ハックルベリー

例えば、自分自身に電話をかけることを考えてみます。いや考える必要はないですね。かけちゃいましょう。いまちょっとかけてみます……。「ただいま電話にでることが……」という自動メッセージが聴こえてきます。callingって、ぼくにとってはかなり重要な単語です。召命。同時に、ただ単に電話の呼び出しでもある。ぼく自身は常に存在しない神との闘争に明け暮れてここまで生きてきました。すべてはやはりそこに戻っていく。やがていつか自分が死んで存在しない神の前に立ったとき、何を語れるのか、何を叫べるのか。すべてが論理的に矛盾しているのですが、しかし在るということは、つまるところ矛盾の総体だということでもあります。ぼくにとって、だからcallingというのは……。

とはいえ、自分自身に対して電話をかけることはできます。その応答が自動音声なのか話し中なのか、いずれにせよそれはそれで面白い。いま電話がブルブル震え、「さっき着信があったよ」と教えてくれました。まあ自分でかけたんだけれどさ。

ただ、個人的な感覚としては――この感覚が一般的なものではまったくないことを認めた上で――やはりcallingなり、非‐callingなりは在ってほしいのです。そこから断絶した生は、ぼくはあまり見たくないし、かかわりたくない。意識していないということではなく、それなしに在ることを、在れると思い込んでいることを当然として疑わないような在り方。それはあまりに醜く、惨いものです。

そして例によって話は飛びます。ぼくはホワイトハッカーという言葉が嫌いなのです。薄気味が悪い。いま適当にネットで検索してみましょう。日立ソリューションズのページがトップに出てきました。これ、もちろんどのサイトでも構いません、本質的なところではどうせみな同じような内容になるでしょう。

上記のページでは、ハッカーというのは本来価値中立的で「コンピューターやインターネットなどについて高度な知識や高い技術を持っている人」を意味するとあります。なるほど。そしてホワイトハッカーとは「知識や技術を善良な目的のために利用する人」である。これ当然ですが何も間違っていません。上記のページ全体としても非常に良くまとまっています。そしてホワイトハッカーの仕事として、次にはこう来ます。「例えば、国や企業のウェブサーバーに対して不正なアクセスがあった場合、ホワイトハッカーは調査や防御対策を実施します」。

ぼくはこれが恐ろしい。なぜ国や企業への攻撃を防ぐことが善良な目的になるのか。いうまでもなく、不法な行為をしろと言っているのではありません。下らない犯罪行為のために技術を使うのだって莫迦そのものです。舐めるなよというのは、別段、社会に背けとかではないのです。反‐、なんていうのはつまるところハイフンの先にあるものに依存しているだけです。極めてダサいと思わないかい? いやぼくにとってのバイブルである『ニューロマンサー』では、ケイスはカウボーイと呼ばれますが、要するにその実態は違法行為を行うハッカーです。けれども彼の場合は、彼のスタイルを突き詰めていけばその先にあるのは、あるいはその出発点にあるのは黒丸尚さんの訳語を借りれば「凝り性(アーティースト)」であって、つまりは他に選べない生き方の問題です。

善にしろ悪にしろ、所詮は自らの外部において作られたもの、与えられたもの、あるいは強制されたものに対してそう名付けられただけのものに盲目的に尽くす、あるいは反抗する、それだけでしかないのであれば、それはハッカーというスタイルからはかけ離れたものでしょう。俺は俺だ、きみはきみだ、それを守ろう、というもっとも基本的な個人の尊厳があるのだとすれば、それを実現させ守るための腕を持つことがハッカーであるということです。独断と偏見ですよこれ。ほんとうのことをいえばハッカーの定義などどうでも良くて、ぼくはぼくでぼくなりにやるしかない。ただやはり、その盲目性にはぼくは加われない……。だから上記のページで「善悪の意味合いは含んでいない」というのは正しく、だけれども、それはもっと強い意味で、「善悪を超えて俺が俺であるための、きみがきみであるための闘争を表現する技術」であるはずです。

繰り返しますが独断と偏見です。それでも、ホワイトハッカーの大会とかコンテストとか、そういうものに若いひとたちが参加して、賞をもらったりするのを見ると、ぞっとするのです。

ただ……、もちろん、それほど単純な話ではありません。ぼくらは食べていかないといけない。どうしたって、どこかで妥協する必要があるし、あるいは面従腹背する必要だってあるでしょう。というかそれが常態ですよね、ぼくらの生活は。でも目を見れば分かるのです。ああ、こいつホワイトハッカーだ! お父さんお父さんあれが見えないの? あれホワイトハッカーやで。

ぼくはYMOが再生したときのTECHNODONってあまり好きではないのです。これ確か、当時彼女とふたりで再生ライブに行った気がする。いま確認したら行ったそうです。そうだったそうだった。だけれど、良くなかった……。あのYMOを生きているうちに生で観られると喜び勇んで行きましたが、でも、ぼくの結論としては残る曲はないなと思いました。そしてこのとき作られたビデオも本も良くなかった……。何なんだアレ……。

だけれど、本の方は幾つかとても良い箇所があります。引用してみましょう。高橋幸宏による坂本龍一評(というよりも日本の音楽シーン評)です。

教授だってアカデミー賞もグラミー賞も取って、「世界の坂本」って言われてるけど、その、日本的な「世界の坂本」っていう認知は、彼の納得のいくものじゃないのかもしれない。オリンピックのオープニングにしても、彼が一番嫌っていた、ある種、保守的な国家的作業もこなしているわけですよ。彼は闘っているんですね。

細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏、後藤繁雄『TECHNODON(テクノドン)』小学館、1993、p.29

凄く難しいけれど、重要で、必要なことだと思うのです。どんな職業においても。どんな生き方においても。

別に深刻な話ではなくて。そうそう、先日、ほんとうにひさしぶりに研究会に参加してきたのですが、そこでぼくの『メディオーム』の話が出ました(議論の一環として)。それで、その本のなかでは「貫通(penetration)」という単語が重要な要素として出てくるのですが、それを聞いた研究仲間のひとりがけっこう爆笑していました。彼は詩人でもあり、さすがに言語感覚が鋭いなとぼくも笑ってしまったのですが、まあ、そんな感じです。どんな感じか分かりませんが、大丈夫。ぼくだって何も分かっちゃいないのです。