もないことを、ぼくは断言します。

これが前提の二つ目。ここまで来て、ようやくきょうの本題に入ることができます。

あるとき、とある駅で終電を待っていると、急に大きな物音がしました。しばらくはぼんやりしていたのですが、はっとしてそちらを見ると、男の人が線路に転落しています。酔っ払っているらしく、ふらふらしながらホームに上がろうとしていますが、まったく力が入らない様子です。瞬間、ぼくは走り出しました。二十メートルくらい離れていたでしょうか。走り寄る間に、誰かがボタンを押したのか、ベルが鳴り始めます。
昔は、こういうことがあると、近くに居るサラリーマン達がいっせいに集まって引き上げようとしたものですが、最近はそんなこともなくなりました。前述の通り、これは正しいことです。むしろ手など出さない方が良い。緊急ボタンを押せば電車は止まりますし、下手に手を出せば、万一の場合犠牲者が増えるだけにしかならない。電車が緊急停止したとしても、慌てて手を貸して自分も転げ落ちて、足でも折ったら大変です。だから手を出さないのは絶対に正しい。

と言いつつ、もう一人若い男も手を貸してくれ、二人がかりでその酔っ払いを引き上げることに成功しました。その酔っ払いは、そもそも何が起きたのかを正しく把握できていないのでしょう、そのまま逆側の壁に凭れて何やら不機嫌そうにぶつぶつ言っています。ぼくはさっさとその場を離れました。繰り返しますが、あなたがこんな奴のために少しでも危険を冒す価値はない。そもそも、これは人を救うことにすらなっていない。電車は緊急停止してくれるはずですから。

やがて駅員がのんびりした足取りで現れ、これはぼくにはちょっと意外だったのですが、離れたところからその酔っ払いが無事であることを確認し、そのまま去っていきました。緊急ボタンが押された時点から、監視カメラか何かで見ていたのかもしれません。この辺はちょっと記憶が曖昧ですが、とにかく、その酔っ払いを駅長室に連れて行くでもなく、壁に凭れて酔いつぶれたままにしておいたのは確かです。まあ、ぼくにとってもそんなことはどうでも良いことなのですが。ぼくは外で無様に酔っ払う人間に同情するつもりは一切ないのです。そんなに、心優しい人間ではない。

その場で起きたことは、これですべてです。けれども、本当に恐ろしい話は別にあるのです。もう一人の人と酔っ払いを引き上げているときに、ぼくは見ました。もがいているぼくらのすぐ後に立っていた若い男が、何とも表現しようのないニヤニヤ笑いを浮かべながら、ぼくらを、というより転落したその酔っ払いを、携帯電話のカメラで撮影していたのです。信じられますか? 残念ながら、ぼくは信じられます。ぼくは、もうその男の姿を一切覚えていません。そもそも最初から、そんなものは目に入っていなかったのかもしれません。けれども、彼の眼だけははっきりと覚えています。そこには、真黒な穴がぽっかりと開いていました。真の虚無。ただ、虚ろなニヤニヤ笑いだけが浮かんでいる本物の闇がそこにはありました。

ぼくは、ぼくほど最低な人間をまず見たことはありません。けれども、ぼく以上に異様な何かが、確かにぼくらの間に紛れ、普通の顔をして暮らしているのです。

ぼくは、それがとても怖い。本当に怖いのです。