[アーカイブ]シグナル・コミュニケーション(2009/04/13)

きょうは今年度初ゼミでして、ゼミのあとに打ち上げがあったのですが、精神的に疲れきってしまったので参加は取りやめました。けれども相棒と落ち合って夕食を食べ、そのあとのんびり大学へ戻ってきて、少し復活。というわけで、きょうはひさしぶりに、かどうかは分りませんが、怪しい話をします。たまにこういう怪しげな話をしておかないと、何となく、ぼくが常識人で優しい人間だと思われてしまうのではないかという強迫観念があるのです。いや実際のぼくは極めて常識人で心優しい人間ですけれども。

何かこう、導入部分っていうかイントロの話をしようと思ったのですが、やっぱり疲れているのでいきなり本題に入ります。

人間っていうのはですね(いきなり大上段に構えました)、ただ何気なく突っ立っているだけでも、大量のシグナルを発しているんですね。っていうか垂れ流している。っていうかもうこれは噴出している。どばーっ!! みたいに。そうして、ぼくはこのシグナルを、けっこう気にしてしまうのです。そのひとが意識していようがいまいが、シグナルはまず嘘をつかない。このレベルで嘘をつける人間ってそうはいません。シグナルって言うとちょっとぴんと来ないかもしれませんが、要するに、そのひとのちょっとした仕草や言葉遣い、表情などですね。これぼくが勝手にそう名づけているだけです。

そうだなあ、例えばですね、雨が降りそうか降った後かの場合を考えましょう。多くのひとが傘を手にして歩いていますよね。で、そういうときに傘の先端を、手の振りに合わせて後に突き出すようにしながら歩くひとって結構多いですよね。あれもひとつのシグナルです。そうして当然、傘を持っている手を動かさないで、先端をまっすぐ下に向けたまま歩くのもシグナル。ささやかなことなんだけれど、その一点でそのひとの魂の全体像(魂っていうのは途轍もない情報量を持っているものですから、当然その全体像も巨大なものになるのですが)が露わになってしまう。これ、言葉で言うと、「ああ、こいつは後に子供が走りこんできた場合でも、平気で眼を突き刺すつもりでいるか、そんなことにさえ想像力が働かないのか、あるいはそんなことを注意してくれる友人のひとりさえ持たなかったのか、あるいはそのすべてか」と判断されるという、ただそれだけの話になってしまうのですが、しかしそうではない。もっと大変で恐ろしい話です。そのひとの生きてきた、生きるであろうすべての一瞬一瞬が、傘の持ち方のひとつに焦点を結んで、ぼくらの目にはっきりとその真の姿を明かしてしまっている。

そうして、そういったシグナルを、ぼくらは毎瞬毎瞬、無数に発している。視線や声の出し方や笑い方、ひととすれ違うときの重心の移動、相手に返答するときのミリ秒オーダーでのタイミングのずれ、そういったあらゆるものが、ぼくらの真の姿をまわりに伝えるシグナルになっている。

それは自分の魂の在り方を開示しているだけでなく、互いにシグナルを発し、かつ受け取ることにより、そこではコミュニケーションも行われています。そのシグナルに対する鋭敏さもまた、シグナルに反応するというシグナルを通して見ることができる。もちろん、繰り返しますがこのシグナルの用法というのはぼくの勝手なもので、他のひとからするとまた別の言い方、感じ方をしているでしょう。けれども世界の中で自己を位置づけることに意識的である人間なら、自然に行っているはずのことだとぼくは思っています。ですから、それに対して敏感である者同士であれば、その表現が異なっていても互いのシグナルを翻訳し、理解することができる。

ぼくがいま通っている地域は自転車のマナーが極めて悪くて、まあこれはいまの時代どこの地域でも同じかもしれませんが、「夜に」「無灯火で」「ヘッドフォンで音楽を聴きつつ」「携帯を眺めつつ」「ノーブレーキで」カーブを曲がってくる連中が非常に多い。こういうひとたちは、もう無茶苦茶シグナルを垂れ流しまくっているんですね。目も眩まんばかりに。けれども他人のシグナルを受信することに関しては完全に能力が欠如しています。これは驚くべきことですし、本当に恐怖です。世界に溢れるシグナルをすべて弾き返し、ただひたすら己しか存在しない、ある種原色的なシグナルを暴力的に放出し続けている。

少なくともぼくは、世界に溢れるシグナルをきちんと受信したいし、確かに受け取っているよ、あなたがそこにいることにぼくは気づいているよというシグナルを、世界に対して送信していたい。それは当たり前だけれど、社会のルールを守ろうとかそんな下らない話ではなくて、無限のシグナルに溢れる世界の中で、己が己であり、確かに己という唯一無二の装置を通してシグナルの情報処理をしているという確信を得るための戦いなんです。ただ単に、他者のことなど知ったことではないと、あるいはそもそも知るだけの想像力すら持たないが故なのか、己のシグナルを吐き出し続ける、それが自分が自分であることだなどと勘違いしている人間を見ると、ぼくは本当にうんざりするのです。

そんなこんなで、きょうはちょっと疲れてしまいました。大学に、ひさしぶりにひとが溢れていたからかな。けれども、相棒とふたりで、彼女との間に穏やかなシグナルの交流があるのを感じながら歩いていると、少しだけ元気が戻ってくるのです。自分を調律し直す感じと言ったら良いでしょうか。疲れていると気がつかないのですが、そういうときって、ぼく自身が世界のシグナルに対して目を閉じてしまっているのです。そう、シグナルっていうのは、何も人間だけが発しているものではなくて、存在するすべてのものが発してるんです。道端の石ころだって百万光年先の恒星だって。相棒とのんびり歩いているうちに、無数のシグナルがまた目に入ってきて、草や木や虫や街灯や壁の傷や窓の明りや星の光が発する無音の声に、ぼくはほっとするのです。

コミュニケーションなんて簡単なんだけれど、でも本当は、なかなか難しくて、けれどもやっぱり、とてもシンプルなことなんですよね。