[アーカイブ]何かを考えるときに留意する三つのポイント(2009/03/23)

これは博士課程に進んだばっかりのころの投稿です。いま見ると青臭い気もしますが、でも、愛がなくちゃ研究できないよね、というのはいまでも正しいと思っています。あと、途中で挙げている『ラディカル・オーラル・ヒストリー』については こちらのノートの記事 で紹介しているので、良かったらお読みください。本当に良い本です。

ぼくはいま環境思想系の研究室に所属していまして、最近は共生倫理にかなり重点を置いているのですが、まあ基本的な関心は変わりません。共生倫理って言ってもやっていることは凄く単純で、「みんなで仲良く暮らすにはどうしたら良いの?」っていうことを考えるわけです。その上で、中心テーマは環境思想ですから、その「みんな」の中に動物や植物や自然そのもの、もっと言ってしまえば何十万光年彼方の星とか、そういったものをどうやって組み込んでいけるかな、ということも考えています。

で、そういったことをうだうだ考えるときに、いつも気をつけていることが三つあります。きょうはそのことについて簡単に書いてみます。

第一は「正当性の問題」。一時期「クレオール性」や「ブリコラージュ」とか流行りましたよね。けれども安易にそんなことを言ってしまうとちょっとまずい。植民地支配の下で苦しんできた人びとに対して、ぼくらはやはりどうしても先進国側の立場から物事を見てしまっている。でもってそのぼくらが、例えばそういった文化的支配を受けた人びとを見て、彼ら/彼女らが支配者側の文化を積極的に受容して、自分たちの文化を変容させながらもしたたかに生き延びてきた面もあるんだよ、と、そう語るとします。それは確かにそういった面もあるかもしれないし、また単に彼ら/彼女らを弱者として語ってきた(それは結局コロニアルな見方と表裏一体です)世界観に対するアンチテーゼとしては有効だったかもしれない。でも、ぼくらがどういった立場からそれを語るのかということに対する十分な批判的内省を伴わないのであれば、それは「現実と遊離した「弱者」のロマン化やファンタジー化へとつながっていく危険性」(『現代アフリカの社会変動』、宮本正興編、人文書院)を持ってしまうでしょう。あるいはまた、先進国に住むぼくらが環境保護を訴えるときに、一昔前の世界とか途上国とかあるいは田舎の生活をある種の理想像として持ち出してくる。もちろんそこまで単純な主張はそうそう見ませんが、結局本質的にはそうじゃない? みたいな論文っていうのはいまだに結構あるんです。けれども、じゃあ途上国に残されている自然と調和する生活とか、それを生かすような先住民の知恵とか、それは言説としては何か格好良いし、正しいことを言っているっぽいけれど、でも彼ら/彼女らの中にだって、自然なんかぶっ壊してクーラーが欲しいとか、そう思っている人はたくさんいるはずですよね。で、そういった人びとに対して、じゃあぼくらはどんな立場から環境保護を語るのか、彼ら/彼女らにそれを強要する権利があるのか、いやそもそも語る権利があるのか、ということに注意しなければならない。そうしてもちろん、ここでぼくは気軽に「彼ら/彼女ら」とか「ぼくら」とか言っていますが、それも危ないですよね。それっていったい誰なんでしょう。「きみ」について「きみ」が語るのと、「きみ」について「私」が語るのとを同列に論じることもできません。要は何かを語る際に、「誰が」「誰に対して」語るのか、つまり語る位置の問題に鋭敏でなければ、それは言説の暴力になってしまうということです。これについては『ラディカル・オーラル・ヒストリー』っていう素晴らしい本があって、これはとても読みやすいですから、皆さんにもぜひお勧めしたい。時間ができたらレビューしようと思っていますけれども。本当に良い本です。

第二には、「実効性の問題」。どんなに立派なことを言ったって、それが現実に可能でなければ意味がないですよね。もちろん理想を提示するっていうのは大事だけれど、それだけで終わることに対して無批判的であってはならない。例えばどこかの国で行われている虐殺とか、あるいは紛争を直ちに止めよ! と、そう主張したとします。それが仮に「正当性の問題」をクリアしていたとしても(とは言え、ぼく自身あらゆる暴力に反対する立場にいますが、しかし具体的な個々の事例に対して、ある主張が完全に正当かどうかというのは意外に難しい問題です)、では「戦争反対」を叫ぶその主張がどこまで実効性を伴っているのか。伴っていないことに対して無批判であるのなら、それは単に自己満足に過ぎません。ちょっと念を押しますが、そういった主張自体を批判しているのではないです。立派なことだと思います。ただ、それが単に人間の善性とかに期待するだけで終わるのではなくて、この現実社会に対して何らかの働きかけをし得るその保証を、ぼくらは全力で求めなければならないと、少なくともぼくは思っているということです。だから何かの主張があったとき、それって本当に世界を変えられるの? という点をぼくは考えます。それに対して「いや、みんなで力を合わせれば〜云々」などという返事が返ってくるのであれば、個人的にはちょっとな、となります。みんなって誰だよ、何故、どのようにそれをみんなに共有させられるんだよ、と、結局正当性と実効性の問題をクリアできなくなってしまう。もちろんそれが悪いとは思わないし、個人の信条としては素晴らしいと思うけれど、論になっていない。でもじゃあ実効性があるなら良いのかって言えば、もちろんそんなことはない。排出権取引なんて見ると、あれは確かにビジネスですから、実効性はあるかもしれない。でも正当かどうかって訊かれたら、ぼくは凄く疑問だなあなどと思ってしまうのです。ぼく自身、修士時代は環境経済学をやっていて、ゲーム論で環境保全をみたいな論文書いていましたからあんまり言えないんですけれど、でもだからこそ、あれはやっぱり(倫理的な)正当性はないよなあ、と感じるのです。要は経済活動でしょ、と。その結果環境保全が出来たとしても、じゃあ逆の方向性でお金儲けができるならみんなそっちへ行くだけじゃないですか。

だから、この「正当性の問題」と「実効性の問題」の双方をクリアするような、まあクリアできなくても、少なくともそれを意識して論文を書かないといけないなあ、と個人的には感じています。これは実際はぜんぜん難しいことではなくて、要は何かを書いたり考えたりしたときに、「お前が言うな!」とか「口先だけかよ!」と、自分自身に突っ込みを入れることを忘れないようにしないとね、ということです。

で、最後の第三ですけれども、これはいちばん簡単で同時にいちばん難しいのですが、愛がなくちゃね、ということです。これはとても大切で、研究者としての情熱は凄くあるという人でも、その対象に対する愛がぜんぜんない場合がしばしばあります。もちろん、研究に対する情熱さえなかったら論外です。けれど何よりも、そもそも「対象」なんて線引きすら乗り越える、あらゆる存在に対する愛がないのだったら、そもそもぼくらは研究などするべきではないし、できないと思います。研究っていうのはあくまで手段であって、目的ではない。目的は愛です。そうでないのなら、そりゃテロリストの論理ですよ(テロリストという言葉も難しいですが)。ただ、じゃあその愛って何なのさというとこれはこれでまた難しくて、少なくともそれは「愛してるー!」みたいな甘っちょろいことを指しているのではない。でも愛っていうものを定義しようとすると、必要条件ばかり出てくるんですね。十分条件はまったく見えない。いやこれは見えてしまったら問題で、「こうこうすれば愛だよ」なんて言われたら、それは人間に対する重大な冒涜だとぼくは思う。俺の魂をマニュアル化するな! みたいな。だからいつだって手探りですけれど、でも本能的には分かっている。それを信じて、いつも忘れないようにしないといけないなあと思っています。

当然ですが、これは一般的に言えることではまったくなくて、単にぼくが自分の論文を書くときに、そうでなくても何かを考えるときにいつも気をつけるようにしていることに過ぎません。極端なことは間違いない。けれどもまあ、ぼくは結構、自分のこういうスタンスを気に入っているのです。