あの日魔法を使っていたきみは

言葉というものは不思議なもので、つまらない使われ方ばかりされてきた言葉というものは、どうしても力を失ってしまいます。魔法、なんていうのもそのひとつですね。けれどもぼくは、この魔法という言葉、案外好きなのです。ですので、すっかり色あせてしまった魔法という言葉に、いまいちど少しだけでも魅力を取り戻させようというのが今回のお話です。

ぼくが初めて魔法とでも呼ぶほかない特別な力を目にしたのは、大学に入ってからすぐのことでした。相棒に出合ってからまだ間もないころ、あれはどこだったでしょうか、都心のどこか地下にある薄暗い喫茶店で、彼女が手の中に小さな、けれど鋭く美しい火花を散らせたのです。

彼女がそれを見せてくれたのは、そのときただ一度だけ。でも本当のことをいえば、いまならぼくも同じことができます。いえ、これを読んでくれている誰にでも、簡単にできることなのです。だけれども、やはりあのときのそれは、魔法というより他はない、特別な輝きを持った何かでした。その一瞬のみに可能であったもの。誰もができて、同時に誰にもできないもの。

あるいは、やはりこれも彼女のお話。ぼくの交友関係の広さが窺われますね。ある日の夕方、ある建物の屋上の縁を、彼女が歩いていました。何の柵もなく、一歩間違えばそのまま墜落するしかないところを、彼女は平気な顔をしてバランスを取りながら、すいすい進んでいきます。高いところが平気なひとであれば、どうということもない話でしょう。けれども、そうではないのです。ただの事実としてエンパイアステートビル(というものが何なのかぼくは知りませんが)の天辺の避雷針の上に片足で立ちクルリと舞ってみせたところで、それは要するに超人的な体術というだけで、魔法ではない。そのときの夕暮れの空の色、風の匂い、遠くから届く子供たちの声。そういったものすべてを含めて、何一つ欠けてはならないその全体として、魔法が完成していました。もちろん、彼女が落ちたら即座に後を追うつもりで、摺り足で奇妙なダンスでも踊るかのように彼女を追跡していたぼくも含めて。

リンギスは、コミュニケーションを透明なコミュニケーションとノイズのコミュニケーションに分けて考えます。前者は合理性によって根拠づけられたコミュニケーション形態を意味します。そこでは、その語られる内容のみが問われ、誰がどのように語るかは問われません。ぼくがいうのであれ、きみがいうのであれ、1+1は2でなければならない、そういったものです。そしてそれ故、そのようなコミュニケーションにおいては、語る者はつねに交換可能な誰かさんでしかありません。

一方、ノイズのコミュニケーションは、誰がどのように語るのかこそが重要であり、何を語るのかには本質的な意味がないようなコミュニケーション形態を意味します。死に逝く誰かの傍でレコーダーが合成音で「ダイジョウブデスヨ」と慰める。そこには恐らく何の救いもないでしょう。けれども、もしそれが、きみにとってかけがえのない誰かを看取るきみ自身の声であれば、そのとき、それが言葉として、文法として破綻していても、そこには置き換え不可能な意味が生まれます。きみが、その場で、そのとき、その相手に語ること。その絶対的な唯一性。

飛躍しているのを承知でいえば、前者を科学、後者を魔術といってもよいかもしれません。

どちらが正しいとか、どちらが大切ということではないのです。そのどちらも、ぼくらが生きるために不可欠な要素です。けれども、現代社会というものは、そして同時にぼくらが大人になるということは、魔法を捨て、科学へと傾斜していく在り方そのものなのかもしれません。この世界に暮らす大人たちで、いまだに強力な魔法を使えるままでいるひとを、ぼくはあまり見かけることがないのです。それはやはり、少しばかり寂しいことのように思えます。

ある日、相棒とぼくは、一緒に街を歩いています。ざわめく雑踏の中、けれど周囲から切り離されたような静寂を、ふと感じます。ぼくらはいつでもそうやって生きてきました。彼女とつないでいる手に少しだけ力をこめ、ぼくはいいます。――ひさしぶりに、また魔法をみせてよ。彼女は、少しおどけて肩をすくめ、――いいよ、と答え、そしてそれきり、何もおきません。ぼくらはそのまま、どこまでも歩いていきます。

たぶん、それ自体で、その全体が、ひとつの魔法なのだと思うのです。

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