ぼんやりしています

GWですけれども特に何もなくて、いえ何もないとか言っている場合ではなくて、仕事も原稿も山積みです。断続的に耳が聞こえにくくなったり元に戻ったり、けれども、いつも通りといえばいつも通り。最近は息抜きに近所を歩くときにはカメラを持ち歩くようにしています。何だか変質者みたいだな。でもぼくは人間を撮ることはできないので、いやそもそも人間を撮ることのできるひとって凄いですよね。ぼくは怖くて怖くてだめです。だから、ということではなくてそもそも葉っぱとか昆虫とか雲とか水とかそういうものが好きだから人間なんて撮れなくたって痛くも痒くもありません。だけれどももう蚊が出てきていて地面を這っている虫なんかを撮っていると蚊に刺されて痒い。散歩はたいてい近所のぞうきりん、いまこれ変換できなくて初めて知ったのですが、「ぞうきばやし」というのですね。凄いなあ、半世紀生きてきて、しかもその前半生は裏山を走り回って田んぼを転げまわって、いや田んぼは転がらないけれども、夏の夜になると町中がウシガエルの鳴き声で揺れるようなところで育って、しかもキャベツと白菜の違いも分からないのに「農学博士ですフヒヒ」とか言いつつ、ぞうきばやし、いま初めて知りましたよ。いやまてよ、数年前にもぞうきばやしで衝撃を受けた記憶がぼんやりあるぞ……。まあいいや、とにかく痒いです。でも昆虫やら葉っぱを撮っているときは幸せ。

ぼくは普段NEX-5Rか、旅行のときはRX-100M、これどっちも凄く良いカメラですけれども、それを使っています。でもやっぱり「写真」を撮るときはα700。昔中野の中古カメラ屋さんで買ったのですが、ほんとうに良いカメラです。さすがに何十年プログラマとして生きてきたので、コンピュータはメディアとしては限りなく透明になっていきます。特に気に入ったマシンであれば、向かい合うのはロジックでハードウェアではない。気に入らないマシンだともうぜんぜんダメですけれども。そして、同じくらい透明になる道具といえば、あとはカメラだけです。そういった意味ではα700みたいにファインダーを覗いて撮るというスタイルは絶対で、これがないとカメラを身体と一体化して扱えません。いや別に偉そうな話ではなくて、ただの素人の感覚のお話しです。第一、それをいったらプログラマとしてだってぼくはせいぜい2.5流といったところですし。でも、モニタを見ながらとか、あるいはいったんチップを通して補正された映像を観ながらとか、そういった形だと、ぼくにとってはどうしてもメディアは透明になりません。そもそも自分の目の位置と異なる位置にレンズがあるとそれだけでかなり「意識して撮る記録」になってしまいます。それはそれで意味はあるし面白いけれど。

ともかく、目とレンズの位置、撮影主体のお話なんていつかきちんと書きたいですね。そういえばこの前泣く泣くスマートフォンを買い替えたのですが、試しに写真を撮ってみたら補正がものすごくて、いやあこれは凄いけれど写真ではないわねと感じました。否定しているとかではなくて、時代は変わっていくねえ、ということ。

そんなこんなで最近はまた写真を撮るようになっています。でもってblueskyにアップする。昨日はクモの写真を撮って、自分としてはすごくクモの格好良さや可愛らしさ、一生懸命さだったりぼんやりさだったりが写せた気がしてblueskyにあっぷするでぇ! と思ったのですが、クモって苦手な方も多いですよね。ぼくも昔は多くの昆虫が苦手で、というよりも恐怖の対象で、蛾とかを見てしまうと腰を抜かしながら数十メートル這って逃げて、数日間は精神的に不調になって、動悸、息切れ、眩暈、救心! となっていましたが、いまこの年になると何もかもみな懐かしい。蛾も可愛い。人間って変わるものです。でもいまでもあのアレ、カタツムリから殻が取れた(取れたわけではないが)アレはダメで、カフェインを撒くと逃げると聞いて庭に撒いています。信条としては「できる範囲では不殺」ですので、殺す系の薬剤は使いません。なので、近所でコーヒーの粉などを安売りしているのを発見したら買ってきて、庭に防衛ラインを引く。粉を撒いているところをご近所さんに見られたら「いやね、コーヒー農家を始めようと思いまして(笑)」などと言いながら粉を撒く。「こっから生えるんですよ(笑)。生命って凄いですね(笑)」。何だか変質者みたいだ。だけれども何しろ農学博士です。ぼくはコーヒーについては詳しいんだ。

そうそう、クモの写真です。突然それが出てきたら嫌なひとに悪いので、せめてワンクリック挟んで写真が出るようにしようと思いました。でも、よく分からないのですが、どうも成人向け画像指定にしないとそういうのってできないようなのです。それで仕方なく「この写真は成人向けです。よろしいですか?」みたいな感じで指定しておきました。うーむ。クモだってびっくりですよ……。ぼくだってびっくりです。観る人だってびっくりです。何の意味があるんだ?

とにもかくにも写真のお話。やっぱり、そういう時間がある、というか無理やり作るのですが、それは必要ですよね。カメラを持って土のあるところに行くのは数少ない喜びです。あとは庭をぼんやり眺めているくらいしか趣味がない。庭といえばいまは庭を5分くらい眺めると必ずトカゲが見つかります。トカゲ天国。みんな一生懸命生きていて、そんならぼくももう少し一生懸命生きようかしら、という気持ちになります。でもよくよく見ているとトカゲもけっこうぼんやりしていることが多くて、小さな木から落ちたりしている。それならぼくもぼんやり生きるかしら、という気持ちにもなります。というか、たいていぼんやりしています。

ああでも、本は読んでいます。最近ではバトラーの『この世界はどんな世界か?』を読みました。やっぱりバトラーは素晴らしいですね。いろいろ、具体的なところでは同意できない点もありますが、それはアメリカと日本の状況が異なるからというのもあるし、そんなことはさておき、何のために考えるのか、どのように考えるのか、それをどのように言葉にするのかという点において、バトラーは変わらずぼくにとってもっとも尊敬できる哲学者です。今回も、まずはざっと読むかと思いながら職場への行き帰りで読んで、凄く良い箇所を見つけたのです。でも、帰ってきてから数日たってその場所を忘れてしまった。なので、きょうは原稿を書きながらゆっくりその場所を再発見しようかと思っています。そんな感じのGW。仕事も何も終わらないのですが、とにもかくにも(ぼんやり、というよりもはや放心しながら庭を眺めることも含めて)何かをやり続ければ、あとから振り返っても良い日々だったと思えるでしょう。

にょにょっと顔を出すニホントカゲくん。

そんな感じです。あとはそうですね、例によって眠るたびに地獄の夢を見ています。いわゆるそのままの意味での地獄の夢の場合もあるし、わあ地獄っぽいなあという状況の夢の場合もあります。昨晩は自分がちょっと中途半端な生首状態で、首の部分がやけに長くて、その切断面というのでしょうか、そこから少しずつ腐敗していく夢を見ました。目が覚めると、何だかやっぱり疲れます。諸々分析はできますが、それはぜんぶ戯言で、ほんとうの意味はぜんぜん別のところにある。まあでも、生きているものをぼんやり見ていると、心も和みます。例によって、そんなGWを過ごしています。

ライヒ的

在宅作業の良いところは家事をしっかりできるということです。基本的に家事は好きだし得意だと思います。いやどうかな……。考えてみると家事って何でしょうかね。掃除洗濯整理整頓メンテナンス金魚の世話などなどは完璧ですが、庭仕事はもうダメですし、食事には(皿洗いはライフワークと言っても良いほど好きですが)あまり関心がありません。研究や原稿のことを考えながら皿を洗ったり――だから食洗器を勧めてくる人間はぼくの敵です――雑巾がけをしたりするのは気分が良いけれども、原稿を書きたいときに食事の準備をするのは苦痛で、たぶん食事を作るって相当にクリエイティビティを要するものだからかもしれません。どのみちぼくに料理の才能はないけれど。

でもそんなことを言いつつ、ぼくが在宅で彼女が出勤のときに、彼女が帰ってくるまでに間に合うように独りで食事の準備をするのは嫌いではありません。何が作れるということもなくありきたりのものしかできませんが、ライヒを聴きながら踊りながら気分よく野菜を切ったりしています。とはいえぼくには運動の才能もなく、踊るといってもずたずたがしゃがしゃ、壊れた変質者のロボットみたいな感じ。ライヒは――もちろんこれはスティーブ・ライヒであって、ヴィルヘルム・ライヒではありません。とはいえヴィルヘルム・ライヒのクラウドバスターとか凄く面白いので、興味があったら検索してみてください。クラウドバスター。不思議な言葉ですね。ちなみに細野晴臣のアルバム『オムニ・サイト・シーイング』に収録されている「ORGONE BOX」はヴィルヘルム・ライヒとクラウドバスターについての曲です。これまた不思議な曲。ぼくは細野晴臣の音楽が好きなのですが、でも論文を書いたり料理をしたり何かをしたりするときに聴くのはやはりスティーブ・ライヒの曲。ぼくの魂と似ている形で、そこには論理と祈りがあるからだと思っています。

祈りのない言葉って、やっぱり糞ですよね。ぼくはそう思います。いわゆるアカデミズムが嫌になっちゃったのって、ぼくらが普通に研究者です~みたいな顔をしているときに読む/読まなければならない/付き合いで読まされる論文の大半に祈りがないからでした。変なことを言っているのは分かっているので大丈夫です。というか大丈夫ではないからこんな生き方になってしまっている訳ですが、でもまあ、実際には全然そのようなことはなくて、本当の研究書なら、祈りは常にある。その人に信仰心があるとか、具体的にどういった宗教を信じているとかとはまったく異なる次元において、祈りはある。ぼくの人生なので、そういったものだけを読んでいたいし、実際、読んでいて良いのです。

その祈りって、何なのでしょうね。言葉にするのは難しい、というよりも簡単すぎて却って伝わらない気がします。でもその表現の一つはライヒだし、あるいは、「銀河鉄道の夜〔初期形第三次稿〕」にある次の言葉、

みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう、けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。そして勝負がつかないだろう。けれどももしおまえがほんとうに勉強して実験でちゃんとほんとうの考とうその考とを分けてしまえばその実験の方法さえきまればもう信仰も化学と同じようになる

宮沢賢治『ポラーノの広場』新潮文庫、1995年、p.323

などはまさにそれでしょう。どれだ!? ともかく、ぼくはそういう言葉を書きたいし、それはとても難しいのですが少なくともそれを目指したいし、そうでないものに、つき合うのは良いですし多少はつき合う必要でもあるのでしょうけれども、だけれど、嘘の言葉に人生を喰われるのはほんとうに嫌なのです。いや、ぼくは嘘ばっかりですよ。もちろん。言葉だけではなくて人生そのものが。道を歩いていて太陽に照らされて、道路に映る影でさえも嘘くさい。でも研究者を名乗る人間の、曲がりなりにも思想をやっている人間の言葉に信仰がなかったら、それ最悪の嘘ですよ。

あとですね、上記の引用、ますむらひろしのマンガもぜひお読みください。これ前にnoteでも書いたけれど、この箇所のコマ割りが凄いんです。このシーンだけでも、ますむらひろしの天才が表れている。そういえば映画『銀河鉄道の夜』のサントラも細野晴臣ですね。名画。

いま原稿について悩みに悩んで、というとちょっと違うな、楽しいことなので辛いとかではなくて、それでも負荷はかかり続けます。あとは仕事とかその他の私的な雑事とか、そっちは別段楽しくはないのですが、なんだかんだで耳がおかしくなっています。片耳に圧力がかかったような感じ。人間レベルでいえば困るのですが、でも、その人間を俯瞰で見下している魂は、その全体を楽しんでいます。祈りのないロジカルな言葉なんで、百万文字でも三秒で書けます。だからまあ、そういうことです。

頭痛箱、481、そしてブルブル。

驚くべき勢いで時間が経っています。年明け早々に体調を崩し、結局原因は分からなかったのですが、ひと月くらいそれで潰れました。実質ひと月半かな。夜中に突然頭痛が生じ、それがいままでにないくらいの激しさ。夢の中で「これは量子力学的頭痛だ」という謎のひらめきを得て、霧箱ってありますよね、あれぼくは凄く不思議だと思うのですが、あれの頭痛版を夢の中で作ったのです。木製。量子力学的頭痛を検知する木箱。意味が分かりませんが、めちゃくちゃはっきりした構造の道具で、目が覚めてもその頭痛は凄まじくまじめにちょっといろいろ考えてしまいつつ、これ凄い発明じゃ~んとか思っていたのです。

それはともかく、そんなこんなでいろいろ予定が狂ってしまいましたが、もともと人生そのものの調子が狂っているようなものなので、そこはそれ、なにはあれです。ある朝、いつも乗り換えるホーム、いつも立っている位置で、ぼくはこれまたいつも、線路の向こうにあるフェンスの網目の数を数えます。まあそんなもんです。ともかくそれは37×13マス。プログラマなんて数字に強いイメージがありますが、ぼくは未だに「三日後」とかいう言葉が理解できないレベルです。「一日後は明日、二日後は明後日、三日後は……」ともにょもにょ唱えてようやく分かります。0スタートか1スタート。C言語で生まれ育ったぼくは当然0スタート派。とにかく、電車が来るまでのあいだ、毎朝ぼくは37×13を計算します。「40×10と40×3を足して~、そこから39を引いて~」とか。ところがある朝、それが37×12になっていました。これはとても面白い。なめとこ山の熊のことなら面白い。面白い面白いと呟きつつ、いまだにぼくはこの世界を疑っています。もちろん、自分の頭は常に疑っています。

在宅勤務をしているとき、二階に上がるのが面倒くさくなり、最近は一階で仕事をしています。そうすると、窓の外にさまざまな小鳥たちが来るのが見えます。とはいえこの時期になるといつも来るのはヒヨくらい。そのうちの一羽は、窓枠の外にとまり、窓の中を覗き込んできます。それがとてもかわいい。何か言いたいことがあるのか、コンコンガラスを叩いてくることもあります。ところで、ヒヨドリって英語だとBrown-eared bulbulっていうんですね。ブルブル。

Brown-eared bulbul

昨日、昨年書いた論文がようやく公開されました。といってもこれたぶんその研究会の会員でないと読めないやつなのですが、そうとう面白いです。自画自賛。次に出す本のベースになるものです。そんな風に広告しつつ、いまだに原稿のとりまとめに苦労しています。でも、つらい苦労ではありません。当たり前ですね。好きでやっているのだから。きっと良い本になるでしょう。きょうはきょうで、ありがたいことに書評の依頼がありました。ほんとうにありがたいことです。

あとは……。何かものすごく面白くてげらげら笑ったことがあったのですが、忘れてしまいました。でも、忘れても、笑っていたぼくは確かに存在していたのだし、存在したその軌跡の先にいま・ここがあるわけだし、それで良いのです。そもそも、だいたいいつでもげらげら笑っている。そんな感じです。

確信

いま年末調整をしているのですが、でもって本当に大変なところはすべて会計事務所にお願いをしているのですが、しかしぼくはこういう作業が滅茶苦茶苦手で、法人を作ってから今回で二回目とはいえ何が何だか混乱したまま資料を探したり作ったりしています。けれども何より分からないのは、自分が何で食べているのかということです。もちろん、表面的にはプログラマとしての収入があって、あとはやればやるだけ赤字になる非常勤があって(赤字になるというのは、仕事をわざわざ休んで時間単価の低い講義をしたり、そもそも無給の時間で準備をしたりするからです)、だから数値的にはまあ分かります。でも感覚的に全然分からない。どのようにしてそれが可能なのかというよりも、なぜそれが可能なのか。そして分からないという感覚の方が恐らく正しくて、ぼくはとことん偶然に助けられて、いま、偶々食べることができているに過ぎないのだなと思うのです。いつ終わっても不思議はない偶然。

例えば『愛と栄光への日々』という映画があって、マイケル・J・フォックスとジョーン・ジェットが主演している。凄く良い映画なので(名画、という訳ではないが)ぜひ観ていただきたいのですが、それはともかくラストシーン、マイケル・J・フォックスがライブハウスで歌うのです。これが本当に上手いんですよ。ただテクニックがあるとかいうことではなく、ああ、歌っているなあという。マイケル・J・フォックスはシリアスな演技が素晴らしい。これぼくの逆鱗スイッチなのですが、マイケル・J・フォックスのシリアス演技を批判するひとって何故か居るんですよね。ぼくはね、そういう人はね、地獄に堕ちるべきだと思うんだけどね。まあともかく、『カジュアリティーズ』、『ブライトライツ・ビッグシティ』、そしてこの『愛と栄光への日々』、ぜひ観てください。ただ邦題は酷いですね。『愛と栄光への日々』の原題は『Light Of Day』で絶対このままが良いし、『ブライトライツ』なんて正確には『再会の街/ブライトライツ・ビッグシティ』ですよ。「再会の街」どっから出てきたんだ。

で、ライブの話に戻しますが、彼が歌っている途中で姉役のジョーン・ジェットが現れて一緒に歌い始め、やがて彼女がメインで歌う。これが凄まじいパワーを感じさせるのです。マイケル・J・フォックスの歌もギターも良いんですよ。それは全然変わらない。でもジョーン・ジェットが一声出した瞬間、全然別のものだというのが分かる。マイケル・J・フォックスの場合は、彼が歌っている。それが凄く良い。でもジョーン・ジェットの場合は、そこに歌が在るんです。

ちょっと何を言っているか、例によって分からないかもしれませんが、ぼくにとってはこれがプロの在り方、スタイルとかではなくて存在そのもののことですけれども、それなんです。そして翻って自分自身を眺めてみると、全然、いかなるジャンルにおいてもそんな力は持っていない。要するにそれはぼくが凡人だという当たり前の事実を示しているに過ぎないのですが、でもそれだけではない。いや、というより、やっぱり自分がいま何とか生きていられるのが、ナイーヴな意味でではなくて、もっと恐ろしい意味で、ただ偶然に救われているからに過ぎないということ。それがジョーン・ジェットの歌によって逆照射される。

もしあれだけ歌えたら、それは当然才能とか天才とか運とか本人の努力とか人間性とか、そんなことはどうでもいいんです、とにかくあれだけ歌えたら、確かにそこには固有性を帯びた価値が生まれる。じゃあそれで食べていけるのかといえば、それはそれでそんな保証はどこにもありませんよ。もちろんです。だけれど、それなら余計にぼくはどうなるのか。卑下しているのではなく純然たる事実として、凡人たるぼくは置き換え可能でしかないのだから。悩んでいるとかではないです。そんな話ではない。本当に置き換え可能なものは自分のことで悩んだりはしません。だから繰り返すけれどもナイーブな意味ではまったくなくて、ただただ偶然生き残っているに過ぎないという事実そのもの、その圧倒的な確信ということです。

最初の、結局中退した大学で偶然プログラミング実習の講義に出て、ぼくがまじめに受けたのってそれだけだと思うのですが、それがなかったら間違いなく、これは心底間違いなく、ぼくはとっくにこの世界から退場していたと思います。にもかかわらず別段プログラミングの才能があるということでもなくて、特に仕事で要求される能力についていえば平々凡々というところ。2、3秒鍛えれば、誰だってできる仕事です。

ときおり、誰かさんたちが自分を規定する言葉を聞くと、うーん、どうなのかなと思います。何でも良いですが理系とか文系とかあるいは職業とか肩書とか。でも、たぶんそこにあまり意味はなくて、だって天才ではないのですから、そのレベルであれば、ぼくらは何だってできるはずです。傲岸なんだか謙虚なんだか分かりませんが。その程度でしかないし、だから明日をも知れないし、だから自由なのかもしれません。そう、callingなんてあったら、それこそ大変です。

ただそれはそれとして、自分で自分に出している給与明細を眺めつつ、こんなんで明日も食べていられるのかしらと、やっぱりそれは、いつでもまったく確信がありません。

まったく使っていなかったinstagramをやめて、blueskyを始めました。個人的なことはいっさいポストしなくて、ただ写真と本の短い紹介だけ。そもそもぼくは、固有であることを目指そうとする騒音にまみれたSNSって嫌いなのです。偏屈。でもまあ、置き換え可能であることを知っていれば、それはそれで、なかなか静かで良いのではないでしょうか。

おおやま どりむね

とある学会の研究大会の、そのまた部会みたいなものに参加してきました。といってもぼくはもうその学会を退会するつもりですし何の関心もないのですが、義理とか何とか、ぼくのようなすべてからドロップアウトした人間でもそういったものがあるのです。けれどもひさしぶりにもう出来上がってしまった〝研究者〟と名乗る人びとを眺めてみると(といってもオンラインで参加したのでモニタ越しにですが)、これはやはりそうとうまずいよね、と思わざるを得ません。何やら思想とか歴史とか社会とか、まあ何でもいいのですけれどもそういうものごとについて語っているらしい。けれども一歩引いて見てみると、めちゃくちゃ狭い世界で視野狭窄に陥ったまま下らないことを独善的に喋っている。いやそれリアルの世界と何の関係があるのさ、と、どうしても考えてしまいます。そしてまたとある学会誌を眺めていたら、またまた「今後の課題である」が結語の論文もどきがある。前回と同じ研究者もどきによる論文もどき。業績稼ぎか何か知りませんが、もう勘弁してほしいと悲鳴を上げたくなります。いくらゲームといっても、ルールは分かっているといっても、これはあまりに酷すぎるし、醜すぎます。

ちょっと何を言っているのか伝わらないかもしれませんが、これじゃあ(極めて強い意味で)人文学不要論も出てくるよなあと嘆息せざるを得ないものばかりが目に付くのです。そしてそれに対して怒っているとか呆れているとかではなくて、ただただ薄気味が悪いのです。きみ、ほんとうに疑問に思わないの? そうか疑問に思わないんだ……、と。でも、幸いなことにぼくは別段そういった世界に属してはいないし、囚われてもいない。要するにそれはルールの世界で、暇つぶしには良いけれど、それ以上の意味はない世界です。あまりのひどさにびっくりしたけれど、よく考えてみるとこれ俺と何の関係もないな、みたいな。それを思い出しただけでも意味はあったのかもしれません。

それにしても不思議です。ぼくは自分がほんとうに言葉を使えているのかどうか、昔から現在に至るまで常に不安なままでいます。不安というよりも根源的な、強力な疑いです。これは少なくとも研究者には伝わったことが一度もないのですが(まあ当たり前ではあるのですが)、ぼくが使っているものが言葉だと思っているのはぼくだけで、外から見たら完全に異言になっているのではないかということ。だけれども言葉というのは要するにぼくが見ている世界の表現ですから、つまり端的にいえばこれは、ぼくはこの世界に在るのか? という疑問です。だから時折どうやらぼくの言葉が誰かに伝わっているということをふいに実感することがあると、それは途轍もない安心感につながります。それは人とつながっているとか、そんなことではなくて、どうやらぼくは確かにここに在るらしいという存在論的な確信のお話です。カエルも、トカゲも、雲も石ころも在るところにぼくも在るということ。

ところがどっこい、というのも変ですが、自信ありげに偉そうに何かの音を垂れ流す、人文学者を名乗る彼ら/彼女らの言葉とやらを、ぼくは実際問題何も理解できません。いえ繰り返しますがルールは分かるし、ゲームとしては理解できますよ。莫迦々々しいけれど。でも言葉としては分からない。にもかかわらずその人たちはここに在るかどうかを疑ってはいないようだし、恐らくこんな話をしても伝わりもしないでしょう。あるいはまったく違う形で誤解され共感さえされるかもしれません、もっと悪いことには。

そういったホラーじみたもの。基本的には低コストで体験できるエンターテイメントかもしれませんが、やっぱりこれ、もっともやばいホラーそのものです。

仕事の行き帰りで岩波文庫『新約聖書外典 ナグ・ハマディ文書抄』所収の「ユダの福音書」を読んだのですが、これがなかなか面白いのです。グノーシス派の影響を受けたもので、イエスの最後、ユダの裏切りのシーンの持つ意味が完全に逆転して描かれています。ラストなど本当に文学的にも美しい。

そして彼らは、ユダのもとに行き、彼に言った。「あなたはここで何をしているのか。あなたはイエスの弟子だ」。/そして彼は、彼らの望み通りに彼らに答えた。/そしてユダは、お金を受け取り、彼を彼らに引き渡した。

『新約聖書外典 ナグ・ハマディ文書抄』新井献他編訳、岩波文庫、2022、p.425

内容的にはまったく異なるのですが、これを読むとどうしても思い出すのが太宰の「駆け込み訴え」です。これは凄まじい熱量と勢いでイエスに対する愛憎があふれ出し、その最後に

「はい、はい。申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。」

『富岳百景 走れメロス 他八篇』太宰治、岩波文庫、1957、p159

と語られる。言うまでもなくこれはオチでびっくりさせようなどという話ではありません。語り手がユダであることは読者にはほとんど冒頭から分かっている。同じく太宰の「如是我聞」(「如是我聞」こそ人文系研究者は読むべきだと思うし常々そう言っているのですが、まったく伝わらないですね)で、太宰のある作品に対して「オチは分かりきっている」という志賀直哉の(あるいは志賀的な)発言に対して

作品の最後の一行において読者に背負い投げを食わせるのは、あまりいい味のものでもなかろう。

『人間失格 グッドバイ他一篇』太宰治、岩波文庫、1988、p.195

という。それはほんとうにその通りで、結局のところ、太宰が志賀直哉批判として

芸術は試合でないのである。奉仕である。

同書、p.195

と書いているけれども、太宰が為した文学の本質においては恐らく逆で、(ここで太宰の言う)志賀直哉的なものこそが読者受けだけしか残らないようなものであり、ぼくが「ユダの福音書」を読んで「駆け込み訴え」を思い出すのは、その最後の最後で突きつけられる、ああ、俺は俺なんだという恐ろしいまでの自覚であり、自分であることを引き受ける覚悟がここに顕れているからです。それはまさに自分自身を、あるいは神を相手にした「死ぬる思い」の試合として、すべてが一回限りの試合をしてまでしか表現できないものでしょう。

何の話でしたっけ……。あともう一つ「ユダの福音書」で印象深いのは、イエスがとにかく笑っているということです。それは嘲笑的な笑いということではなく、「しようがねえなぁ」とか「分かってねえなぁ」とかいった、何だろう、あるじゃないですか、皆さんが例えば先輩で、腕の悪い後輩がでも一生懸命に何かを手際悪く、あるいは間違った手順でやっているときに、莫迦にするのでも上から目線でもなく……そういう笑いであったり……そんな印象をぼくは受けます。

イエスの笑いということであれば思い出すのは堀田善衛の『路上の人』です。これもまたイエスの笑いを巡る名作なのでぜひ読んでいただきたいです。

そんなこんなで、やはり本を読んでいるとほっとします。最近はますます外に出るのが嫌になってしまって、まあいつも同じことを言っていますが、若いころから統計データを取っていたら確実にそれが見えてくるでしょうし、その近似曲線の行きつく先についてもそろそろ準備をするべき気がしています。明るくしぶとく適当に生き延びる話としてですが。

そう、例えば、この前非常勤の帰りに商店街のお肉屋さんに寄りました。前まで通っていたお肉屋さんは閉業してしまったので、それとは別のお肉屋さん。そこでヤキトリとかを買って会計をしていたら、ふとレジのすぐそばに何かの肉のジャーキーが置いてあるのに気づきました。なかなか可愛いデザインで、これは彼女に買って帰ろう、きっと喜んでくれるであろうなどと思いつつ、「あ、あ、これも追加でお願いします」とお願いをして、にこにこしながら帰りました。でもって彼女に「これあげる!」と渡したら、犬用ジャーキーでした。ふたりでしばらく、ひっくりかえって笑っていました。

おいしそうで可愛いデザインですね。よく見るとラベルに犬の絵があります。えー、でも気づかないよ……。そして裏を見ると……。

いぬじゃーきー おおやまどりむね にくじゃーきー。などと一句読みつつ、そんな感じです。明るく楽しくいい加減に、生き残らなければなりません。

胡乱な不審者の

また歯の話で、このブログもう「歯の物語」で良いんじゃないかと思うのですが、けれどもぼくだけではなく金魚のお話でもあります。今年の夏、金魚の歯が八本生え変わりました。そして主に彼女の観察眼によりそのすべての回収に成功しました。ぼくは子どものころに金魚を飼っており、それは十数年生きたのですが、歯が生え変わるなんて知りませんでした。けれども実際に見てみるとなかなかに立派な歯です。そして歯の定期健診の一週間前、ぼくの歯の詰め物も取れました。セラミックのちいさな欠片。ぼんやり眺めていると、何だか金魚の歯とそっくりです。

金魚は餌をぼりぼり食べ、ぼくもシリアルをバリバリ食べます。生命なんて皆同じようなものですね。

非常勤をしている大学を通り抜けた向こうに通っている歯医者さんがあるので、てくてく歩いていきます。歩いて一時間を切るくらいでしょうか。歯医者が終わればそのままさらに歩いてどこかの駅に出て職場に行きます。行って帰って、その日の移動時間は合計で六時間以上。ルソーのように孤独な散歩者の夢想とはいきませんが、それでも移動しているときにはいろいろなことを考えます。歩いていれば考えることができますし、電車なら本を読むこともできます。ぼくにとっての研究の時間。

けれどもそれ以上に面白いのは道を歩いているときに、電車に乗っているときに目にしたり耳にしたりする何かです。面白い……? そう、それは研究ではないでしょ、となるかもしれませんが、そういう何気ない光景こそ、ずっとあとになって自分の研究の何か漠然とした雰囲気のようなもの(非常に曖昧)になっていくように思うのです。

歯医者さんに行く途中、向こうからご高齢のご夫婦が歩いてきて、すれ違う少し前くらいのところでふたりは道端の花壇の縁のようなところに腰を下ろしました。調子が悪いのかなと思って心配になり、少し注意して(気配を殺しながらオーラセンサーで)様子をうかがったのですが

オーラセンサーってなんだ!? いや嘘じゃなくてぼくは人間の魂の形が見えるのですが、最近魂の形が無いひとが居ることに気がついて、これホラーのお話なんですけれども。いやそれはまた別の機会にお話しするとして、あの、時折ぼくを知っている人からこのブログがリアルのお話だと思われているような形で言及されることがあるのですが、これブログのタイトルの通り物語です。物語って、真実を語るための嘘であり、嘘を語るための真実でもある。

それでオーラセンサーですけれども、それによるとそのご夫婦は「もっと普段から歩かないと足腰弱るよ」「そんなこと言ったってねえ」などと話している。これ単に耳で聞いているだけだな。ともかく、その雰囲気が何だかとても良いんですよ。うまく伝えられないのですが。二人には千葉か埼玉に住んでいる子どもが居て、休みの日にはその家族が車で遊びに来たりする。そんな姿が見えてくる。オーラセンサーです。何かね、ちょっと、嬉しいというのとは違うのですが、少し気持ちが明るくなって歯医者さんに行きました。

最近、ほんとうに酷い論文を読んでしまって、心が落ち込む以上に、自分の正気を保つだけで大変でした。ぼくはいま一応研究者を名乗っていますが、だけれども研究者の社会というかアカデミズムというのか、ともかく、そこで語られていること、というよりもその動機が良く分からなくなることがあります。どうしてこいつらこんなことを喋ったり書いたりしているの? ということ。無論ですが、というよりもほんとうに幸運だったことに、ぼくはまだ若いころに尊敬できる大学教員というものと知り合うことができたので、全面的に否定的にはならないで済んでいます。でも、心底やばいなと感じることが多いし、やばいことに気づいていない人びともまじめにやばいなと思います。しかもそれは伝染性のもので、だからもっと恐怖した方が良い。

自分を守れるのは、結局のところ強迫観念じみた動機、そして文体しかありません。ぼくは最近、といってももうとっくに人生の折り返し地点をはるかに越え、いまさら、あるいは未だにかもしれませんが、自分の文体が目指しているものが分かってきたような気がするのです。それはとにかく個性を消すということです。誰が書いたのか分からないようなフラットな文章。とはいえそれはマニュアル文体ではなく、Chat GPT文体でもなく、客観性を装っている癖に自己愛しかない論文文体でもなく、日常の言葉であり透明な言葉であり……。あと一歩でそこに到達できるような感触があります。でも実際には、そのあと一歩とは、死ぬまで無限に続く一歩の積み重ねなのかもしれません。だから書いて、歩いて、生き続けるしかありません。そして、飽きたらやめます。そのくらいでいいんだと思います。

年を取って良いことの一つは、我慢できないことが増えていくということです。ゲームはいくらでも続けられます。でも、やめていいんです。やめていいし、続けることもできないし、続けられないという自分が在ることが自分で分かってくる。

まあでも、そのことで、極直近に数少ない研究仲間に迷惑をかけてしまって、それはほんとうにいかんよなあと反省しきりです。結局、よいものを書くしかありません。何年も前から同じことしか言っていませんが、よいものを書くしかありません。よいものを書くしかありません。

何だか暗いトーンですね。でもそんなことはなくて、いまは自分にしか見えていない世界を言葉にして誰かに読んでもらう(その可能性が生じる)というのは、とても楽しいことです。「おもろいじゃーん」「まじで」みたいな。先日、自宅に編集者さんが来てくださり、どんな感じで書いていくかについてお話をしました。編集者さんの知識や経験、そしてセンスはとてもありがたいもので、これは売れるものになるでぇ、ビルが建つでぇ、と内面では盛り上がります。でも編集者さんにお出ししたコーヒーが(彼は最初紅茶を所望していたのにぼくがわざわざコーヒーを勧めてしまった)めちゃくちゃ薄くて、アメリカ―ン! みたいな感じで、それから数日はダメージで倒れていました。

どのみち社会的にまともな人生は送れそうもありません。だから要するに、結局のところ、よいものを書くしかないのでしょう。

二冊目の本を出します。

ありがたいことに、再び単著を出すことができます。哲学思想系の本を出すにはほんとうに良い出版社に企画が通って、といっても編集の方がとても丁寧に粘り強くサポートしてくださったことで可能になったのであってぼくの力ではないのですが、いずれにせよぼくにとっては望外の機会です。まだ具体的なことについては何も書けないのですが、来年の夏には書店に並ぶかなという感じですので、そのときには、もしよろしければぜひ。

今回の企画は前著『メディオーム』の流れを受けてきっかけを得ることができたもので、それもまたほんとうに有難いことです。あ、でも売れ行き的には……なので、臆面もなく広告します。


われわれは既に「ポストヒューマン」の時代を生きている。にもかかわらず、なぜこれほどまでに現代社会に適応できず、存在することの不安に苦しんでいるのだろうか。この問いを考えることにこそ、技術に依存した楽観主義者の夢想でなく、また反技術主義への逃避でもない、「これからの人間」を語る可能性が残されているのだ――。
気鋭の研究者が現代思想やアートを論じつつ、「他者」と「技術」を媒介として「ポストヒューマン」な人間像を探求する《存在論的メディア論》。

版元ドットコムの紹介文より引用


『メディオーム』はどちらかというと暗いトーンがありました。それはぼくが今世紀最大の悲観主義者だからなのですが、でも暗いからこそ最後の文章が美しく輝いている。名著です。え、お客さんこちらの世界に生まれていらしたんですか? じゃあせっかくなので『メディオーム』読んでいってください、この世に生を受けてこれ読まないで帰ったらモグリですよ、みたいな。いや嘘じゃなくて。

けれども今回の本は、いまの感じではちょっと明るいトーンになる予定です。何でだろう。ぼくはもともとじっと自分の頭のなかで膝を抱えたまま滅びてゆく世界について空想するのが好きで、他方で手を動かして何かを作る、というよりも偶発的に何かが生じるのですが、そういったことも好きでした。今回の本は後者のお話で、作るって、やっぱりどこか楽天的な、ある意味無責任な側面があるのだと思います。うーん、微妙な話なのでちょっと誤解を与えてしまうかもしれませんが(創造するということであれば神林長平の『膚の下』という名著があり、とてもお勧めです)。

子どものころ家のすぐ近所に工場があって、その外に大きなゴミ箱みたいなものがありました。といっても当時のぼくは4~5歳で、だから大きく見えていただけかもしれません。ともかくその中には廃棄されたコンデンサとか何かの基板とかが入っていて、ぼくには無論それが何かなんて分からないのですが、でもそれを手にとっては他の何かの部品とくっつけたりして遊んでいました。結局そういう性質は大学に行って人形劇サークルに入った後まで続くのですが、でもこれぜんぶ嘘の記憶かもしれません。ぼく自身にも嘘か本当か分からない。そもそも4歳くらいの子どもってどのくらいの大きさなんでしょう、ゴミバケツを覗けるのかどうか。だいいち、そんな小さな子供が工場の敷地に入れるのかどうか。だからやっぱり全部嘘かもしれない。でもそんなことはどうでもよくて、というよりも手を動かしながらそういった記憶を作っていくのもテーマの一つで、これ、いったい何のお話なのでしょうか。

いずれにせよ、企画さえ通ってしまえばあとは原稿を書くのみです。既にある程度は書けているのですが、まだまだ、大量にインプットして大量にアウトプットしなければなりません。だけれど、どのみちそれはいつもしていることで、そのインプットとアウトプットの大波を常に濾しつづけるぼくという濾過器に残された何かが、本という形になるのかもしれません。

そのインプットは、例えば他の人の論文とか研究書とかを読むというだけではなくて、いま大量に観ているビデオテープの古い映画とか(これはデジタルデータに置き換えるための作業です)、あるいは美術館に行くこととか、家の掃除をすることとか、長時間電車に揺られて職場に行って基板をいじるとか、それらのすべてを含んだものです。

きょうは、だけれども映画ではなくて父が昔々あるTV番組に出ているのを録画したビデオテープを観ました。生前の父が動いて喋っているのを見るのはとても不思議な気持ちです。気軽に多くの物事を動画で記録できるいまの時代なら、珍しくもないのでしょう。でもぼくらの時代だとそうでもなくて、特に職場の姿なんてなかなか見る機会がありません。やいのやいのと、彼女と二人でその番組を見ながら、ノイズが載り始めているそのビデオテープをデジタル化する。これは、そういった物事全体についての本でもあります。

皆様には何を書くのかまったく不明のままかとは思いますが、本当に面白くなる予定ですので、ご期待ください……。