ルーアッハ、ルーアッハ、ルーアッハ。

基本的にぼくは、太宰にならうわけではありませんが、「おしるこ万才」など糞喰らえだと思っています。別に破滅願望とか、そういうお話ではありません。むしろそれはぼくにとって徹底して生きることを意味しています。おしるこ万才には、どこか生に対する甘えと怠惰と驕りが隠されている。そういうものには、心底怖気をふるうのです。ぼくを支えてくれるのはつねに、ジョバンニの強さです。救いのない日常を日常として生き抜くこと。大仰な言葉とか分りやすい敵だとか、そういったものは必要ありません。そして同時に、戦いを矮小化したいわけでもありません。なぜ「魂の戦い」が抽象論とされ、理想論とされるようになってしまったのか。なぜぼくらは、生きているこの一瞬一瞬に魂を感じることができなくなってしまったのか。根源的な問題がそこにあります。

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女子大に行く途中、たいていいつも、一人の老人が恐らく彼の住んでいるであろう家の前に立ち、群のように歩いていく彼女たちを眺めています。それは、ぼくの偏見かもしれませんが、微笑ましいような情景では決してありません。それはぼくに、どこか澱んだ寂しさを感じさせるのです。透明な寂しさが硬く美しいものだとすれば、澱んだ寂しさはただひたすら痛々しいものです。道を行く彼女たちの多くは、恐らくその老人を見てはいないでしょう(同じことは、残念ながら教室におけるぼくと一部の生徒に関してもいえます。彼女たちの眼に、おそらくぼくは映っていない)。そして同時に、その老人の目もまた、過ぎ去っていく彼女たちを「彼女たち」以上のものとしては見ていない。

先日、北海道に行きました。夜に到着し、翌日昼に帰着。ただ発表のためだけの移動。体力的にはともかく、精神的には少々つらいものがあります。発表は、最近自分にとって面白いと思うことに、ほんの少し新しいことをつけ加えたもの。というと聞こえが悪いですが、博論を提出し終えてからようやく自分なりの立ち位置というものが少し見え始め、いまはそこを基準点として幾つかのものごとを考えようとしているところです。だから見た目同じような話になってしまうし、実際まったく同じことを語ってもいるのだけれど、それぞれにベクトルが違うものでもある。なかなか、短い発表時間でそれを伝えるのは難しいですね。

けれどもそれ以上に、今回の発表ではいわゆる教授陣のような人々からは一切反応がなかったというのが、反省を通りこしてだいぶ不気味になりました(若い人たちからは鋭い指摘を受けて、それだけで十分だったのですが)。ぼく以外の発表者に対してはそれなりに意見が出ていたのが、ぼくのときだけ完全に彼らの目が死んでいるのです。まあ、学会の性質的にも仕方がないことかもしれないけれど、それにしても若干びっくりしてしまいます。いま、この瞬間を生きている少なくない人々が抱えているであろう問題に、ここまで無関心を決め込めるその神経が恐ろしい。そして彼らの発表や質問時におけるあまりの非常識さや失敬さ(その点、質問さえされなかったぼくは、むしろ幸福だったのかもしれませんが)。その人生において大学から一歩も外へ出たことがないひとであっても、当然ですが立派なひとはたくさんいます。けれども、そうでないひとも、残念ながらたくさん見てきました。そういった人々の眼には、どうやら「人間」なるものはまったく映ることがないようです。

ぼくとて、自分にとって意味のある人間としか関わるつもりがないと断言する程度には断絶した部分を持っています。けれどもそれは意識した断絶であって、無自覚的な欠落ではない。そして意識した断絶を超えて、人間というものがどうしようもなく開かれ、剥き出しに曝されたものであることをぼくは知っています。それは恐怖であり、悲しみであり、苦痛としてぼくに迫ってきます。それは決して自己のうちに閉じたものとしてではなく、開いている、曝け出されているが故のものです。けれども、年齢にも立場にも関係なく、完全に閉じてしまっている人びとが存在するのもまた、どうやら事実のようです。限られた才能と時間しか持たない意識されたものとしてのこのぼくには、いずれにせよそれはそうだとして諦めるより他ありませんし、またそれ以上のことをするいかなる義務もありません。ぼくは聖者でもなければ暇人でもない。その両者は同じことかもしれませんが。

先週、二つ目の大学でゲストスピーカーとして喋る機会をもらい、好き勝手なことを話してきました。やはり「死」や「神」や「魂」について話すのは、こういったブログであれば自由に書けるのですが、いまいる研究室ではなかなか(というよりきわめて)難しいのです。そういった意味で、いまはもうぼくがいた学部は存在しないのですが、それでも当時の雰囲気が欠片でも残っているところで話すのは、思っていた以上に楽しいことでした。当たり前ですが、学会によっては発表で「魂の苦しみと救済」とか言ったら頭がどうかしたと思われるのがおちでしょう。

その後、恩師と、その日が初対面のまだ若い牧師さんと食事をしたのですが、そういった場は、ぼくのように、どこにいっても器用だけれど器用なだけで終わるような中途半端な人間にとって、いちばん自然な言葉で話すことができる場でもあるのです。別に理想化しているわけではありません。むしろぼくは「神」的なるものに対して根源的に批判的な立場にいるし、だから仲良しごっこ的な意味で楽だということではまったくないのです。単純にそれは、勝ち負けやフォーマットを超えて、自分にとって話すべきことを話せる場というだけのことです。けれども同時に、なかなか得にくく、大切な場でもあります。

女子大での講義は、想像以上に準備が大変ですが、想像以上に楽しくもあります。自分がなにをもっとも伝えたいと思っているのか、それが見えてくるのが面白い。ぼくにとってのそれは結局のところ、考えるということは、答を出さず、断罪せずに耐え続けることだという、ただその一点なのかもしれないと感じています。答を出し、断罪を(あるいは救済を)するのは、そんなことは神野郎にでもやらせておけば良い。

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また一つ非常勤をもらえる可能性があるようなないような雰囲気ですが、どんな形で研究をしていくのか、改めて考えなければいけません。しかしどうなるにせよ、最終的には魂の問題へと戻っていくことだけは、逃れようのない事実としてあるようです。

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