長靴を履いたナニカ

例によって親知らずを抜いて、いまはまだ痛くてごろごろもだえ苦しんでいます。また歯医者の話。この人いったい何回親知らずを抜いているんだろう。もはや親どころかクロマニヨン知らずくらいに行っている気もします。いや逆か、曾々々孫知らずとかかな。ヒヒヒッ! それはともかくこの前所属している研究会で司会をしました。最近は学会発表もせずに司会ばっかりしている。zoom開催とはいえ研究会の事務局がある大学までてくてく歩いていく途中、急に雨が強くなり、ずぶぬれになりました。ずぶぬれになり泣きぬれ蟹と戯れ、それで靴はおしゃかです。周囲の人びとにいくらなんでもさすがに捨てろと責め立てられ、再び泣きぬれつつ捨てました。となるともう履く靴がありません。翌日は仕事なので、仕方なく長靴で出社しました。晴れているのに、嗚呼、世界はこんなにも晴れているのに。

しかしこのブログ、靴のことか歯のことかしか書くことが無いようですが、そんなことはありません。先日『現代思想』に掲載させていただいた原稿について、とてもありがたいことに批評があったので、その応答を少し。少し、というのは手を抜いてということではまったくなく、ありがたい100%なので同意以外に書くことがないためです。蚯蚓鳴さんによるブログ「てのひらに蕃境」の記事です。

『現代思想:特集メタバース(5)』「希少性と排除にもとづくデジタル所有権vs.メタバース」「宇宙の修理とメンテナンス」

一連の投稿で丁寧に今回の特集号を紹介、解説なさっており、とても興味深いです。ですので、本特集に興味のある方はぜひ上記ブログの一連の投稿をご覧いただければ。というわけで早速ですが応答を。

著者は「神=ユーザー」を、自分の秩序を全面的に信奉する者として一様に捉えているようで、個人的には自分の手に余るカオスを好む神もいると思われますし、ときには悪神のようなクラッカーが降臨し大災害のような事態に見舞われることも事実あり、企業が強固にデザインした箱庭といえども、すべてがデザイナーのコントロール下にあるといった想定は、ややいきすぎているようにも感じられました。

http://kinjikisoul.blog.fc2.com/blog-entry-1455.html

これはまったくご指摘の通りですね。メタバース(以前に書いた通り、私はやはりこの「メタバース」という言葉はどうにも恰好悪いと思っていて、恐らく別の言葉によって表されることになるのではないかと感じているのですが、でも案外こういうのが残ったりするのかもしれませんね)がほんとうの宇宙、つまりぼくがそこで生活しているという実感を持てる宇宙になるのであれば、今回の私の論考はあまりにその分析対象が一面的すぎると思います。メタバースがほんとうの宇宙になったとき、そこには必ず他の在り方、存在の様態が生まれるはずです。ただ、いまの時点でその無自覚的なユーザー意識が内包している問題点は指摘しておかないとまずいなということがあります。この「やばいな」感が私の場合は強いので、こういうテーマで書くことになりますが、特集の良いところは他の方がしっかり他の視点での分析をしてくれるところにもありますよね。

では他の在り方とは何か? その大きなものの一つが、蚯蚓鳴さんがまさに指摘なさっているようなカオスや破壊を基本的なモードにしたものであり、大災害であり、予測できない事故や社会情勢の変化(などの諸々)だと思います。私の場合は予測不可能性やコントロール不可能性としてこれを考えますが、同じようなことです。私たちが生きている世界がまさにそうであるように、メタバースもまたそういう側面が当然のものとして現れてきたときこそ、ようやくリアリティとは何かを問える空間になるのではないでしょうか。ですので、ここでのご指摘はその通りだと思います。

それにメタバースの原住民をAIと想定するのも、現状からは乖離しています。

引用同

これもまたご指摘の通りです。そもそも私は、いまのAIがいつか、少なくとも私たちの生という現実的な時間軸において強いAIになるとは考えておらず、しょせんは計算の塊でしかないと思っています。この場合の問題は、むしろ人間の方がAIに何を要求するのか、何を見出すのか、ということになります。これは人間の欲望であり幻想の問題なので、技術とはまた別に、現実として私たちの生き方に影響を与えるでしょう。これはメタバース分析としては上記の通り一面的なものかもしれませんが、特にいまのAI言説最盛期においては必要な批判だと感じていて、今回の議論もその流れに沿ったものだということになります。ページ数が少ないのでこの辺りは全体のコンテクストが分かりにくいのが反省点ですが……。

ただ、先の自分のブログに書いた通り、これは批判一辺倒ということではなく、チープで戯画的なAIに自分の欲望や幻想を投影するというのは、凄く切実で、それは人間の在り方としてはリアリティがあるものだとも思います。そういった意味で岡嶋裕史さんの『メタバースとは何か』は良い本だと思うし、今回の私の論考はそのネガ的なものだとも思ったりしています。あ、あと、モラヴェック的な野生AI、幽霊AIについていえば、私はこういうオカルト的な怪しい話が好きなので、どうでしょうね、いつかそういうのが出てきたら面白いだろうなあ、などと妄想してしまいます。コントロール不可能性って、どこから生まれてくるのでしょうかね……。

いずれにせよ、ご指摘いただいた点は私がいちばん関心を持っているところで、出版のあてもないままに書いている二冊の本のうちの片方ではこれが大きなテーマになってきます。コントロール不可能性こそが存在の根本原理であること、あるいは何かが壊れるとき、それがある空間内での出来事なのか、それとも空間それ自体の破壊なのか(リベラル優生学に対するハーバーマスによる批判はまさにこういった問題ですし、いまなら気候変動もそうだと私は考えています)、そしてまたそれによって犠牲になる存在があるとすればその絶対的な取り返しのつかなさをどう考えるのか、などなど、いくつもの重要な問いにつながっていくものです。絶対に面白くなるのでぜひご期待いただければ……。いえ、出すあて、ないんですけれども。

そんな感じで、ご紹介、ご批判いただけるのはほんとうにありがたいことです。ありがとうございます。読んでくれている人がいるんだ! というだけでも嬉しいのですが、リアクションがあるとさらに嬉しいですね。

ボンジンナリリ・リ

何かを書こうとするとものすごい勢いで忘れていきます。電車に乗っているときに論文のアイデア、といってもせいぜい(自分が)良い(と思っているだけの)ワンセンテンスとか、あるアイデアとアイデアを結ぶルートとか、まあ大したものでもないのですが、けれどもそれを思いつくときって大抵連鎖反応が起きて複数思いつきます。そして次の駅に着くころには全部忘れています。ただ、あることが起きてそれが失われてしまったときのぼくと、最初からそれが起きなかったときのぼくはやはり違うはず。なので基本気にしません。気にしませんがくやしさのあまりいつもギチギチと歯を鳴らしています。ああ、あのセンテンスさえあればノーベル賞だって取れたのに。

そんな感じなので、ブログを書こうと思っても、やはり何を書こうと思っていたのか瞬間的に忘れていきます。確か十数秒前までは四つくらい書きたいことがあったのですが、もはや何も思い出せません。それでも楽しいことや嬉しいことはたくさんあります。いや本当にあるのかな。もう一度よく考えてみましょう。

そうだ、しばらく前にシャーペンを買いました。「カヴェコ アル スポーツ ディープレッド」というやつ。ぼくのような人間が持つにはちょっと高いのですが、でも赤ペンって何か良いじゃないですか。こう、ゲラが届いてそこに赤を入れていると、気分だけは研究者っぽい感じになれます。そもそもぼくはこの一年以上靴一足で過ごしてきたし、そういえばジーンズ以外の服も買っていないや。だからシャーペンくらいは少し高くても気に入ったものを使いたい。何しろ歯医者にさえ片道50分くらいかけて歩いていく人間なのでそろそろ靴底に穴が空きそうですが、きみ、ディオゲネスなんて樽で暮らしていたじゃないか。

で、カヴェコの前は「北星鉛筆 大人の色鉛筆 赤」というのを使っていたのです。これはすごく書きやすいし使いやすいし値段もお手頃で良かったのですが、いかんせん太すぎました。ぼくのように字が汚い人間にはちょっと使いこなせなかった。ゲラに赤を入れると肥えた元気なツチノコがのたくった跡みたいになって自分でも読めない。これはもう本当に反省点で出版社に迷惑をかけてしまいました。でもぼくの性格の問題点なのですが、途中でペンを変えるということができないのです。何なのでしょうねこれ。ともかくカヴェコです。これはほんとうに手に馴染みますし、デザインも格好良くてお勧めです。でも0.7mmの赤色シャー芯は途轍もなく折れやすい。そこだけ割り切ればこれは素晴らしいシャーペンです。そんなこんなでいまならゲラに赤を入れるのも楽しい。楽しいのでどこからか原稿依頼とか来ませんかね。来ませんね。寂しいですね。

もう一つ嬉しかったこと。ずっと昔、1990年だからもう30年以上前ですね、そのころぼくはCDのジャケ買いが趣味だったのですが、ジャケットが不思議な感じで買ってみたらとても良い音楽だったのがオランダのバンドThe Use Of Ashes AshesのThe Use Of Ashesというアルバム。

coverはThe Use Of Ashesとなっていますが本人たちが描いたのでしょうか。

ちょっとどういうジャンルか分からない不思議な感じの音楽で、機会があればぜひ聴いてみていただきたいのですが、このバンド、その後どうなったのかなと時折CDを聴いては思ったりしていました。先日ようやくネットで調べてみたらまだ活動しており、2020年に新譜が出ていました。

https://www.tonefloat.com/658402_the-use-of-ashes-burning-gnome-tf196-and-limited-7inch-single-tf197

一曲聴けますのでぜひ。といっても趣味に合うかどうかは分かりませんが……。30年経っていても曲風は変わっていなくて、それも凄く嬉しいんですよね。あ、こういうのオルタナティブロックっていうのか。

でも恐らくですが皆さん、このバンドご存じないと思います。言うまでもなく知っている俺凄いみたいなことを言いたいのではなくて、例えばThe Use Of Ashesの12曲目Where The Fish Can Sing、これなんてもう天才としか思えない素晴らしい曲なんですけれども、これだけのものを作っても、きっと世界中でこのバンドを知っている人(曲を聴いたことがある人)って、根拠はありませんがせいぜい数万人くらいしか居ないと思うのです。80億人中の8万人だとしても、10万人中の一人しか知らないということですよね。80万人いたとしても1万人に一人です。

そうして、そのようなことを考えるときにいつも思うのは、ましてぼく程度の凡才では……、ということです。自分を卑下しているわけではなくて、客観的に見てということ。カヴェコでゲラに赤を入れてわーいとか喜んでいても、いったいどれだけの人にぼくの言葉を届けることができるのでしょうか。無論、届くことが目的化してしまっては意味がないし、かといって本当に届くべき相手のもとに届けばいいんだと開き直る(閉じ直す?)こともぼくは好きではありません。

つまりは凡才なりに書き続けるしかないのでしょう。書くこと自体に悩んだことは生まれてから一度もありません。けれども、それが届くかどうかについてはいまだに何の確信もありません。

宇宙の修理とメンテナンス

カネゴンが眺めています。

というわけで『現代思想 特集=メタバース』(2022年9月号)が発売されました。ぼくは「宇宙の修理とメンテナンス」というタイトルで載せてもらっています。郡司ペギオ氏の論考など面白いものが幾つもありますので、書店で見かけたらぜひぜひ。ぼくの原稿の冒頭はこんな感じです。

メタバース。当然ここではユニバース(宇宙)が意識されている。もし私たちが何らかの信仰を持っているのなら、この宇宙を創ったのはその信仰体系における神かもしれない。ではメタバースを作るのは誰なのか。技術に支配された現代社会において、いうまでもなくそれは技術を従え神であるがごとく振る舞う私たち自身だ。それをボードリヤールに倣って世俗的な神(démiurgie mondaine)と呼んでも良い。このメタバース(宇宙)にはすべてがあり、私たちはそこで為したいことのすべてを為せる。私たちが自由を求める存在であるなら、不自由しかないユニバースからメタバースへの脱出もまた歴史的必然だといえる。

だが果たしてこの世俗的な神は本当に無から有を創り出せるのだろうか? 無論そのようなはずはない。そこには他者に対する抑圧と搾取が隠されているし、その欺瞞の上に居座りコントロールされたAIたちにどれだけ賛美されたところで、存在に対する不安と渇きが解消されることもない。本稿では近年注目されている「修理する権利」と、そして歴史学者保苅実による「歴史のメンテナンス」という概念を参照しつつ、メタバースが真の意味で宇宙になるための条件を考察する。

という感じで、メタバースメタバース言うけれど他者をリソースにしていることに対して無自覚でいたらダメだよねとか、じゃあどうしたらメタバース(という名称は本当にダサくていやなのですが)が真の意味でぼくらの生の場になるのかなとか、そんなことを書いています。他の方とはかなり明確に関心の対象が異なっているので、良くも悪くも独自性はあります。いやあるかな。あー、そこにないならないですね。

あと何だろう……。雑誌を覗き込んでいるのはカネゴンですね……。そうそう、カネゴンもそうなのですが、映画『銀河鉄道の夜』のサウンドトラックのカセットテープが実家の奥深くから発掘されたのです。数十年ぶりにそれを聴いたのですが、音がゆわんゆわん揺らいで、でもそれが何とも言えずに良いんですよ。皆さんにも聴いていただきたいくらい、別の世界がそこに立ちあがります。なんかそんなことをだらだら話していたいんですよ。ぼくはやっぱりアカデミズムというのでしょうか、何だか分かりませんがあの表現しにくい独特の雰囲気が苦手で、もういよいよ学会発表とかやる気がなくなってきてしまっています。「メタバースって響きがやばいよね、ザッカーバーグやばいよね、銀河鉄道のサントラ良いよね」みたいなことだけだらだら喋っていたい。ダメですかね。いや部屋で独り言を言っている分には誰の許可を得る必要もなく、定職もないままに研究者ですぅなどと意味不明な供述を繰り返すのも自由です。いまの生活はほぼ全面にわたりばくちですが、そうとしか生きられないのでもうこれは仕方がないことだし、それはそれでけっこう満足しています。

そんな感じで、けっこう好き放題に書いていますが、自分では良い論考になったと思っています。自画自賛ということではなく、なぜ自分が研究しているのか、そのオブセッションは影みたいに出せたのではないかということ。よろしければ、ぜひ。

http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3718

人相が悪いじゃないか

そろそろ非常勤でやっている後期の講義の準備をしなければなりません。いまぼくは(出すあてもない)本の原稿を二つ書き進めていて、いえもうこれ本当に面白いんすよ、と独りでニヤニヤしながら書いたり考えたり読んだり妄想したりノーベル賞を取ったりしています。でもぼくはノーベル賞が嫌いなので賞金だけ欲しい。くれませんかね。いやともかく、せっかく面白いので講義内容に反映させたいのですが、これがなかなか難しいです。いちばんの問題は時間が足りなすぎるということですね。たとえば例年最初にメディアの歴史を辿るのですが、これだってきちんとやろうと思ったらそれだけで一コマ使い切ってしまいます。

そしてもう一つは、良いドキュメンタリーを観てもらいたいということ。90分は微妙でドキュメンタリー一本流せるかどうかですが、観せたいものは四本も五本もある。でもそれをしたらもう講義する時間がなくなってしまいます。しかしぼくなんかが、はっきり言って浅い人生経験しかないし生きるか死ぬかも体験したことがないような人間なんかが「倫理~」とか白目を剥きながら百の言葉を重ねるよりも、良いドキュメンタリーのワンシーン、そしてそのワンシーンを感じ取るためにはそこだけ切り取ってはダメでその前後のすべてを観なければならないのですが、そのワンシーンを観る方がよほど意味があります。いえぼくだって自分の喋りに大きなものを賭けているしそれは誇りをもってやっています。だからゼロイチではないけれども、やはりそのワンシーンの力は絶対にある。

ドキュメンタリーを観るときにぜひ受講生のみんなに意識してほしいのは、出てくる人びとの顔、表情、声、目つき、それに注目するということです。これは前にも書いたかもしれないけれど、そこに人間のすべてが出てしまう。ぼくが講義で流すのは環境問題とかそういうテーマのものが多いので、特にそれが如実に表れる。悪が、他者の苦痛に対する愚鈍さが滲み出ている。そういう人間って確かに居るのです。もちろんそれは多かれ少なかれ誰にでもあるものかもしれない。でもそうじゃないんです。人間としての一線を超えた、その一線は定義できないけれど間違いなくある。超えてしまったそのひとの目を見て、ああそうだ、確かにここには倫理が無い、無いというのは本当の虚無と暗黒がそこに在るということですが、それを感じてほしいのです。

それはめちゃくちゃ怖いことです。突然オカルトじみたことを言いますけれど、ぼくはけっこう、かなり怖いものを見てきた人間です。幽霊とか化け物とか。でもそういうのって別に怖くないんです。それは世界とぼくの関係性のゆらぎのなかで生じるもので、居るけれど居ないもの、居ないけれど居るものでしかない。いや怪しいことじゃなくてですね、幽霊が居るって、例えば科学的に考えてあり得ない。それはそうです。いや私は見たんだから居る。それもそうです。そのどちらも否定してはならないほど真剣で深刻で切実だけれど、でも完全には同意できない。ぼく自身はもっと自由でいたいと思っています。あーなんか居るなー、そうか、いま世界は、ぼくは、世界とぼくの関係はそういう状態を生み出すようなところにあるんだなー、と、ただそれを感じとるだけでありたい。何の話だ。そうそう、だからそういうのって別に怖くない。ここしばらくそういうのを見ることもなくなってしまって、それはもしかするとぼくの老いなのかもしれないけれども。

でも人間の目の怖さは、ほんものの怖さです。これはちびります。毎回講義でドキュメンタリーを学生さんと一緒に観ながらちびっている。あ、ちびっているのはぼくだけですよ。他人と目を合わせられないぼくが言うのもあれですが、でもその目って後ろからでも見える。避けようのないものです。大丈夫ですかねこの人。大丈夫です。ぼくはおそらく今世紀最高の人間強度を備えた人間なので大丈夫、大丈夫。そしてその怖さには二重の意味があって、そういう人間が確かに存在している、一線を超えてしまって何か訳の分からない深淵に落ちてしまった向うが在るということに対する恐怖でもあるし、同時に、それは絶対に誤魔化せない、隠せないものだという恐怖でもある。それはいつだってすべてを透過してぼくらの眼前に迫ってくる。

だから最近ますます外に出るのが怖くなっているのですが、実際問題朝家の外にごみを出すのさえ怖いのですが、だって外に人間が居るじゃないですか。いやほんとうにぼく自身の精神は驚くほど安定しているし呑気なんですけれども、タイトルの「人相が悪いじゃないか」、これ太宰の「如是我聞」です。「葉」と並んで間違いなく日本の近代文学史上の到達点の一つ。人間が極限において悪と対峙する話であり、悪としての醜についての話でもある。そして「葉」とは違って希望はない。だから太宰は死ぬしかなかったのだけれども……、いやでも、「葉」のラストにだって太宰の死は既に刻まれていますよね。「どうにか、なる」。気が狂いそうになるほど切実な祈り。

そんな本を書きたいと願っています。

茄子観音

4か月前よりも少し大きなジャガイモが採れました。

これは少し前の写真。今年は実家の梅の実もなかなか見事に生りました。早速梅酒と梅ジュースに。

何だか偉そうに腕を脇にあてたナス。我が家では茄子観音と名付けて祭っています。

きょうは一日本の整理の日。しばらくメタバースの原稿にかかりきりだったので、そろそろ元々書いていた論文に頭を切り替えていかなければなりません。同人誌もふたたび再開しそうな雰囲気です。書くことがあり、書く場があるというのはほんとうに幸福なことですね。

お、帰りにちょっとメタバに寄ってく?

ふたたびありがたいことに、『現代思想』の編集の方にお声をかけていただき、9月号のメタバース特集に原稿が掲載されます。最初、編集の方から届いたメールがなぜかスパムボックスに入っていて、普段だったら機械的に削除してしまうのですが、このときは偶然気がつき、あとになってぞっとしました。こういう機会をいただけるってぼくにとってはまずあり得ないことなので、ほんとうに危なかったです。

http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3718

「宇宙の修理とメンテナンス」というタイトルで書いています。ちょっと面白そうじゃないですか!? 面白いと良いのですが。修理する権利と保苅実の「歴史のメンテナンス」の議論を参照しつつ、メタバースが宇宙になるための条件について考えています。ただ、メタバースというと現時点では「この私」のアイデンティティ表象にまつわる諸問題がクローズアップされることが多いと思います。そういった意味では今回の原稿、そもそもメタバースなるものを成立させるには他者という観点が不可欠だよねというお話なので受けは悪いかもしれません。とはいえ、『ニューロマンサー』に影響を受け、かつ数十年プログラミングを生業としつつ生きてきた人間から見るとメタバースってどうなのというのは、それはそれで意味のあるものではないかと思いますので、もしご興味があればぜひお手に取っていただければ幸いです。

今回個人的に良かったのは、同じ特集に郡司ペギオ氏が寄稿していることです。郡司氏といえばぼくの最初の印象はやはり『内部観測 複雑系の科学と現代思想』(郡司ペギオ・幸夫、松野孝一郎、オットー・E・レスラー、青土社、1997年)で、これぼくが最初の大学を中退するかしないかくらいの時期に手に取って読んだのですが、まったく意味が分からなくて衝撃的でした。その大学では一応情報科学を専攻していたはずなのですが(とはいえ完全に落ちこぼれでしたが)、なぜ勉強するのか、何を勉強するのかまったく分からなくなってしまい、それでも何か考えなければならないことが「そこ」にあるのは感じていて、でもじゃあその「そこ」ってどこ? ということも分からずにいたころです。そんなときに手あたり次第本を読んでいたのですが、その一冊がこの『内部観測』でした。

今回改めて本棚から引っ張り出して読み直したのですが、やはりめちゃくちゃ難しい。でも自分のいまの研究に引き寄せて考えてみると三割くらい分かる……ような気がします。いやともかく、当時の「ぜんぜん分からない!」というのは結構重要で、何だろうかな、本能的にこれは面白いぞ、でも分からんな、というのが、結構、当時のぼくにとっては支えになっていた気がします。空転ばっかりする頭だけれども何かかみ合うものがこの世界にはあるかもしれないという期待。

そんなこんなで、まあ別にいまだって何も進歩はしていないのですが、そんな自分が郡司氏と同じ雑誌に原稿を載せられるというのは、うーん、当時のぼくに伝えたいし、やっぱり嬉しいです。根が単純なので嬉しい。

あともう一つ、『現代思想』といえば忘れもしない2015年の「人工知能」特集号で『ニューロマンサー』についての滅茶苦茶な解釈、といってもほんの数行ですが、それが記載されている論考があって、ぼくは激怒しました。ぼくのような無名の研究者がぶうぶう独り言で文句を言っていたって何の意味もないのですが、しかしあまりに酷いその無理解に激怒し、激怒し続け、今回自分の原稿のなかで『ニューロマンサー』に触れることができて、ようやく供養ができた気がしています。何の供養だ。自分の激怒への供養かな?

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メタバースっていうと大抵『スノウ・クラッシュ』が挙げられますが、物語としても描かれた世界の広がりとしても『ニューロマンサー』の方がはるかに優れているとぼくは思っています。『スノウ・クラッシュ』も面白いので悪く言うということではなく、でもやっぱりエンターテイメントです。メタバースという言葉が出てくる以外、思想的には特に参照することがない気がします……。いやそれが悪いっていうことではないですよ。ぜんぜんそんなことはないです。そもそも『ニューロマンサー』だって純粋にエンターテイメントとしても最高に面白いし。

そうではなくて、メタバースを考えるのなら『ニューロマンサー』だし、既に当時サイバースペースに関するいま読んでも優れた論考がたくさんあったのだからそれを辿り直しても良いんじゃないかなとぼくは思います。『スノウ・クラッシュ』で止まってしまってはもったいない。あとは神林長平の『魂の駆動体』は、メタバースを考える上で(「この私」のアイデンティティ表象というよりも、この世界とは何か、そこで生きるとはどういうことか、人間はなぜモノを作るのかといったことをより根源的に考えるときに)ほんとうに素晴らしい物語なので、これも凄くお進めです。

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いま現在、メタバースに関連したまともな本ってほとんどありません。はっきり言って読むに堪えないものばかりです。それでも、今後何年くらいのスパンでそうなっていくのかは分かりませんが、メタバース的なものが避けがたいのも事実です。ですので今回の特集がそれに関する思想的な取り組みの端緒になるようなら良いなあと思います。あ、ぼくが読んだ中で一冊だけ、これはとてもお勧めです。

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今回のぼくの原稿ではこの岡嶋氏の著作、比較的批判的に扱っているように見えるかもしれませんが、少なくとも現時点では唯一、メタバースが現代社会を生きる人間にとってなぜ必要なのかを、もっとも真摯に、率直に、説得的に描いていると感じました。ぼく自身は岡嶋氏の主張には同意しませんが、不同意でありつつ90%は共感できるものでもあります。矛盾していますが……。けれども、凄く良く分かるんだけど、でも……、という感じで、そのぐにゃぐにゃ葛藤するところに、きっとこれからの現実のラインがあるのではないでしょうか。いずれにせよ、この本はとても面白かったですし、思想的な面でメタバースに関心がある方には唯一お勧めできます(純粋に技術的な面についてはまたいろいろ良い本がありますが、それはそれで)。

最後に。メタバースって、言葉がダサいですよね(ダサいという言葉自体がダサいということはさておき)。社名の「メタ」ならまだ良いですが、たぶんこれ、残らないですよ。『ソーシャル・ネットワーク』で、まあこれは映画の中のお話ですが、ショーン・パーカーがザッカーバーグに「The facebook」から「The」を取れとアドバイスをするシーンがあって、これが凄く印象的なんです。そして決定的に重要でもある。こういうサービスって、ダサいと思われたらもう御終いです。いつだったか「Clubhouse」とかいうサービスが話題になったことがありますよね。これ、初めて耳にしたときから「こんな阿呆な名前のサービスすぐに消えるぜえ」とぼくは言っていました。嘘じゃないって。ちなみにぼくの最初に行っていた大学にもクラブハウスってありました。嫌な感じですね。滅びないかしら。

それはともかく「The facebook」。これはダメでしょ、というのを、映画のなかのザッカーバーグは理解していました。あくまで物語ですけれども。しかし「メタバース」もダメでしょ……。いやSF小説のなかのギミックとしてはかまわないですよ。でもこれ、ぼくらの日常にはなりませんよ……。「きょう帰りにちょっとメタバース寄ってく?」とか。

そんな感じでした。もしよろしければ、ぜひ。

夜中にカメが訪ねてきて「あのとき助け(原稿はここで終わっている)

近所の大病院の敷地内にカメがたくさんいる池があることを以前に発見し、ときおりふたりで散歩に行くようになりました。天気の良い日には100匹を少し切るくらいのカメが日向ぼっこをしています。池の中央にある石段で組まれた島のようなところがあるのですが、この前行ってみるとその隙間に1匹のカメが頭を下に向けてはまり込んでいました。これはどうしたことかと思ったのですが、いくらなんでも自分で脱出できるだろうと思い――なにしろそれまで一年近く観察していて、嵌りっぱなしのカメなど見たことがなかったので――その日は帰りました。

しかし心配になって翌日もまた確認しにいってみると、やはり嵌ったままです。ときおり後ろ脚をじた……ばた……と動かしています。もうこれは明らかに自力脱出が無理な状況ですので、ぼくらはどうするかを相談しました。けれどもたまたま通りかかった(明らかにその病院の関係者である)おじさんに声をかけ、「カメが……! カメが……!」と訴えたところ、最初は困惑していたそのおじさんもぼくらの目が本気であることに気づき、こいつら放っておいたらやばいと思ったのか、力を貸してくれることになりました。というかもうその方がほとんど全部やってくれたのですが、使っていないポールを二本とガムテープを持ってきて、その二本をつないで長くしてくれます。ぼくはそれを借りて池の柵から身を乗り出すとえいえいと石段を突き、ようやくカメはぽちゃんと水面下に戻っていきました。

何だかいろいろなことがあったような気がしますが、何もかもが既に遠い過去のお話になっています。あ、金魚が卵を産んでびっくりしました。どえらい数。生命ってやっぱり爆発しますよね。

それはそれとして次の本に向けて、といっても出版の目途などないのですが、原稿を書き始めています。こんな感じの内容だよ、と誰に言ってもたいてい「?」となりますが、良い本になる気がしています。この、気がするというのがいちばん大事で、これがないとぼくの場合はどうにも書き始めようがありません。と同時に気がするというときには頭のどこかに全体像が既にぼんやり見えていて、これが見えてしまうと何となく安心して文字を書く気にならなくなります。どっちにしろ書けない! いえでも本当に名著になる予感があります。嘘じゃなく。

とはいえまずはいまの本が売れなければお話になりません。『メディオーム』、ありがたいことにふたたび書評で取り上げていただけました。美学/芸術学がご専門の増田展大氏によるもので、2022年6月4日号の図書新聞に掲載されています。残念ながら有料版ですが以下からpdfで購入できます。

https://dokushojin.stores.jp/items/628eec5c9a70625d59e6750d

「「ポストヒューマンの倫理」という難題へと向けられた果敢な取り組み」というタイトルで、本書の問題点も含め極めて的確な評を書いてくださっています。増田氏はブライドッティの『ポストヒューマン』の翻訳者のおひとりでもあり、『ポストヒューマン』は本書でも引用している重要な著作なので、その翻訳者からの鋭い批判は格段に嬉しいことです。ありがたや!

きょうはお休みの日なので、朝からたくさん洗濯をしました。いよいよ本をしまう場所がなくなってきたので、冬服をどこかに片づけてそこに本をしまうつもりです。といっても、ぼくはほとんど服を持っていません。ジーンズも靴も一着と一足しかありません。そういうと社会人としての常識を云々と言われますが、きみ、常識のある人間がこんな生き方に行きついたりするはずもないだろう、と虚空に向かって語りつつ、洗濯物を干したら原稿を書こうと思っています。