The days of 136 degC and 5km/h

CPU温度が136℃になっていました。あまりに騒音が凄いので切っていたファンのひとつを復活させたのですが、案の定うるさい。うるさいというより、もはや周囲の音が何も聴こえない。まるでマシンのなかで、三百人の反抗期の若人が暴走行為に励んでいるようです。しかもそんなに反社会的活動に勤しんでいるにもかかわらず、あいかわらずの136℃。しかし考えてみれば当たり前でして、そもそも連中の乗っているバイクなんてものは市場経済システムのなかで生産された、資本主義のひとつの成果であり象徴のようなものです。そんなんできみ、反体制、反社会を気取るのか、莫迦ではないのか? という話でして、だからCPUの冷却効果だって望めるはずがありません。ぼくは本当に嫌いなんですよ。与えられたもので、与えられた場所で遊んでいるだけなのに、それがシステムへの反抗だ、みたいにのほほんと思い込んでいる連中が。走れよ、自分の足で。お前たちが見下している大人たちが作った社会でこそ初めて生産可能となった靴を履かず、服を着ず、裸で、洗っていない髪を振り乱し、言葉でない言葉を叫びつつ舗装された道路ではないどこかを走れよ。とそこまでいってしまえば、もはやそれは判りやすく二元化された世界観を超え、要するに生きること、それ自体が顕れてきます。CPUの冷却効果です。

ちょっと怒りますけれども、だからさっきからCPUが136℃のままなんですけれども、要するにそれは単なる通過儀礼以上のものではなく、それがまさに「通過」である以上、彼ら/彼女らは最初から社会に対する根源的かつ本質的な「反」など欠片も持ち合わせてはいなかった。本当の「反」というのは、ただの反発などではなく、反れ、逸脱し、どこかへ行ってしまったきり行方不明となってしまうようなものでしかあり得ません。

そういうわけで、話はまったくつながっていないのですが、ぼくは超のつく安全運転主義者です。超安全ウンテニスト。平均的な人間の歩行速度である5km/h以上では自転車を運転しません。速度を出すのは嫌い。そんなんで「格好良い自分を演出」とか「社会のルールに逆らう俺格好良い」とか、本当に阿呆ではないでしょうか。もうこの時点で、相棒に「悪い言葉遣いをしたらダメ、絶対!」と容赦ない制裁を喰らっているところですが、安っぽい反抗ごっこに対する憎しみというのは我ながら不思議なほど根深く強くありまして困ったものです。けれども、金属の塊である自転車と自分の肉体だけで、かなりの重量になります。それで5km/hというのは、まあ、予想外の何かに遭遇したときに対応可能なぎりぎりの範囲です。ぼくは目は悪いのですが動体視力は良いほうなので、道を這う蟻んこだって数mm単位のあざやかなハンドル捌きで避けて走れるレベルです。

けれども土砂降りに遭遇したのです。こういうときはさすがに困ります。さっさと大学へ戻りたい。けれど雨のときこそ用心しなければなりません。みんなヒャーなんていいながら速度を上げて顔は下げて突っ込んでくる。危ないですね。ぼくが最初にいた大学は自転車のマナーがあまりにひどく、学生たちの通り道に「自転車はマナー良く乗りましょう」とかいう看板が立てかけてある。恥ですね。恥辱です。おっとCPUの温度が136℃です。さっきから一向に下がらない。だから土砂降りの雨も良いのですが、雨に煙る向うから時速5km/hの自転車が近づいてくる。しかも背筋を伸ばして顔をまっすぐ前に向け、辺りを睥睨しながら近づいてくる。何のホラーだよ、と思いつつも時速5km/hです。ずぶ濡れで、でも何だかひどく愉快です。

ひどく愉快で、ようやくCPUの温度も下がり、マシンの調子も良くなってきたようです。いちおう今日締め切りの論文がありまして、だいたい1万文字+αなのでそれほど分量はないのですが、まだ3000文字程度しか書いていません。大丈夫なのでしょうか。きっと大丈夫です。安っぽい反抗は反吐が出るほど嫌いです。ルールが与えられたのであれば、そのルールの中で、かつルールを逸脱するほどに勝てばよい。判りやすい敵、判りやすい反抗の対象なんて、在るはずもありません。自転車の航行速度は、5km/hで十分です。進路の先にいる小さな虫を避ける極わずかな足捌きに、ぼくにとっての反抗が存在します。

Stay normal

ある日、雑務を片づけるために神保町を歩いていました。土曜日の昼過ぎ、道はなかなかに混んでいます。ぼくは何しろ地味で目立たないという才能の持ち主ですので、どんなに混雑している通りでも、ひとにぶつかることなく、ひとの進路を妨げることなく、空気のように歩いていきます。すると向こうから、何かの圧力のようなものが近づいてくるのに気づきました。人びとがその圧力に押されるように左右に分かれていきます。見れば、夏場であるにもかかわらず、おそらく彼の一切であろう衣服を厚くまとったホームレスの男性が、何やら呟き時折喚きながら歩いているのです。道を往く恋人同士、休日出勤の会社員、あるいは近くの大学の学生たちは、みな目を背けるか露骨に嫌な顔をするかあるいは完全に無視をするか、いずれにせよみごとなまでになめらかに、彼を中心とした空白を作りつつ流れていきます。

良くある光景、といえばそれはその通り。けれども、彼の眼をふと見たとき、そこに浮んでいた世界との断絶に、やはり言葉を失わざるを得ないのです。

言うまでもなく、眼は、受動的であると同時に能動的でもある器官です。それは、ぼくらの魂と世界をつなぐ、もっとも直接的でもっとも透明な通路です。けれども、彼の眼は既に、何も受け取らず何も与えない、ただ真黒に燃え上がる怒りの熾火をその向うに見せる分厚いガラス窓でしかありませんでした。それはとても寂しく悲しい光景です。

けれども、こんな言い方が許されるのであればですが、ぼくは、彼を見やるある人びとの眼に浮ぶ嘲笑、軽蔑、唾棄あるいは侮蔑のほうにこそ、よりいっそう深く徹底した断絶を感じます。

ぼくは、別段ヒューマニストでもモラリストでもありません。むしろ相当に低い人間性を持っていることを自覚しています。他人のことなど、基本的には知ったことではありません。自分にとって大切なひと以外と交流するほど人生に余裕があるわけでも、彼ら/彼女らの苦境に手を貸せるほどの才能を持っているわけでもなく、そもそもそれだけの関心をさえ持ってはいません。

それでも、ぼくは、自分と、異臭を放ち無意識のうちに罵詈雑言を垂れ流しながら歩く彼との間に、原理的な差異などまったくないことを知っています。ぼくはいつでも、容易にそちらに踏みだすことができたし、それは恐らく、いまでも変わらないのです。ぼくはたまたま、鈍感で愚鈍で倣岸で、そしてさらに/にも関わらず友人に恵まれていたに過ぎません。彼に対する侮蔑の視線が、もし自分もまたそうなり得ることへの不安の裏返しとしてではなく純粋な蔑視であるとするのであれば、ぼくはその自らは安全であるという無根拠な自信こそ理解できません。

***

昔、ぼくは本ばかり読んでいるような子どもでした。あまりひとと話すこともなく、いつでも本を通して、その登場人物たちと会話をしていました。特に翻訳文学が好きだったので、気がつけば、どこか翻訳調でしか喋れないような人間になっていました。

それに気づいたのは、ずっとずっと後になってからのことです。あるとき知り合い、そしてすぐにとても大切な友人となったひとに、ぼくの話し方のおかしさ(それは異常さということではなく、可笑しさとしてでしたが)を指摘されたのです。そのひとと話すたびに、ぼくは彼女に、そんな話し方をするひとはいないよ、と笑いながら(これもまた、嘲笑う、ではなく、笑うでしたけれども)言われたものです。

そしてまた、当時のぼくは、ある独特なボディ・ランゲージを使っていました。これもまた、他人とまともにつきあったことがないが故のものだったのかもしれません。いまにして思えば我ながら確かに相当奇妙なものでしたが、そのときのぼくとしては極自然にそうなってしまっていたわけで、やはりそれをそのひとに指摘されるたびに困惑し、笑ってごまかすしかありませんでした。

それはきっと、ある種のリハビリだったのではないかと思うのです。そのひとに根気良く、優しく笑いながら指摘され、ぼくは少しずつ、目立たない、普通の人間になっていきました。

普通というのは、けれども、決してありきたりなことでもありふれたことでもありません。むしろそれは、途轍もない幸運と透徹した意志によってこそ、はじめて可能となるものです。いえ、きっとそれだけはまだ足りず、ぼくらはどれだけ努力をし、注意をしても、容易に普通ではないところへと逸脱していってしまいます。ましてや、自分という立ち位置に安穏とし惰眠を貪るような者には絶対に為し得ることではありません。ぼくらは容易に逸脱し、そしていつか、眼が分厚いガラスの牢獄となり、その向うで永劫の火に燻る魂を閉じ込めることになる。普通であるということはそれだけで奇跡であり、従ってバタイユの言葉を真似ていうのであれば、「ただ生きる、そのためには神であることが必要」なのです。

彼とすれ違い、ほんの数歩進んだとき、ぼくの後を歩いていた若者たちが、口々にその匂いや見た目について、口さがなく罵倒していました。心から楽しそうに。ぼくは少し歩を緩め彼らを先に行かせ、その足下を眺めます。堅く舗装された歩道などどこにもなく、見えるのはただ、綱渡りの綱のように危うく崩れた瓦礫の上を、そうとも気づかず、あるいは決して認めずに歩んでいく彼らの姿です。

そしてもちろん、ぼくの足下もまた、何ら変わるところはありません。

――普通でいるということは、やはり、恐ろしく難しいことだね。ぼくは頭のなかで、いつものように、もうそこでしか会話をすることができない無数の人びとのひとりとなったそのひとに語りかけます。――その話し方、変だよ。あたたかなそのひとの声が、ぼくを、この世界にそっと、つなぎとめてくれます。

弘前旅行

弘前に行ってきました。思いがけずねぷたまつりを見ることもでき、ひさしぶりに、仕事と研究から解放された数日間を過ごすことができたように思います。というのは嘘で、ぼくはお祭りの熱狂というのがどうも苦手でして、でもいまの研究テーマは原初的な共同性とは何かを問うことであって、ではこの群集のなかで独りであると感じるのはなぜかとか、そもそもここに現われているのは本当に共同性なのかとか、結局、いつでも頭のどこかでがりがりがりがり、「なぜ」の歯車が回り続けています。

とはいえ、旅行らしい写真はあまり撮れなかったにせよ、バッテリーが切れるまで写真を撮り、ほんの少し、気持ちに余裕が戻ってきたのを感じます。

ねぷた
30mm、F2.0、1/50秒、ISO400、WB:オート、クリエイティブスタイル:スタンダード

日本基督教団弘前教会
30mm、F2.2、1/60秒、ISO200、WB:オート、クリエイティブスタイル:スタンダード

蓮
60mm、F3.5、1/400秒、ISO200、WB:オート、クリエイティブスタイル:スタンダード

天空と鳥
30mm、F11、1/640秒、ISO200、WB:オート、クリエイティブスタイル:スタンダード

鴎
60mm、F11、1/500秒、ISO200、WB:オート、クリエイティブスタイル:スタンダード

弘前、良いところでした。また来年、訪れようと思っています。

叫ぶ

先日、学部時代の恩師に会いに、自転車に乗って昔通っていた大学へ行ってきました。いま席を残している大学から、ぼくの超安全運転で30分ほどのところです。ひさしぶりに自転車を整備して、のんびり、散歩がてらの訪問です。待ち合わせは、ぼくが最初に通っていた大学。どうもぼくのようにあちこちの大学を流れてきた人生を送っていますと、このような場合に分りやすい表現をするのが難しくなってしまいます。などと書くと本当にそう受けとめられてしまって悲しいのですが、なかなかどうも、レトリックというのは難しいですね。

それはともかく、約束の時間より少しだけ早く到着したので、大学食堂前にあるベンチの脇に自転車を停め、しばらく、ベンチでぼんやりとしていました。背中側には、昔、ぼくらが人形劇をしていた部活棟があります。いまはすべての部屋が暗く、まだ使用しているのかどうかも定かではありません。ぼくは別段、その部活に対しては何の感傷も義理もありません。そもそも感傷を覚えるような人間でさえないのですが、しかしそれでもやはり心にかかるものがあるとすれば、それはあのときあの場所を共有していた誰かさんたちに対してだけであって、抽象的な集団なり歴史なりではない。だから、ぼくらが昔、講義にも出ず(出なかったのはぼくだけですが)日がな一日無意味なお喋りに興じていたあの部屋が死んだような薄暗さに沈んでいるのを見ても、特に何も感じません。

頭痛薬を飲み忘れたので、落ち窪んだ目で虚ろに空を眺め、ベンチにだらしなく凭れて口を開けているぼくを、若い学生たちが胡乱気に眺めながら歩いていきます。彼らが入っていく食堂も、もう、ぼくと相棒がバイトをしていた食堂ではなく、そしてまた大学をやめてからだいぶ経って、友人の披露宴の司会を相棒とふたりでやったときの食堂でもありません。ずいぶんと長い時間が経ったということでしょう。その自覚もないまま、昔はなかった小奇麗な広場の小奇麗なベンチに、死んだように肢体を投げ出しているぼくがいます。

***

最近、叫ぶことがなくなったなと、ふと思いました。じゃあ昔はそんなに叫んでいたのかといえば、実際、ぼくらは子供のころ、些細なことですぐに叫んでいたように思うのです。それは、そのときのぼくらでは言葉として表現できないような、けれど表現せざるを得ないようなナニモノカに出くわしたとき、そしてぼくらは毎日、毎瞬、そういったナニモノカかに出くわしていたのですが、その訳の分らない感動に突き動かされるままに、その衝動そのものが叫びとしてぼくらの口から湧き上がっていたのではないでしょうか。

大人になるにつれ、ぼくらは、そういったナニモノカに「形」を与える術を覚えていきます。それが大人になるということで、それが社会性を持つということです。誰もが共有できる「形」。衝動を衝動として、感動を感動として、誰に伝えようとするのでもない生の衝撃として、叫び声としてそれを発する。そんなことをすれば、ぼくらは普通に、この社会から外れたものにならざるを得ません。そうならないために、ぼくらは自分の心の内側に向け、複雑怪奇な迂回ルートを、解析不能な変換機構を組み上げていきます。そういった緩衝材を経て現われたとき、すでにその原初的な衝撃は、おやおや不思議、規格化され製品化され共有可能な、この社会の構成部品のひとつになっています。

ずいぶん以前の話ですが、キレやすい17歳とやらが社会的な問題となっていたとき(しかしぼくは、それは社会的な虚構に過ぎないとも思っていましたが)、井上ひさしが新聞に書いていたことが印象に残っています。正確には覚えていないのですが、若者たちがキレるのは、自分の感情を「キレる」としてしか表現できないからだ、というものでした。これは卓見だとぼくは思います。キレる17歳が事実かどうかはさておき、人間が自分の感情を自ら分析できないことの危険性は、間違いなくあります。何だか分らない怒り、何だか分らない不安、何だか分らない悲しみ。そういったものも、自己を冷静に客観視し、言葉で切り刻んでいけば、案外、その正体はごくありふれた、つまらない、ささやかなものであることが多いでしょう。そうして、そのように暴かれてしまった何かは、解決はできないにしても、少なくとも他者と共有でき、共感されるものになるかもしれません。

これは、とてもとても大事なことです。言葉の変化を嘆くひとがいますが、恐らく、それ自体は別段問題ではない。若者言葉というのが低俗化する一方だというのは、いずれにせよ、いつの時代にも語られてきたことでしょう。もし問題があるとすれば、若者であれ老人であれ、自分の中に渦巻く光の届かない粘つくうねりを、鋭く切り取り解剖するだけの精緻な刃を持った言葉を持っているかどうか、そこにこそあるはずです。

そして同時に、それでもなお、ぼくらは言葉だけでは自分のなかにあるすべての衝動、名づけようのない混沌、すなわちナニモノカを征服することはできません。そもそもそれは、「征服できないもの」としてのみ定義される定義不可能なものなのです。それはつねに、ぼくらの身体として、ぼくらの魂として、そしてぼくらの素振、誰かに向ける視線、息遣いのなかに在り続けます。

だからこそ、演劇や音楽、あらゆる芸術、人間との関係性、あらゆるものとの唯一、一回限りの無限の関係性をぼくらは求めます。

けれどもそれが社会のなかに現われた瞬間、それは他者と共有可能な、言葉として表現される(自然言語かどうかはともかくとして)商品に置き換わっていってしまいます。

ぼくらは、ぼくらの中心に在り続けるナニモノカを閉じ込めます。閉じ込められないにも関わらず閉じ込め、閉じ込めることによって初めてひととして定義されるぼくらは、従ってつねにその存在それ自体が矛盾に曝され続けています。

***

弾けもしないコントラバスの、調弦もしていない弦を、いつまでもはじき続けること。何を描くべきかも分らないまま真っ白なカンヴァスに叩きつける最初の一筆。

それは、酔って大声を張り上げるのでもなく、カラオケで濁った声を轟かせストレスやらとを発散させることでもなく、仲間内でけたたましく莫迦笑いを響かせることでもありません。

ぼくは昔、仲間たちと一緒にけれど独りで、独りでけれど仲間たちと一緒に、発声練習のふりをして部活棟のベランダから薄暗い木立に向かって叫んでいました。

最後に本気で叫んだのがいつだったのか、もう、思い出すこともできません。

原初の混沌として在り続ける、極身近な、けれどまったくありきたりではない何かに触れるたびに爆発的な官能と喜びに震えるそのナニモノカを解き放 つ。ジェリコの城壁を打ち崩した角笛のように叫び声が魂の鎧を壊し、眩い光が差し込んでくる。

叫ぶこと。そして叫ぶこと。そしてなお、叫ぶこと。

改行とか、お祈りとか。

最近軽いことを書いていないので書きなさいという指令を受けたので書きます。おお、何か電波を受信中みたいで良い文章ですね。

ところで、このブログ、アーカイブを見ると改行が全然反映されていないのです。文字がびっしりつまっている。びっしりつまっているって、いま書いていて鳥肌がたちましたけれど、何だか薄気味の悪い語感です。少なくとも美しいものはびっしりつまったりしない。びっしりつまったオードリー・ヘップバーンなんて在り得ない。自分で何を書いているのか良く分らないのですが大丈夫でしょうか大丈夫です。ともかく、アーカイブにも改行が反映されるようになりました。ちょっとほっとしました。改行がないのって見栄えが悪いですからね。

改行といえば、昔、いまでいうライトノベルの走りみたいなお話を読んだとき、何しろ句点ごとに改行しているのには驚きました。無論、これだって比較の問題でして、古い時代の小説で、時折改行どころか句点もないままどこまでも続いていく文章を見かけますが、あれはあれで辛いと感じてしまう。だからまあ、何が良くて何が悪いということではないのですが、とにかく驚いた。

だってそうだろう、と彼は思った。

改行だらけの空白の本に、その空白に、ぼくらはお金を払っているとでもいうのか?

彼はそう思った。

彼は、そう思ったのだった。

だからといってでは改行なしにどこまでも書いていく、それはそれで読みにくいのも確かで、ここで今回のタイトルの話にずれるのだが、50日ほど前に出した公募に落ちたお知らせが届いており、読めば予想通り不採用で、それ自体に別段ショックは受けはしないのであって、なぜならもともとぼくのようなイレギュラーな経歴を持っている人間がまっとうな公募枠に応募したところで、最初からまっとうな経歴で勝負している連中に敵うはずもなく、敵うと思うとすればそれは自信というよりむしろ現実感覚の喪失に近いように思うし、またそもそもぼくはぼくを落とす連中に対しては例外なく「地獄へ落ちろ」と自転車のスポークを刺すかあるいは「将来俺が偉くなったときには後悔のあまり転げまわって死ぬがいい!」と思うほどには傲岸不遜で唯我独尊なのだがしかし言いたいことはそんなことではなく、そのお知らせの最後に「今後も一層のご活躍をお祈り申し上げます」などと書いてありぼくはそれに激怒したのであってその理由は他でもない、いったいこれを書いた人間は何に対して祈っているのかが分らないからで、祈りとはそんな簡単に口にできる言葉ではないとぼくは思っていて、だからもっと正直になってほしい。

「私どもは正直貴兄の今後の人生には何の関心も責任もございませんが、貴兄が偶然であれコネであれ不正行為によってであれ何らかの公募に通ることがあれば(それが私どもの大学ではないことだけは断言できますが)、ハハッ! 良かったね、くらいには頭の片隅で願っていると申し上げれば嘘になりまして、本当にどうでもいいのです。敬具」

まあそういう訳でして、改行というのはけっこう大事だよね、などと思うのです。個人的にはあまりに改行を多用した文章ばかり読んでいると、思考の持続力というか、息の続く限り論理の海深くに潜る肺活量というか、そういったものが弱まってしまうのではないかという危惧も感じています(改行ばかりの論文が基本的には在り得ないように)。

けれども一方では、短いセンテンスの連なりのみが持ちうる軽やかな飛翔感というのも美しくはある。ま、平凡な結論ですが(何しろ凡庸なこと以外は口にしないという非凡な才能に恵まれているので)、どちらも大事だね、というよりむしろ、表現形式とその内容は不可分であって、俺を表せ、俺を顕せと叫ぶナニモノカにふさわしい形を与えてやるべく、自分のなかに耳を澄ませるしかないのでしょう。

だいぶ無茶苦茶なお話になってしまいましたが、時折こうやってリズムを崩さないと、どうもぼくは陰湿で陰惨な性格の趣くままに書いてしまいがちなのです。というわけで、クラウドリーフさんの今後のますますのご活躍とご健勝をお祈りしつつ、ハハッ! あなかしこ、あなかしこ。

あの日魔法を使っていたきみは

言葉というものは不思議なもので、つまらない使われ方ばかりされてきた言葉というものは、どうしても力を失ってしまいます。魔法、なんていうのもそのひとつですね。けれどもぼくは、この魔法という言葉、案外好きなのです。ですので、すっかり色あせてしまった魔法という言葉に、いまいちど少しだけでも魅力を取り戻させようというのが今回のお話です。

ぼくが初めて魔法とでも呼ぶほかない特別な力を目にしたのは、大学に入ってからすぐのことでした。相棒に出合ってからまだ間もないころ、あれはどこだったでしょうか、都心のどこか地下にある薄暗い喫茶店で、彼女が手の中に小さな、けれど鋭く美しい火花を散らせたのです。

彼女がそれを見せてくれたのは、そのときただ一度だけ。でも本当のことをいえば、いまならぼくも同じことができます。いえ、これを読んでくれている誰にでも、簡単にできることなのです。だけれども、やはりあのときのそれは、魔法というより他はない、特別な輝きを持った何かでした。その一瞬のみに可能であったもの。誰もができて、同時に誰にもできないもの。

あるいは、やはりこれも彼女のお話。ぼくの交友関係の広さが窺われますね。ある日の夕方、ある建物の屋上の縁を、彼女が歩いていました。何の柵もなく、一歩間違えばそのまま墜落するしかないところを、彼女は平気な顔をしてバランスを取りながら、すいすい進んでいきます。高いところが平気なひとであれば、どうということもない話でしょう。けれども、そうではないのです。ただの事実としてエンパイアステートビル(というものが何なのかぼくは知りませんが)の天辺の避雷針の上に片足で立ちクルリと舞ってみせたところで、それは要するに超人的な体術というだけで、魔法ではない。そのときの夕暮れの空の色、風の匂い、遠くから届く子供たちの声。そういったものすべてを含めて、何一つ欠けてはならないその全体として、魔法が完成していました。もちろん、彼女が落ちたら即座に後を追うつもりで、摺り足で奇妙なダンスでも踊るかのように彼女を追跡していたぼくも含めて。

リンギスは、コミュニケーションを透明なコミュニケーションとノイズのコミュニケーションに分けて考えます。前者は合理性によって根拠づけられたコミュニケーション形態を意味します。そこでは、その語られる内容のみが問われ、誰がどのように語るかは問われません。ぼくがいうのであれ、きみがいうのであれ、1+1は2でなければならない、そういったものです。そしてそれ故、そのようなコミュニケーションにおいては、語る者はつねに交換可能な誰かさんでしかありません。

一方、ノイズのコミュニケーションは、誰がどのように語るのかこそが重要であり、何を語るのかには本質的な意味がないようなコミュニケーション形態を意味します。死に逝く誰かの傍でレコーダーが合成音で「ダイジョウブデスヨ」と慰める。そこには恐らく何の救いもないでしょう。けれども、もしそれが、きみにとってかけがえのない誰かを看取るきみ自身の声であれば、そのとき、それが言葉として、文法として破綻していても、そこには置き換え不可能な意味が生まれます。きみが、その場で、そのとき、その相手に語ること。その絶対的な唯一性。

飛躍しているのを承知でいえば、前者を科学、後者を魔術といってもよいかもしれません。

どちらが正しいとか、どちらが大切ということではないのです。そのどちらも、ぼくらが生きるために不可欠な要素です。けれども、現代社会というものは、そして同時にぼくらが大人になるということは、魔法を捨て、科学へと傾斜していく在り方そのものなのかもしれません。この世界に暮らす大人たちで、いまだに強力な魔法を使えるままでいるひとを、ぼくはあまり見かけることがないのです。それはやはり、少しばかり寂しいことのように思えます。

ある日、相棒とぼくは、一緒に街を歩いています。ざわめく雑踏の中、けれど周囲から切り離されたような静寂を、ふと感じます。ぼくらはいつでもそうやって生きてきました。彼女とつないでいる手に少しだけ力をこめ、ぼくはいいます。――ひさしぶりに、また魔法をみせてよ。彼女は、少しおどけて肩をすくめ、――いいよ、と答え、そしてそれきり、何もおきません。ぼくらはそのまま、どこまでも歩いていきます。

たぶん、それ自体で、その全体が、ひとつの魔法なのだと思うのです。

I don’t believe in a hereafter

数日前に学会発表が終わりました。最近は相当に疲労が激しいのですが、それでも、自分にとってそれなりに意味のある発表にはなったと思います。ただ、聴いてくれていた人びとからは「(壇上で)やけに動き回っていた」「ドスが効いていた」「瞳孔が開いていた」などと、発表内容とは関係のないコメントばかりもらいました。

本当は、知的に眼鏡をくいくいとさせながら、理詰めで隙のない論述を淀みなく語りたいのです。けれども現実的には服もぼろっちく髪はぼさぼさ、ついつい興奮してクマのようにうろうろと歩き回り、時折よだれをたらして唸り声をあげつつ鮭を素手で捕まえる。そんな発表ばかりしています。いやさすがに会場に鮭はいなかったけれど。

今回の発表(そしてここ最近の研究)は「死」がテーマです。いえ、もともと博論を書いていたときからそれは隠れたテーマだったのですが、最近ようやく、自分の書きたいように書いてやれ、と思えるようになってきました。ですので、これからしばらくは、真正面から「死」について考えていこうと思っています。「死」それ自体が目的というより、むしろそこから必然として導かれる見知らぬきみとの原初的な共同性こそが目的だというべきかもしれません。

少し話が変わるようですが、ぼくは研究室のほとんどのひとに、このブログのことを知らせていません。もちろん、興味もないブログのことなど、教えられても却って迷惑なだけでしょう。

ただ、そういったことだけではなく、このブログにおいて、ぼくは父の、そしてあるいは別の誰かの死について幾度か書いてきました。それは現実に起きたことというより(そういった側面が逃れようもなくあるにせよ)、このブログのタイトルがまさに「物語」であるように、そのひとの、そしてぼくの人生を語りなおし続けるということを意味しています。

そうして、それは論文においても同様です。どのようなフォーマットを用いるにせよ、言葉以外のどのような表現によるにせよ、あるいはただ道を歩き、呼吸をし、太陽の眩しさに目を眇めるだけであるにせよ、そのようなすべての経路を通じて、誰もが、そのひとにしか語れないかたちで、あるひとつの(けれど無限の様態を持った)物語を物語っています。

とはいえ、やはり、論文は論文であり、ブログはブログです。当然ですが、ぼくは論文に、ぼくが経験してきた幾人かの死について、直接的に書いたりは決してしません。ブログで(やれないことを承知で)やろうとしていることは、要するに、『ピギー・スニードを救う話』でアーヴィングが語っていることです。そこには避けがたく、(物語として)このぼくの経験としての死が現われます。また、それ以外に書くべきなにものもありません。

だけれども、ぼくは自分が書く論文を、いかなる意味においても私的なものとしては読んでもらいたくないのです。いうもの恥ずかしい話ですが、何らかのかたちで自分の経験を正当性の根拠とするようなものは、それは論文ではありません。それが例え隠しようもなく顕れるものだとしても。

そう、それはどうしようもないものとして顕れてしまうのであって、意図的に表現するようなものでも、完全に消し去れるようなものでもない。そのどちらも、魂を込めた、他にどうしようもないからせざるを得なかったものとしての研究ではない。ぼくはそう思います。

と、ここまで書いてふと気づいたのですが、これは結局のところ、物語を書くときにぼくが思っていることと、何も違いがないようです。

哲学出身でもないままに思想系の研究室に進んでしまい、いまにして思えば、きっと客観的な評価が欲しかったのかもしれません。ぼくというひとりの人間の私的な背景から切り離された言葉。

けれども、所詮は無理なお話です。この世界のなかで描かれるぼくらの軌跡は、そのまますべて、物語です。唯一のこのぼくが、唯一のきみに語る、その都度唯一のものとしての物語。

だから、もっと自由に論文を書こうと思います。虚実を織り交ぜ、このぼくという位置からあふれ出す、あることないこと、ないことあること、無数の言葉の欠片、無数の欠片の言葉。もっと自由に、もっともっと自由に。

その欠片のたった一葉だけでも、きみの下にある日ひらりと届けば、人生なんて、それで大成功。