二つ目の大学に通っていたとき、第二外国語でドイツ語を選択しました。ぼくはどのような言語であっても文法を覚えるのは少しばかり得意でして、これで苦労するということはあまりありません。けれどもみなさんご存知の通り、文法なんてのは言葉を使う上ではあまり役に立たないことが多い。いやそんなことないのかもしれないけれど。ともかく、ぼくは致命的に発音がダメなのです。いまだにLとRの違いが分からない。母音がA、I、U、E、O以外にあるなんて悪夢です。まあ実際には、日本語にも多くの母音があるのかもしれませんが。
そんなこんなでして、語学の授業っていうのはなかなかに苦痛でした。あるとき、英語のspeakingの試験があり、どう考えても俺には無理だと判断したぼくは、コンビニで買ったお酒をぐっと飲んでから試験に臨んだことがあるくらいです。普段は神聖な学び舎で飲酒など言語道断と考えているのですが、ちょっとこのときばかりは酔わなければやっていられなかった。そうか、だから発音が苦手っていうより、発音が苦手な自分をみんなに見られるのが嫌だっていう自分の卑小さが問題なのかもしれませんね。
おっと、そんなことが話したかった訳ではないのです。英語を話すのが苦手なために被った数々の苦難についてはまたいつかお話しするとして、今回はドイツ語のお話でした。その大学ではドイツ語を受講する学生があまり多くなく、第二外国語の必修単位を埋めてしまった後、さらに特講まで進む生徒となるとまず居ません。ぼくのときもそうでして、前期後期の一年間、先生と二人きりでゲーテの『詩と真実』の原典訳をするというとても贅沢な時間を過ごすことができました。会話の授業で先生と二人きりなんていったら失禁ものですが、翻訳であればこれは楽しい。他の生徒がいないので自分のペースで、自分の文体で訳すことができます(本当はこれはあまり良くなくて、翻訳は何人もの生徒で互いに批評しあいながらやる方が、より完成度の高いものができるのですが)。
先生は初老の女性で、学問に関しては極めて真剣かつオープンな方でした。そう言えば、他の大学に通っていた相棒も何故かたまに遊びに来ては、一緒に講義を受けたりもしました。こんな話をするつもりでもなかったのだけれど、良い思い出だからか、ついつい書いてしまった。
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今回のお話はドイツ語のWeltschmerzについてです。Weltは世界、Schmerzは肉体的あるいは精神的な苦痛を意味します。すなわち、直訳するとWeltschmerzは「世界苦」となります。世界苦。何やら大仰な雰囲気ですが、実際にはどんな意味なのでしょうか。早速辞書を引いてみましょう。マイスター独和辞典によると、
世界苦、厭世観。
だそうです。ちょっとこれ、不思議ではないでしょうか。「世界苦」というと、あり得ざる重荷を一身に背負うアトラスの神話を思い浮かべます。あるいは『人間の土地』(サン・テグジュペリ著、堀口大學訳、新潮文庫)のラストにおいて、電車の中で折り重なって眠る労働者たちを見て彼が漏らす内的独白、
彼らは、すこしも自分たちの運命に悩んでいはしない。いまぼくを悩ますのは、慈悲心ではない。永久にたえず破れつづける傷口のために悲しもうというのでもない。その傷口をもつ者は感じないのだ。この場合、そこなわれる者、傷つく者は、個人ではなく、人類とでもいうような、何者かだ。
同書、p.248
を思い浮かべても良いかもしれません。あるいはまた、『悪魔と神』(サルトル、生島遼一訳、新潮文庫)のラストにおけるゲッツの独白、
おれは心ならずも指揮をとる。だが、けっして途中ではやめぬ。おれを信じろ、この戦いを勝つ機会が一つあれば、おれはかならず勝つ。[中略]しゃべるな。ゆけ。[中略]これから人間の支配がはじまるのだ。美しい門出だ。さあ、ナスチ、おれは屠殺者と死刑執行人になろう。[中略]心配するな。おれは途中で、まいりやせん。それ以外に愛し方がないから、おれはあの連中をおびえさせるのだ。ほかに服従しようがないから、命令するのだ。このほかに、みんなとともにいるしか仕方がないから、おれは頭上のあのからっぽの天を相手に孤独にとどまるのだ。なすべきこの戦いがある。おれはやるつもりだ。
同書、p.204
を想起することも可能でしょう。人類、世界、あるいは歴史という、総体としての何かが傷つくのを感じざるを得ないある一人の人間の苦悩。それは高慢ではあるかもしれませんが、しかし同時に美しく、決して損ねられない誇りに満ちたものでもあります。
一方、「厭世観」というと、世界を放り出してしまったアトラスというか何というか、これはちょっと身も蓋もない感じです。もう俺は嫌だよ、家に篭って外の世界とは縁を切るよ、という雰囲気ですね。「世界苦」とはまったく逆のベクトルを持っている気がします。「世界苦」においては存在した、人類の傷そのものを我が身に受け、それでもなおかつ運命に向かって立ち向かい一歩踏み出す人間の、神にも勝る悲劇的なまでの気高さ、そういったものが、「厭世観」ではむしろ誰でも良い誰かさんのただ内側に篭ってしまっている。
もちろん、どちらが良い悪い、という話ではありません。が、何とも言えずに不思議な言葉です。種明かしをしてしまうと、これは『ホテル・ニューハンプシャー』(ジョン・アーヴィング著、中野圭二訳、新潮文庫)における、というより、アーヴィングにおけるテーマの一つなのです。
リリーの世界苦、とフランクはのちにそれを呼ぶようになった。「おれたち他の人間にも悩みはある」フランクは言う。「おれたちにも悲しみはあるが、ただの普通の悩みや苦しみだ。ところがリリーのは、本当の世界苦だよ。普通〝厭世〟と翻訳されるけど、それはまちがっている」フランクはぼくたちに講釈をした。「リリーが抱いている気持ちは、そんななまやさしいものじゃない。リリーのヴェルトシュメルツは〝世界の痛み〟みたいなもんなんだ。文字通りには〝世界〟――それがヴェルトだ――と〝痛み〟、シュメルツというのはそういうことだ。苦痛、真の痛みだよ。リリーが持っているのは、世界の痛みだ」フランクは誇らしげに言った。
同書、p.53
Weltschmerzという語の持つ本質を見事に表した文章だと思います。そんなこんなで、『人間の土地』、『悪魔と神』、『ホテル・ニューハンプシャー』はすべて名著なのでお勧めです。