ボンジンナリリ・リ

何かを書こうとするとものすごい勢いで忘れていきます。電車に乗っているときに論文のアイデア、といってもせいぜい(自分が)良い(と思っているだけの)ワンセンテンスとか、あるアイデアとアイデアを結ぶルートとか、まあ大したものでもないのですが、けれどもそれを思いつくときって大抵連鎖反応が起きて複数思いつきます。そして次の駅に着くころには全部忘れています。ただ、あることが起きてそれが失われてしまったときのぼくと、最初からそれが起きなかったときのぼくはやはり違うはず。なので基本気にしません。気にしませんがくやしさのあまりいつもギチギチと歯を鳴らしています。ああ、あのセンテンスさえあればノーベル賞だって取れたのに。

そんな感じなので、ブログを書こうと思っても、やはり何を書こうと思っていたのか瞬間的に忘れていきます。確か十数秒前までは四つくらい書きたいことがあったのですが、もはや何も思い出せません。それでも楽しいことや嬉しいことはたくさんあります。いや本当にあるのかな。もう一度よく考えてみましょう。

そうだ、しばらく前にシャーペンを買いました。「カヴェコ アル スポーツ ディープレッド」というやつ。ぼくのような人間が持つにはちょっと高いのですが、でも赤ペンって何か良いじゃないですか。こう、ゲラが届いてそこに赤を入れていると、気分だけは研究者っぽい感じになれます。そもそもぼくはこの一年以上靴一足で過ごしてきたし、そういえばジーンズ以外の服も買っていないや。だからシャーペンくらいは少し高くても気に入ったものを使いたい。何しろ歯医者にさえ片道50分くらいかけて歩いていく人間なのでそろそろ靴底に穴が空きそうですが、きみ、ディオゲネスなんて樽で暮らしていたじゃないか。

で、カヴェコの前は「北星鉛筆 大人の色鉛筆 赤」というのを使っていたのです。これはすごく書きやすいし使いやすいし値段もお手頃で良かったのですが、いかんせん太すぎました。ぼくのように字が汚い人間にはちょっと使いこなせなかった。ゲラに赤を入れると肥えた元気なツチノコがのたくった跡みたいになって自分でも読めない。これはもう本当に反省点で出版社に迷惑をかけてしまいました。でもぼくの性格の問題点なのですが、途中でペンを変えるということができないのです。何なのでしょうねこれ。ともかくカヴェコです。これはほんとうに手に馴染みますし、デザインも格好良くてお勧めです。でも0.7mmの赤色シャー芯は途轍もなく折れやすい。そこだけ割り切ればこれは素晴らしいシャーペンです。そんなこんなでいまならゲラに赤を入れるのも楽しい。楽しいのでどこからか原稿依頼とか来ませんかね。来ませんね。寂しいですね。

もう一つ嬉しかったこと。ずっと昔、1990年だからもう30年以上前ですね、そのころぼくはCDのジャケ買いが趣味だったのですが、ジャケットが不思議な感じで買ってみたらとても良い音楽だったのがオランダのバンドThe Use Of Ashes AshesのThe Use Of Ashesというアルバム。

coverはThe Use Of Ashesとなっていますが本人たちが描いたのでしょうか。

ちょっとどういうジャンルか分からない不思議な感じの音楽で、機会があればぜひ聴いてみていただきたいのですが、このバンド、その後どうなったのかなと時折CDを聴いては思ったりしていました。先日ようやくネットで調べてみたらまだ活動しており、2020年に新譜が出ていました。

https://www.tonefloat.com/658402_the-use-of-ashes-burning-gnome-tf196-and-limited-7inch-single-tf197

一曲聴けますのでぜひ。といっても趣味に合うかどうかは分かりませんが……。30年経っていても曲風は変わっていなくて、それも凄く嬉しいんですよね。あ、こういうのオルタナティブロックっていうのか。

でも恐らくですが皆さん、このバンドご存じないと思います。言うまでもなく知っている俺凄いみたいなことを言いたいのではなくて、例えばThe Use Of Ashesの12曲目Where The Fish Can Sing、これなんてもう天才としか思えない素晴らしい曲なんですけれども、これだけのものを作っても、きっと世界中でこのバンドを知っている人(曲を聴いたことがある人)って、根拠はありませんがせいぜい数万人くらいしか居ないと思うのです。80億人中の8万人だとしても、10万人中の一人しか知らないということですよね。80万人いたとしても1万人に一人です。

そうして、そのようなことを考えるときにいつも思うのは、ましてぼく程度の凡才では……、ということです。自分を卑下しているわけではなくて、客観的に見てということ。カヴェコでゲラに赤を入れてわーいとか喜んでいても、いったいどれだけの人にぼくの言葉を届けることができるのでしょうか。無論、届くことが目的化してしまっては意味がないし、かといって本当に届くべき相手のもとに届けばいいんだと開き直る(閉じ直す?)こともぼくは好きではありません。

つまりは凡才なりに書き続けるしかないのでしょう。書くこと自体に悩んだことは生まれてから一度もありません。けれども、それが届くかどうかについてはいまだに何の確信もありません。

人相が悪いじゃないか

そろそろ非常勤でやっている後期の講義の準備をしなければなりません。いまぼくは(出すあてもない)本の原稿を二つ書き進めていて、いえもうこれ本当に面白いんすよ、と独りでニヤニヤしながら書いたり考えたり読んだり妄想したりノーベル賞を取ったりしています。でもぼくはノーベル賞が嫌いなので賞金だけ欲しい。くれませんかね。いやともかく、せっかく面白いので講義内容に反映させたいのですが、これがなかなか難しいです。いちばんの問題は時間が足りなすぎるということですね。たとえば例年最初にメディアの歴史を辿るのですが、これだってきちんとやろうと思ったらそれだけで一コマ使い切ってしまいます。

そしてもう一つは、良いドキュメンタリーを観てもらいたいということ。90分は微妙でドキュメンタリー一本流せるかどうかですが、観せたいものは四本も五本もある。でもそれをしたらもう講義する時間がなくなってしまいます。しかしぼくなんかが、はっきり言って浅い人生経験しかないし生きるか死ぬかも体験したことがないような人間なんかが「倫理~」とか白目を剥きながら百の言葉を重ねるよりも、良いドキュメンタリーのワンシーン、そしてそのワンシーンを感じ取るためにはそこだけ切り取ってはダメでその前後のすべてを観なければならないのですが、そのワンシーンを観る方がよほど意味があります。いえぼくだって自分の喋りに大きなものを賭けているしそれは誇りをもってやっています。だからゼロイチではないけれども、やはりそのワンシーンの力は絶対にある。

ドキュメンタリーを観るときにぜひ受講生のみんなに意識してほしいのは、出てくる人びとの顔、表情、声、目つき、それに注目するということです。これは前にも書いたかもしれないけれど、そこに人間のすべてが出てしまう。ぼくが講義で流すのは環境問題とかそういうテーマのものが多いので、特にそれが如実に表れる。悪が、他者の苦痛に対する愚鈍さが滲み出ている。そういう人間って確かに居るのです。もちろんそれは多かれ少なかれ誰にでもあるものかもしれない。でもそうじゃないんです。人間としての一線を超えた、その一線は定義できないけれど間違いなくある。超えてしまったそのひとの目を見て、ああそうだ、確かにここには倫理が無い、無いというのは本当の虚無と暗黒がそこに在るということですが、それを感じてほしいのです。

それはめちゃくちゃ怖いことです。突然オカルトじみたことを言いますけれど、ぼくはけっこう、かなり怖いものを見てきた人間です。幽霊とか化け物とか。でもそういうのって別に怖くないんです。それは世界とぼくの関係性のゆらぎのなかで生じるもので、居るけれど居ないもの、居ないけれど居るものでしかない。いや怪しいことじゃなくてですね、幽霊が居るって、例えば科学的に考えてあり得ない。それはそうです。いや私は見たんだから居る。それもそうです。そのどちらも否定してはならないほど真剣で深刻で切実だけれど、でも完全には同意できない。ぼく自身はもっと自由でいたいと思っています。あーなんか居るなー、そうか、いま世界は、ぼくは、世界とぼくの関係はそういう状態を生み出すようなところにあるんだなー、と、ただそれを感じとるだけでありたい。何の話だ。そうそう、だからそういうのって別に怖くない。ここしばらくそういうのを見ることもなくなってしまって、それはもしかするとぼくの老いなのかもしれないけれども。

でも人間の目の怖さは、ほんものの怖さです。これはちびります。毎回講義でドキュメンタリーを学生さんと一緒に観ながらちびっている。あ、ちびっているのはぼくだけですよ。他人と目を合わせられないぼくが言うのもあれですが、でもその目って後ろからでも見える。避けようのないものです。大丈夫ですかねこの人。大丈夫です。ぼくはおそらく今世紀最高の人間強度を備えた人間なので大丈夫、大丈夫。そしてその怖さには二重の意味があって、そういう人間が確かに存在している、一線を超えてしまって何か訳の分からない深淵に落ちてしまった向うが在るということに対する恐怖でもあるし、同時に、それは絶対に誤魔化せない、隠せないものだという恐怖でもある。それはいつだってすべてを透過してぼくらの眼前に迫ってくる。

だから最近ますます外に出るのが怖くなっているのですが、実際問題朝家の外にごみを出すのさえ怖いのですが、だって外に人間が居るじゃないですか。いやほんとうにぼく自身の精神は驚くほど安定しているし呑気なんですけれども、タイトルの「人相が悪いじゃないか」、これ太宰の「如是我聞」です。「葉」と並んで間違いなく日本の近代文学史上の到達点の一つ。人間が極限において悪と対峙する話であり、悪としての醜についての話でもある。そして「葉」とは違って希望はない。だから太宰は死ぬしかなかったのだけれども……、いやでも、「葉」のラストにだって太宰の死は既に刻まれていますよね。「どうにか、なる」。気が狂いそうになるほど切実な祈り。

そんな本を書きたいと願っています。

茄子観音

4か月前よりも少し大きなジャガイモが採れました。

これは少し前の写真。今年は実家の梅の実もなかなか見事に生りました。早速梅酒と梅ジュースに。

何だか偉そうに腕を脇にあてたナス。我が家では茄子観音と名付けて祭っています。

きょうは一日本の整理の日。しばらくメタバースの原稿にかかりきりだったので、そろそろ元々書いていた論文に頭を切り替えていかなければなりません。同人誌もふたたび再開しそうな雰囲気です。書くことがあり、書く場があるというのはほんとうに幸福なことですね。

お、帰りにちょっとメタバに寄ってく?

ふたたびありがたいことに、『現代思想』の編集の方にお声をかけていただき、9月号のメタバース特集に原稿が掲載されます。最初、編集の方から届いたメールがなぜかスパムボックスに入っていて、普段だったら機械的に削除してしまうのですが、このときは偶然気がつき、あとになってぞっとしました。こういう機会をいただけるってぼくにとってはまずあり得ないことなので、ほんとうに危なかったです。

http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3718

「宇宙の修理とメンテナンス」というタイトルで書いています。ちょっと面白そうじゃないですか!? 面白いと良いのですが。修理する権利と保苅実の「歴史のメンテナンス」の議論を参照しつつ、メタバースが宇宙になるための条件について考えています。ただ、メタバースというと現時点では「この私」のアイデンティティ表象にまつわる諸問題がクローズアップされることが多いと思います。そういった意味では今回の原稿、そもそもメタバースなるものを成立させるには他者という観点が不可欠だよねというお話なので受けは悪いかもしれません。とはいえ、『ニューロマンサー』に影響を受け、かつ数十年プログラミングを生業としつつ生きてきた人間から見るとメタバースってどうなのというのは、それはそれで意味のあるものではないかと思いますので、もしご興味があればぜひお手に取っていただければ幸いです。

今回個人的に良かったのは、同じ特集に郡司ペギオ氏が寄稿していることです。郡司氏といえばぼくの最初の印象はやはり『内部観測 複雑系の科学と現代思想』(郡司ペギオ・幸夫、松野孝一郎、オットー・E・レスラー、青土社、1997年)で、これぼくが最初の大学を中退するかしないかくらいの時期に手に取って読んだのですが、まったく意味が分からなくて衝撃的でした。その大学では一応情報科学を専攻していたはずなのですが(とはいえ完全に落ちこぼれでしたが)、なぜ勉強するのか、何を勉強するのかまったく分からなくなってしまい、それでも何か考えなければならないことが「そこ」にあるのは感じていて、でもじゃあその「そこ」ってどこ? ということも分からずにいたころです。そんなときに手あたり次第本を読んでいたのですが、その一冊がこの『内部観測』でした。

今回改めて本棚から引っ張り出して読み直したのですが、やはりめちゃくちゃ難しい。でも自分のいまの研究に引き寄せて考えてみると三割くらい分かる……ような気がします。いやともかく、当時の「ぜんぜん分からない!」というのは結構重要で、何だろうかな、本能的にこれは面白いぞ、でも分からんな、というのが、結構、当時のぼくにとっては支えになっていた気がします。空転ばっかりする頭だけれども何かかみ合うものがこの世界にはあるかもしれないという期待。

そんなこんなで、まあ別にいまだって何も進歩はしていないのですが、そんな自分が郡司氏と同じ雑誌に原稿を載せられるというのは、うーん、当時のぼくに伝えたいし、やっぱり嬉しいです。根が単純なので嬉しい。

あともう一つ、『現代思想』といえば忘れもしない2015年の「人工知能」特集号で『ニューロマンサー』についての滅茶苦茶な解釈、といってもほんの数行ですが、それが記載されている論考があって、ぼくは激怒しました。ぼくのような無名の研究者がぶうぶう独り言で文句を言っていたって何の意味もないのですが、しかしあまりに酷いその無理解に激怒し、激怒し続け、今回自分の原稿のなかで『ニューロマンサー』に触れることができて、ようやく供養ができた気がしています。何の供養だ。自分の激怒への供養かな?

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メタバースっていうと大抵『スノウ・クラッシュ』が挙げられますが、物語としても描かれた世界の広がりとしても『ニューロマンサー』の方がはるかに優れているとぼくは思っています。『スノウ・クラッシュ』も面白いので悪く言うということではなく、でもやっぱりエンターテイメントです。メタバースという言葉が出てくる以外、思想的には特に参照することがない気がします……。いやそれが悪いっていうことではないですよ。ぜんぜんそんなことはないです。そもそも『ニューロマンサー』だって純粋にエンターテイメントとしても最高に面白いし。

そうではなくて、メタバースを考えるのなら『ニューロマンサー』だし、既に当時サイバースペースに関するいま読んでも優れた論考がたくさんあったのだからそれを辿り直しても良いんじゃないかなとぼくは思います。『スノウ・クラッシュ』で止まってしまってはもったいない。あとは神林長平の『魂の駆動体』は、メタバースを考える上で(「この私」のアイデンティティ表象というよりも、この世界とは何か、そこで生きるとはどういうことか、人間はなぜモノを作るのかといったことをより根源的に考えるときに)ほんとうに素晴らしい物語なので、これも凄くお進めです。

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いま現在、メタバースに関連したまともな本ってほとんどありません。はっきり言って読むに堪えないものばかりです。それでも、今後何年くらいのスパンでそうなっていくのかは分かりませんが、メタバース的なものが避けがたいのも事実です。ですので今回の特集がそれに関する思想的な取り組みの端緒になるようなら良いなあと思います。あ、ぼくが読んだ中で一冊だけ、これはとてもお勧めです。

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今回のぼくの原稿ではこの岡嶋氏の著作、比較的批判的に扱っているように見えるかもしれませんが、少なくとも現時点では唯一、メタバースが現代社会を生きる人間にとってなぜ必要なのかを、もっとも真摯に、率直に、説得的に描いていると感じました。ぼく自身は岡嶋氏の主張には同意しませんが、不同意でありつつ90%は共感できるものでもあります。矛盾していますが……。けれども、凄く良く分かるんだけど、でも……、という感じで、そのぐにゃぐにゃ葛藤するところに、きっとこれからの現実のラインがあるのではないでしょうか。いずれにせよ、この本はとても面白かったですし、思想的な面でメタバースに関心がある方には唯一お勧めできます(純粋に技術的な面についてはまたいろいろ良い本がありますが、それはそれで)。

最後に。メタバースって、言葉がダサいですよね(ダサいという言葉自体がダサいということはさておき)。社名の「メタ」ならまだ良いですが、たぶんこれ、残らないですよ。『ソーシャル・ネットワーク』で、まあこれは映画の中のお話ですが、ショーン・パーカーがザッカーバーグに「The facebook」から「The」を取れとアドバイスをするシーンがあって、これが凄く印象的なんです。そして決定的に重要でもある。こういうサービスって、ダサいと思われたらもう御終いです。いつだったか「Clubhouse」とかいうサービスが話題になったことがありますよね。これ、初めて耳にしたときから「こんな阿呆な名前のサービスすぐに消えるぜえ」とぼくは言っていました。嘘じゃないって。ちなみにぼくの最初に行っていた大学にもクラブハウスってありました。嫌な感じですね。滅びないかしら。

それはともかく「The facebook」。これはダメでしょ、というのを、映画のなかのザッカーバーグは理解していました。あくまで物語ですけれども。しかし「メタバース」もダメでしょ……。いやSF小説のなかのギミックとしてはかまわないですよ。でもこれ、ぼくらの日常にはなりませんよ……。「きょう帰りにちょっとメタバース寄ってく?」とか。

そんな感じでした。もしよろしければ、ぜひ。

夜中にカメが訪ねてきて「あのとき助け(原稿はここで終わっている)

近所の大病院の敷地内にカメがたくさんいる池があることを以前に発見し、ときおりふたりで散歩に行くようになりました。天気の良い日には100匹を少し切るくらいのカメが日向ぼっこをしています。池の中央にある石段で組まれた島のようなところがあるのですが、この前行ってみるとその隙間に1匹のカメが頭を下に向けてはまり込んでいました。これはどうしたことかと思ったのですが、いくらなんでも自分で脱出できるだろうと思い――なにしろそれまで一年近く観察していて、嵌りっぱなしのカメなど見たことがなかったので――その日は帰りました。

しかし心配になって翌日もまた確認しにいってみると、やはり嵌ったままです。ときおり後ろ脚をじた……ばた……と動かしています。もうこれは明らかに自力脱出が無理な状況ですので、ぼくらはどうするかを相談しました。けれどもたまたま通りかかった(明らかにその病院の関係者である)おじさんに声をかけ、「カメが……! カメが……!」と訴えたところ、最初は困惑していたそのおじさんもぼくらの目が本気であることに気づき、こいつら放っておいたらやばいと思ったのか、力を貸してくれることになりました。というかもうその方がほとんど全部やってくれたのですが、使っていないポールを二本とガムテープを持ってきて、その二本をつないで長くしてくれます。ぼくはそれを借りて池の柵から身を乗り出すとえいえいと石段を突き、ようやくカメはぽちゃんと水面下に戻っていきました。

何だかいろいろなことがあったような気がしますが、何もかもが既に遠い過去のお話になっています。あ、金魚が卵を産んでびっくりしました。どえらい数。生命ってやっぱり爆発しますよね。

それはそれとして次の本に向けて、といっても出版の目途などないのですが、原稿を書き始めています。こんな感じの内容だよ、と誰に言ってもたいてい「?」となりますが、良い本になる気がしています。この、気がするというのがいちばん大事で、これがないとぼくの場合はどうにも書き始めようがありません。と同時に気がするというときには頭のどこかに全体像が既にぼんやり見えていて、これが見えてしまうと何となく安心して文字を書く気にならなくなります。どっちにしろ書けない! いえでも本当に名著になる予感があります。嘘じゃなく。

とはいえまずはいまの本が売れなければお話になりません。『メディオーム』、ありがたいことにふたたび書評で取り上げていただけました。美学/芸術学がご専門の増田展大氏によるもので、2022年6月4日号の図書新聞に掲載されています。残念ながら有料版ですが以下からpdfで購入できます。

https://dokushojin.stores.jp/items/628eec5c9a70625d59e6750d

「「ポストヒューマンの倫理」という難題へと向けられた果敢な取り組み」というタイトルで、本書の問題点も含め極めて的確な評を書いてくださっています。増田氏はブライドッティの『ポストヒューマン』の翻訳者のおひとりでもあり、『ポストヒューマン』は本書でも引用している重要な著作なので、その翻訳者からの鋭い批判は格段に嬉しいことです。ありがたや!

きょうはお休みの日なので、朝からたくさん洗濯をしました。いよいよ本をしまう場所がなくなってきたので、冬服をどこかに片づけてそこに本をしまうつもりです。といっても、ぼくはほとんど服を持っていません。ジーンズも靴も一着と一足しかありません。そういうと社会人としての常識を云々と言われますが、きみ、常識のある人間がこんな生き方に行きついたりするはずもないだろう、と虚空に向かって語りつつ、洗濯物を干したら原稿を書こうと思っています。

良い日。

土曜日に親知らずを抜き、だんだん頬が腫れてくるなか、西荻窪の本屋ロカンタンさんに行ってきました。月曜社さんの本を幾冊か取り寄せをお願いしていたのが届いたのと、あとは『スヌープ・ドッグのお料理教室』(スヌープ・ドッグ、KANA訳、晶文社、2022)ほか購入したい本があったため。ぼくの料理スキルはこれでさらに躍進する予定です。

本屋ロカンタンさんは前にも書きましたが選書のセンスが非常に良く、ぼく自身の興味関心と重なるところも多いので、いまは本を買うときはだいたいここが中心になっています。西荻窪は(ますます外に出るのが怖くなっているぼくにとっては)遠いですが、行くと楽しいですね。

ロカンタンさんの外観はこんな感じ。すごく広くはありませんが、その分良い本がぎゅっと詰まって美しく並んでいます。

ただでさえコミュニケーション能力に不安のあるぼくですが、きょうは珍しく店主の(映画批評家でもある)萩野さんにお願いをして、自著を撮らせていただきました。とても好きな書店に自分の本が置かれることなど、もうぼくの人生においてはないと思った方が良いでしょう。ですので死ぬる思いで「写真を撮っても良いでしょうか?」などと話しかけたりもするのです。顎の痛みが激しくなっており、自分でも何をしゃべっているのかもはや判然とせず、意識も朦朧としています。しかし萩野さんは気持ちよく対応してくださり、わざわざぼくの本を表紙が見えるように置いてくださいます。ありがたや。

わざわざ平積み状態にしてくださいました。やらせだっていいじゃない。

そんなこんなで本の買い出し紀行から戻ってきて、買おうと思っていた本を二冊買い忘れていたことに気づきました。がっくり。まあ、また買いに行けばよいでしょう。ロカンタンさん、とても良い本屋さんなので、西荻窪近辺に行かれることがあればぜひ覗いてみてください。西荻窪はその他にもたくさん良いお店がありますのでお勧めです。

本を抱えて帰ってきて、家にたどり着くころには顎の痛みですっかりばったり倒れ屋さん(チェブラーシカ)です。一緒に西荻窪へ行った彼女はしかし元気に庭に出て、片隅からジャガイモを掘り出してきました。痩せた土地なのでこの大きさが精いっぱいのようですが、小さな仲間たちからすれば何食分にもなる巨大ジャガイモ。

左は新しい仲間。イチゴを抱えたトラ。

夕方、固いモノが食べられないぼくに彼女が寒天ゼリーを作ってくれました。ありがたや。いやもちろん、ぼくだって作ってもらってばかりではありません。彼女のお弁当はぼくが作りますし、しかもきょうはロカンタンさんでスヌープ・ドッグのお料理教室を買ったのでお弁当スキルもさらにグレードアップです。とにもかくにも寒天はおいしかった。

ちょっと宇宙っぽい寒天になりました。銀河が浮かんでいそう。
オシャレな感じ。しかし食べるのは顎が腫れて唸っている不審者なのです。

そう、あとは図書館に本を返しに行くついでに、亀がたくさん居る池を観察してきました。もう痛みでふらふらになりつつ、それでも亀を見ていると心が和みます。少し小柄で、いつもアクティブに他の亀に向かっていき挨拶をする亀が居て、ぼくらはそれを挨拶亀と呼んでいるのですが、きょうはその亀が他の亀の顔をぺちぺちぺちぺちと挟んでいて(強く叩くわけではありません)、その謎行動に思わず笑ってしまいました。帰ってから調べてみたらどうやら求愛行動らしい。もう春ですね。

夜、鏡の前に立って口の中をマグライトで照らしたら、親知らずを抜いたところがぽっかりと穴になっていて恐ろしい気もしますが、でも、なんだかんだでなかなか良い一日だったように思います。やるべきことが山積み過ぎて何が何だか分からない、ほんの少し先の未来さえ予測できない状況が続きますが、またこんな感じの日が来ると、いいなあ。

ツチノコオカルトシンクロニシティ

例えば、ちょっと面白かったこと。地元の本屋に自分の本が並んでいるのを(根が単純なので)わーいと思って見に行ったとき、たまたますぐ近くにあり目にとまって購入した『フューチャーデザインと哲学』(西條辰義他編集、勁草書房、2021)の一つの章を、院生時代に良く知っていた人が執筆していた。懐かしくなって連絡をしようかと思ったけれど、まあ、元気にやっていればそれでいいかと思ってそれきりになった。

また別の日にこれもたまたま購入した『技術と文化のメディア論』(梅田拓也他編集、ナカニシヤ出版、2021)を読んでいたら墓石について書かれた章があった。そんな研究をしている人も珍しいのでその章の執筆者を見たら、またもや院生時代に少し知り合いだった人だった。彼はぼくらがやっている同人誌に寄稿してくれたこともある。品の良い文章を書くなあと思っていた。懐かしくなったけれど、彼にもやはり、特に連絡はしなかった。この本は湘南T-SITEの蔦屋書店にて開催中のフェア「ソーシャルメディアとデジタルテクノロジーを考える」でぼくの本と共に選書されているものの一冊。

その他にもいろいろ。最近は本に関連したシンクロニシティがけっこうあった。無論、狭い世界だから当たり前だと言えば、それはそうなのかもしれない。けれどもやはりそれはシンクロニシティなのだと思う。無数に出版される本のうち、たまたま手に取ったものに誰かの名前があること、院生時代はぜんぜん専門が違っていた誰かが、ぼくの研究分野で共著を出しているということ。とはいえそれ自体は普通のことで、最近はそういった普通のできごとを通して見えるシンクロニシティが多い。そういう時期なのだろう。

だけれども、シンクロニシティはおかしな形を取って現れることの方が多い。ぼくはけっこう、そういったシンクロニシティとかコインシデンタリーなできごととかを重視している。重視しているという表現は「重視する私」を主にしているようなので、なんだろう、そういったものに避けようもなく目が行ってしまうという感じだろうか。そしてそういったものを凄く面白いなあと感じる。しんくろ山の熊のことならおもしろい。多くの場合、ぼくが見たり感じたりするそれらのものをそのまま口にすれば正気を疑われるかもしれない。しかしぼく自身、自分の主観は自分の主観でしかないと割り切っているので、要するにそれは何かの物語を読み、読み解いているようなものでしかない。でしかない、だけれども、とても楽しいことでもある。

それらが指し示している意味はよく分からない。けれどもそういったシンクロニシティが、惰性で飛行しつつ徐々に高度を落としていくぼくらの人生を、その瞬間にすっと掴んで引き上げる。見回す、ということを忘れて飛んでいたことをふいに思い出したりする。

或る日彼女とフェリーに乗っていたとき、彼女がぼくに、きみのお父さんは海でいろいろ不思議なものを見たのかな、と訊ねた。たぶんオカルトとか妖怪とか、何かそういった意味では、父は奇妙なものは見なかったと思う。何しろ理性の塊のような人だったし。信じられないような自然現象については幾度か話してくれたけれども、それは例えば子供のころにぼくがツチノコに襲われたのとはまったく次元が異なるだろう(ツチノコはツチノコで、ある出来事とシンクロしていたのだが、それはまた別のお話になる)。

もちろん、ぼくは本当にツチノコが実在していて、それにぼくが襲われたというのが客観的な事実だと思っているわけではない。それは完璧なまでに主観の世界における出来事でしかない。ツチノコは極端な例かもしれないけれども、それでも、そういった訳の分からない主観的な記憶の堆積は、論理を積み上げなければならない研究にも影のように投射されている。

ぼくは自分がときおり見るおかしなものについて父に話したりはしなかった。というよりも、そもそも父はぼくに対して常に議論をしかけてくるようなところがあった。まだ幼かったころには物語も読んでくれたけれど。だからどのみち、「いやツチノコがさあ! それが示しているところのものがさあ!」などとは、ちょっと言えなかったと思う。BBCラジオの短波放送を聴き、わざわざThe Economistを海を越えて購読しているような人だったので、それをベースにしかけられる議論に対して「ツチノコがさあ!」はさすがに無理がある。

だけれども、この年になって、ぼくもだいぶ自分の主観を変換する術を覚えた。論文も、自分なりのかたちで論理に色をつけることができるようになったのではないかと感じている。無論、まだまだどうしようもなく稚拙なレベルであることは言うまでもないとしても。だから、いまであれば、ストレートにツチノコではなく、ぼくの感じているシンクロニシティだらけの世界についても、父と議論ができるのではないかと思うし、実際、別段、手遅れということはないのだとも思っている。

まあ、向こうは相当呆れて笑うだろうけれど。