改行とか、お祈りとか。

最近軽いことを書いていないので書きなさいという指令を受けたので書きます。おお、何か電波を受信中みたいで良い文章ですね。

ところで、このブログ、アーカイブを見ると改行が全然反映されていないのです。文字がびっしりつまっている。びっしりつまっているって、いま書いていて鳥肌がたちましたけれど、何だか薄気味の悪い語感です。少なくとも美しいものはびっしりつまったりしない。びっしりつまったオードリー・ヘップバーンなんて在り得ない。自分で何を書いているのか良く分らないのですが大丈夫でしょうか大丈夫です。ともかく、アーカイブにも改行が反映されるようになりました。ちょっとほっとしました。改行がないのって見栄えが悪いですからね。

改行といえば、昔、いまでいうライトノベルの走りみたいなお話を読んだとき、何しろ句点ごとに改行しているのには驚きました。無論、これだって比較の問題でして、古い時代の小説で、時折改行どころか句点もないままどこまでも続いていく文章を見かけますが、あれはあれで辛いと感じてしまう。だからまあ、何が良くて何が悪いということではないのですが、とにかく驚いた。

だってそうだろう、と彼は思った。

改行だらけの空白の本に、その空白に、ぼくらはお金を払っているとでもいうのか?

彼はそう思った。

彼は、そう思ったのだった。

だからといってでは改行なしにどこまでも書いていく、それはそれで読みにくいのも確かで、ここで今回のタイトルの話にずれるのだが、50日ほど前に出した公募に落ちたお知らせが届いており、読めば予想通り不採用で、それ自体に別段ショックは受けはしないのであって、なぜならもともとぼくのようなイレギュラーな経歴を持っている人間がまっとうな公募枠に応募したところで、最初からまっとうな経歴で勝負している連中に敵うはずもなく、敵うと思うとすればそれは自信というよりむしろ現実感覚の喪失に近いように思うし、またそもそもぼくはぼくを落とす連中に対しては例外なく「地獄へ落ちろ」と自転車のスポークを刺すかあるいは「将来俺が偉くなったときには後悔のあまり転げまわって死ぬがいい!」と思うほどには傲岸不遜で唯我独尊なのだがしかし言いたいことはそんなことではなく、そのお知らせの最後に「今後も一層のご活躍をお祈り申し上げます」などと書いてありぼくはそれに激怒したのであってその理由は他でもない、いったいこれを書いた人間は何に対して祈っているのかが分らないからで、祈りとはそんな簡単に口にできる言葉ではないとぼくは思っていて、だからもっと正直になってほしい。

「私どもは正直貴兄の今後の人生には何の関心も責任もございませんが、貴兄が偶然であれコネであれ不正行為によってであれ何らかの公募に通ることがあれば(それが私どもの大学ではないことだけは断言できますが)、ハハッ! 良かったね、くらいには頭の片隅で願っていると申し上げれば嘘になりまして、本当にどうでもいいのです。敬具」

まあそういう訳でして、改行というのはけっこう大事だよね、などと思うのです。個人的にはあまりに改行を多用した文章ばかり読んでいると、思考の持続力というか、息の続く限り論理の海深くに潜る肺活量というか、そういったものが弱まってしまうのではないかという危惧も感じています(改行ばかりの論文が基本的には在り得ないように)。

けれども一方では、短いセンテンスの連なりのみが持ちうる軽やかな飛翔感というのも美しくはある。ま、平凡な結論ですが(何しろ凡庸なこと以外は口にしないという非凡な才能に恵まれているので)、どちらも大事だね、というよりむしろ、表現形式とその内容は不可分であって、俺を表せ、俺を顕せと叫ぶナニモノカにふさわしい形を与えてやるべく、自分のなかに耳を澄ませるしかないのでしょう。

だいぶ無茶苦茶なお話になってしまいましたが、時折こうやってリズムを崩さないと、どうもぼくは陰湿で陰惨な性格の趣くままに書いてしまいがちなのです。というわけで、クラウドリーフさんの今後のますますのご活躍とご健勝をお祈りしつつ、ハハッ! あなかしこ、あなかしこ。

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