先日、とある集まりに参加するために、ひさしぶりに新宿へ出ました。集合の時間がちょっと中途半端だったため、新宿御苑で時間を潰すことにしました。きょうはカメラも持っています。本も、飲み物も装備して、冒険の準備はばっちりです。「そうやって油断した奴から死んでいったんだぜ」などと呟きつつ、フヒヒと笑って御苑に突入です。きょうは節電のため、大木戸門では自動券売機が止まっており、窓口のおじさんから切符を購入。ここで交わした会話が本日のハイライトでした。
新宿御苑前で地上に上がったときから、デモ行進がずっと続いていました。聞くともなしに聞いていると、どうやら脱原発を訴えての活動のようでした。デモ行進の列はなかなかに長く、御苑に入ってから閉園するまでの間ずっと、拡声器を通してその声が届いていました。
9.11とか3.11とか、そういった記号化された表現を、ぼく個人はあまり好きになれません。そしてまた、3.11を通して思想は変わらなければならない、変わらざるを得ないという哲学者たち、研究者たちは極めて多いのですが、ぼく自身はそうは思わないのです。無論、社会状況は変わるでしょう。人びとの意識も変わるかもしれません(しかし人びととはいったい誰のことでしょう? ぼくには分りません)。けれども哲学の在り方が根本的に変革を迫られているという言葉を聞くと、違和感を感じざるを得ないのです。ぼくら人類は、この世界において、その歴史のなかで、つねに取り返しのつかない、耐え難い悲しみや苦しみのなかで戦ってきました。そういった意味で、もし思想というものが在るのであれば、それはいままで通り戦い続けなくてはならないのだし、また同時に、それはルーチンワークなどではなく、あらゆる一瞬を生きる人びとの唯一性によって、瞬間瞬間に変わり続けることを原理的に強制されたものでもあります。それを抽象論だというのは容易いことです。けれどもまた、ぼくはどうしても、3.11という形でものごとを捉えるということに抽象性を感じてしまうのです。
とはいえ、これはとてもとても狭い、極一部の研究領域内におけるお話でしかありません。デモの声を聞いていて感じたのは、もっと別のこと。
その内容如何に関わらず、ぼくはやっぱり、デモというものが苦手です。斜に構える、ということではなく、恐らくもっと単純に性格的なこと。子どものころ、クラスにひとりかふたり、どうしてもみんなの仲間に入れない子がいましたよね。ぼくもそんな感じでした。それは別段、寂しいことでも何でもなく、本さえ読んでいれば楽しかったのです。それがそのまま、大人になってしまったということでしかないのでしょう。
形而下の生活、というものは、当たり前ですが、大切なものです。形而上的なことばかり考えているのが高尚だとか、そんなことを本気で考えている人間がいたら、それはちょっとばかり寂しいことです。みなで協力して、共同で、社会に働きかけていく、何かと戦うというのは、とても素晴らしいことです。
ただ、ぼくはその「みな」というものに、どうしても疑いの目を向けてしまう。それは価値判断を超え、要するに、そのひとの性質ということです。そうして、そういう性質というのは、別段、珍しいものでもひけらかすものでもありません。引け目に感じなければならないようなものでもありません。人間には様々なタイプがある。ただそれだけのことです。問題は、生まれつきか自分が選んだものか社会に強制されたものか、分らないけれどもともかく、自分のいまいる立ち位置から見える世界を見るということです。
大きな声、というものが苦手です。誰かが何かを拡声器を通して叫ぶ。そこで語られるのが何であれ、そしてそこに正当性があるにしても、さらにそれが自分も同意できるような内容を語る声であったとしてさえ、なお、ぼくはその声の大きさが持つ暴力に恐怖を感じます。
これは、ぼくが所属していた研究室でも(あ、いまでも形式的には所属していますね)、なかなかに伝わらなかったことですが、語るということは、つねにそれだけで、暴力的なものです。いえ、表面的には伝わります。伝わるけれど、でも、そこにこめられた恐怖というものは、どうにも伝わらない。それはそうで、そんなことを言っていたら、研究なんて不可能になってしまう。論文を書くということはそれだけで何かを殺すことにつながっているんだよ、などといわれても、じゃあどうしたらいいんだ、ということになってしまいます。
けれども、語るということは、やはり暴力です。とても恐ろしい、かつ根源的な暴力です。にもかかわらずぼくらは語らざるを得ないし、誰かが語る声に耳を傾けざるを得ない。そしてだからこそそれは暴力でもある。その無限の循環のなかでぼくらは他者と共にあるのだし、そこでしか共にあることはできない。だからこそぼくらはつねに悲しまざるを得ないのだし、だからこそぼくらは、他者に対する責任=倫理を持たざるを得ない。
世界を何色かに塗り潰そうとする大きな声が、ぼくは怖い。塗り潰されることに対する戦いとしてであってさえも、やはりぼくは、大きな声というものを持ちたいとは思わないのです。そこには、きっと、あるひとりの、たったひとりの誰かの声は、既に存在していません。
いうまでもなく、これはかなり一面的な理解でしょう。無数の集団のなかに、しかし必ずそこには差異があるはずです。拡声器越しの叫び声、繰りかえされるフレーズ。そういった戦術的な統一性を超えて、そこにはそこにいるひとりひとりの回収しきれない差異がつねに残り続けます。
だからやはり、もっと単純に、ぼくは大きな声が苦手だ、というだけのことなのかもしれません。クラスに馴染めない子どものようなものです。いまだに、ぼくはそんな感じで生きているのでしょう。
だけれども、それが孤独であるなどとは、ぼくは思いません。語るということの暴力に居座るのではなく、語るということが暴力であることを認めつつなおそこに希望を、そしてきみを見いだすこと。
御苑の奥で、トンボが木の枝にとまっていました。カメラを向けつつにじり寄ると、意外に厳しく、トンボに額を攻撃されました。やれやれ、痛い痛い、などと思って顔をしかめていると、お母さんに連れられた小さな女の子が、そんなぼくを見てきゃらきゃらと笑いながら通り過ぎていきます。
誰もいなくなった道。その瞬間、あらゆる音が、遠くから聞こえてくる拡声器の声さえもが消え、無限の静寂のなか、トンボが飛び立つ音が、確かに、ぼくの耳に届きました。