イントロダクション オブ ストリックランドツアー

数少ない、尊敬できる研究者仲間にしつこく声をかけ、新しい研究活動をしようよと誘っていました。誘うだけ誘って、人望ゼロのクラウドリーフさんには具体的に何もできることがないというのがクラウドリーフさんの人間性の最悪さを良く表しています。でも、誘った相手は非常に人間的な魅力がある男なので、彼を通じて思いもしないようなジャンルの研究者と知り合えるかもしれず、それが楽しみです。でも実際に知らないひとに会う段になったら、コミュニケーション能力に重大な欠陥のあるクラウドリーフさんは、恐らく冷や汗100%の非清涼飲料水的何かに変ずるのであろうなあ、といまから嘆息してもいます。

嘆息といえば、相棒に連れられてジーンズを買いに行きました。ぼくの後ろ姿のあまりの格好悪さに、さすがの彼女も驚愕したようです。長いつき合いなので、彼女が冗談で言っているのかほんとうに呆れているのか、だいたい10%程度の確率で分かります(全然分かっていない)。まあともかく買いに行ったのですが、ジーンズ、っていうか、スキニーっていうのを買わされたんですけれども、これってジーンズの一種なんですかね。まったく不明ですが、ともかく、裾上げというのを数年ぶりにしてもらいました。もうそのくらいファッションモンスタ。プログラマなので長音使わない。ビニルハウス。でもあれですよね、服を売ってるくらいだから、売っているひとだって、こう、ファッションに拘りがあるじゃないですか。知らないけれど。そんなひとに裾上げしてもらうって、もうそれだけで拷問ですよね。ああもう俺牛の糞だよな、前世もそうだったもんな、来世もそうなんだろうな。そうして受取証に書いてある股下何cmという記載を見て愕然とします。足みじかーい! 腸ながーい! 野菜消化しやすーい!

そんなこんなで農耕民族の誇りに目覚めつつも、数日後にスキニーとやらを無事受け取り、さっそくぴっちぴちのふくらはぎをひけらかしつつ会社に履いて行こうとして彼女に止められます。えー、平気だよー。えへへ。可愛く笑い、強引に彼女のディフェンスを突破して出社しようとします。っていうか、もう最近はそれでずっと通っているのですが、どんなもんでしょうね。周りのひとは皆(当然ですが)スーツなので、クラウドリーフさんの社会的寿命もそろそろ尽きるのではないかと思えるのですが。

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先日、相棒の高校時代からの友人と三人で遊びに行きました。途中から頭痛が始まってしまったため、もう最後の方は意識も記憶もほとんどなかったのですが、それでも、古くからの友人と居て自然体で過ごす彼女を見るのは、それだけで心が和むものです。研究のため・・・なのか何なのか、またICCに行ってきたのですが、作品を眺めている彼女の立ち姿を眺めていると、まあだいたい、それだけでも生まれてきた甲斐はあったかな、という気がしてきます。彼女たちふたりで立っている姿を見ると、ちょっと、高校時代の彼女たちの姿が見えてくるような、実際はもう頭痛で視界も歪んでいるのですが、そんな気がして、微笑ましくなったりもします。

昨日はひさしぶりに頭痛が激しくなってしまい、帰宅後にすぐ倒れ、夜中に起き上がってしばらく作業をしていました。今朝は今朝で早くから動き始め、三月末には出す予定の研究雑誌の表紙を作っていました。ほんとうは掲載論文のほうを完成させなければならないのですが、ここ一年の研究成果をすべて注ぎこんだもので、ちょっと間合いを置いてから読み直さないとなのです。表紙は、自分でも納得のいくものができました。来週末には雑誌発行前の最後の打ち合わせがあるので、それまでに自分の論文説明用にレジュメを作らなければですが、少し一安心というところです。この研究会は、ぼくが哲学をやっていると言える唯一の根拠を与えてくれる、シリアスでシビアでシベリア(お菓子)な集まりなので、楽しさ半分、魂削れる半分です。けれども、この研究会の仲間も研究を共にしていると言える数少ないひとたちで、それはぼくのような社会不適応者には過分な幸運です。

ICCの展示は相変わらず糞が9割という感じでしたが、RGB|CMYK Kineticは良かったです。あれを一時間ほどぼんやり眺めているだけでも、入場料の価値は十分にあるでしょう。ぼくらの世界を超えた別の次元に在る何かの投射体としてのぼくらの一瞬で儚い生を感じつつ、その次元にさえやがて静寂が訪れる。その全体をいまここに居るぼくが目を瞑って眺めている。たぶん、そんなときにこそ、ぼくはいちばん、自分が自分の為すべき研究を追いかけていることを実感するし、その光景の全体のなかに彼女が居ることをほんとうに幸福に思うし、そこから生み出される言葉を研究として理解してくれる仲間が居ることをほんとうに幸運に思うのです。

大変なことばかりだけれど、まあ、何とかなるさ。

Yours sincerely,

ありがたいことに、研究仲間に声をかけてもらい、とある大学で行われる国際フォーラムなるもので発表する時間をもらえました。といっても20分から30分程度のものなので、挨拶をしていたらだいたい終わります。コンニチハ! 挨拶は大事です。ぼくの場合は、「挨拶だけはしていたけれど、得体は知れませんでしたね」と言われるか「挨拶もしないし得体は知れないし、いつかは何かしでかすと思っていましたね」と言われるか、そのくらいの違いはあります。どちらにせよ逮捕はされる。それはともかく相棒に「きみはせめて自分の身体にあったサイズの服を着ればまだましに見えるんじゃない?」と言われているので、まずはフォーラム前にその辺りから改善していく必要があります。そんなこんなで、昨日は仕事帰りにヨドバシカメラに寄り、まずは鞄を探しました。何故服ではなく鞄なのかといえば、鞄は鞄で、ぼろぼろなのです。自分だけのことであればスーツなど着たくもありませんが、ぼくは何よりもまず義を重んじる人間なので、今回は呼んでくれた仲間の面子もありますし、きちんとスーツを着ていくつもりです。しかしそうすると、それに合ったコートも鞄もない。いま使っている鞄ときたらもう、祖父の形見どころか縄文時代の遺物か、というくらいに古い。気に入っているんですけれども穴だらけで、服がこのレベルだったら事案発生です。ヨドバシでカメラバッグを延々一時間ほどじろじろ眺めていたのですが、どうもこれだというものがなく、諦めて帰ってきました。ナショジのバッグは文句なく良いのですが重い。この年になると重いバッグはつらい。

でもまあやっぱりナショジかな・・・、と思いつつ、きょうは別の用事があり新宿へ出たのですが、西口を出てヨドバシ方面に行く半地下みたいなところでよく物産展みたいのやっていますよね、あそこで鞄を売っていたのです。そこで、まあこんなところで良い鞄もないだろうなあ、と特に根拠もなく諦めつつ覗いてみたら、一目見て気に入った鞄がありました。出会いというのは不思議で面白い。帆布工房というところの製品です。青い色の帆布がとてもお洒落で、作りもしっかりしているし、軽い。例によってしばらくはじろじろしていたのですが、でも結局買いました。売り場のおじいさんが「小僧、鞄を買ったら、まずは防水スプレーでもかけるんだな」と言います。「コンニチハ!」ぼくは唐突に挨拶を返します。それにしても良い色です。ひさしぶりに、買ってもまったく後悔のない買い物で、いまはちょっとほくほくしています。あとはコートを買えば何とか形になるでしょう。そういえばネクタイも碌なのがないな。唯一使えるのは会社員時代のものなので、もうかれこれ二十年近く前に買ったものです。天平の甍、などという単語が唐突に頭に浮かびます。まあネクタイは良いでしょう。いざとなれば昆布でも巻いておけばよい。マリンブルーの昆布を見ると、ぼくはいまでも漁師だった祖父のことを思い出すのだ。彼はタカアシガニと格闘して死んだ。タラバガニがヤドカリの一種だとは決して認めない男だった。「だってカニでしょ!」「コンニチハ!」

きょう新宿へ行ったのは、ひさしぶりにICCの企画展で展示されている「デジタル・シャーマニズム」とかいう作品を観ようと思ったからでした。自分の研究にかかわる、けれど非常に糞っぽい内容のように思えたので、それが糞であることだけを確認しに行き、やはり糞であることを確認して帰ってきました。作品と書いてしまいましたが、作品以前の質、芸術以前の質で、ほんとうに困ります。「魔術や信仰、科学やテクノロジー、この両者は、相反するもののように見えて、どちらも「ここにはない何か」を現前させたり、そう感じさせたりする、という性質において、じつは極めて親和性が高く[以下略]」(http://www.ntticc.or.jp/ja/exhibitions/2016/emergencies-030-ichihara-etsuko/)などと書いた挙句、出てきたモノが、いまどきおもちゃ売り場にもなさそうな安っぽいロボットで、頭に触れると聞くに堪えない陳腐な台詞を喋り出します。ただ、作者の、いえこの作者に限らず現代アートとやらを語る大半のアーティストに共通の、異様に肥大した承認欲求が発する腐臭みたいなものは立ち込めており、そういった意味では確かに魔的なものがありました。信仰も科学もテクノロジーもなかったけれど。でも魔であるだけなら、そんなもの、この時代どこからでも漂ってくるものです。その魔の在り方がテクノロジーによってどのように根本的に変容したのか、それを批判するのであればまだしも、自分自身が取り込まれているのではどうしようもありません。ともかく、最初に予想したとおりの出来でしかなく、何もわざわざICCまで出かける意味はありませんでした。そして意味はないということを確認するだけでも、行ってきた意味はありました。先の「複製技術と美術家たち」と同様、今回も一人の探索行だったので、精神的にはそうとう疲弊します。けれども最近はがんばって一人で外出し、自分の論文にリアリティを与えるべく、じろじろと様々なものに目を向けています。

とはいえ、下らないものを見るのは大きなダメージになります。良い鞄に出会えなかったら、覚悟の上とは言え相当落ち込んでいたでしょう。いずれにせよ、フォーラムでは、メディアと魔的なものについて、お気楽にかつシリアスに喋ってこようと思っています。せっかくだから新しい鞄と一緒にね。

キル・キリイ・キル

学会サイトを更新しなければならないし、オンラインジャーナルを作らなければならないし、四日後が締め切りの論文をまだ一切書いていないし、明日の講義の準備もしていない。仕事は仕事で不具合の原因調査がまだ終わっていない。挙句に何だか面倒くさいメールが届いて、如何にして相手を傷つけず断ろうかと頭を悩ましているうちに頭痛が始まった。知恵もないのに知恵熱。これは脳が糖分を欲しているのだと思い、梅ジュースを作ったときに余った氷砂糖をばりぼり食べていた。

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昨日は研究会があり、いま一緒に研究をしているメンバーが互いの論文草稿に対して意見を言い合った。ぼくにとってはいま唯一本気でやっている研究で、だから、これを乗り切るとだいぶ気分が楽になる。もちろん、全然ダメだねということになるとそれはもうほんとうに全然ダメなので、相当に緊張する会合になる。逆に、多少なりとも評価してもらえるものを書けると、まだ自分も哲学をやっているのだなと思える。

当然、そのためには信頼でいる研究仲間であり、互いに認め合えるだけの原稿を持ち寄らなければならない。そういうことができる研究仲間を持てたのは、とても幸いなことだ。とはいえ、ぼくの場合、草稿の段階でかなり完成稿に近くなってしまっているし、だからもう、今回の論文は最終工程に乗せてしまい、次のテーマをもにゃもにゃと練っていかなければならない。頭の中で、混沌として、けれどずっしりとした質感を持って在るものを、少しずつ言葉を使って輪郭を描いていく。しんどくて、でもいちばん楽しい。

そんな訳で、きょうは部屋の掃除をした。ぼくはきれい好きな方だけれど、ここしばらくは異常な仕事量と私生活の方のどたばたが続いていて、ひどい状態だった。だから、時間をとって部屋の掃除をするのは、とても楽しいし、ほっとする。そうして、次の論文用に本の並びを構成し直すこともまた、とても楽しい。それは自分の頭の構造をチューニングし直すのに似ている。

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今回は講義がとてもつらく、ちょっと、学生たちにも申し訳なかったと思う。無論、意識的に手を抜くわけではないけれど、講義は、こちらの状態が隠そうと思っても如実に出てしまう。次の年度になったら、思い切りスタイルを変えてやってみようと思っている。どのみちこれで食べていくつもりもないので、非常勤の職を失ったところでどうということはない。というと真面目な研究者には怒られるけれど、少しくらい性格が破綻している講師がいた方が、大学なんてものは面白い。

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会合のとき、研究仲間に、最近出た辞典を手渡した。辞典なんてものは、それ自体は面白くもおかしくもない。特にぼく程度の能力しかない人間が書いた項目など、創造性の欠片もないものだ。でもまあ、手元に置いておけば多少は役に立つかもしれない。ともかく、遠くから来ていたもうひとりには、かさばるので郵送で送ることにした。きょうは掃除をしながら、Amazonの段ボールをばらして、ゆうパックで送るための箱に作り直した。本がぴったり入る箱を作ることができ、独りでにやにやする。こういう手を使う作業はとても楽しい。考えてみれば、文句を言いながらも、けっこう楽しいことばかりしている気がしてきた。まあいいか。

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形而下的なことを言えば、どうも、あまりぱっとしない生活だ。それでも、頭の中に何かが在って、言語化してくれろ、言語化してくれろ、と、いつでもぼくをせっついてくる。自分のペースでしか応えることはできないけれど、ここ数年、ようやく、それがナニモノなのか、少し見えてきたように思う。

言語化できないものを言語化すること、それによって本当に言語化できないものを手探りしていくこと、霧の中に一歩、いま踏み込み始めているのを感じている。

梅ジュース à gogo

去年の夏、彼女が家に来たとき、庭の梅の木に登り、梅の実を大量に採ってくれた。別に何か手を入れている訳でもないのに、毎年大量の立派な実がなる。父が居たころはこれで梅酒を漬けたり梅干しを作っていたりしたけれど、いまはもう誰も採る者もなく、去年はひさしぶりにちゃんと収穫した。虫が苦手なぼくも、彼女が傍にいる限りは対処してくれるという安心感があるので、役に立つのかどうかはともかく、何となく手伝いみたいなことをした。大量の梅はそのままリュックに詰め、彼女の家に持っていき、そこで彼女に梅酒を漬けてもらう。500g分は自分の手元に置いておき、余裕ができたら梅ジュースにしようと思ったまま、早半年。きょう、ようやく梅ジュースにした。

梅ジュース自体はあっという間にできてしまう。1リットルよりも少しだけ作り過ぎた分を飲んでみた。少し甘さが強すぎたけれど、それでも、初めての試みにしては良い出来だ。梅特有の酸っぱさも程よく効いている。

今年の目標は、まっとうな生活者になること。生活者とは、太宰が嫌悪したお汁粉万歳の生活を送る者ではなく、銀河鉄道の夜のラストにおけるジョバンニの立ち姿のような生き方を送る者をこそ意味している。ぼくのような落ちこぼれの社会不適応者にはとても難しいことだ。でも、それは、くだらないアカデミズムのなかでどうこう立ち回るよりも、遥かにやる価値のあることだ。

パライソ感

年末年始は大掃除と親族への義理ですべて終わりました。墓参りでは、例によって親族の名前を覚えられず、直前に暗記したのですがやはり間違えました。しかしまあ、親戚にひとりくらいは、私のような社会不適応者がいても、それはそれで彼らの人生の味わいが深まるのかもしれません。会うたびに「クラウドリーフくんって結局何をしているんだっけ」と訊かれるのも、それはそれで、味わいのある人生なのかもしれません。

そんなことを言っているうちに、明日から早速講義と仕事です。講義のレジュメはまだ何も作っていないし、仕事は年末に終わらなかったクレーム対応から始まります。良いことが何もなくて困ってしまいますが、しかし良いことがある人生など、わしもつれていってくだせ、のパライソでもあるまいし、考えてみればそれはそれで気色の悪いものです。そんなこんなで、極少ない自由時間は、カメラを弄って遊んでいました。

暮れには武甲山へ行ってきました。健脚揃いだったので、あっという間に登って下りて、あとは温泉に漬かっていただけですが、それでも、限界まで汗を流して、そのまま凍えるような風の吹く山頂でしゃりしゃり凍りかけたTシャツのままおにぎりを食べるのは、それだけでパライソ感がありました。わしもつれていってくだせ!




きょうは少しだけ父の仏前を片づけました。と言っても、いまだに仏壇はなく、線香立ても乳鉢を使っています。けれど、発掘作業のように灰の中から燃え残りの線香を掘り出し、残った灰を均等に均していくのは、皿洗いと同じくらいに心の平安を感じることができる時間です。パライソ。

あとはα700に父の持っていたレンズを装着したりしていました。古いだけあってレンズは重いし、私が発見したときには既にコーティングが黴で喰われてしまっていたので曇っています。それでも、それで撮れる画は、意外に穏やかで、悪くありません。此岸から眺める彼岸。パライソ。

旅行にレンズを何本か持っていても、結局マクロ(SP AF60mm F/2 DI II MACRO)をつけっぱなしで、あとはRX100になってしまいます。だけれど、次に相棒とどこか温泉にでも行くことがあれば、そのときには、父のFD 24mm f2.8を装着していこうかなどと思っています。

思い出

相棒に何か楽しい話を書きなよと言われたので、何か楽しいことを書いてみようと思います。

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昨晩、もう午前3時くらいだっただろうか、ふと目が覚めて手洗いに行ったとき、風呂場の摺りガラスの向こうに女性が居て、顔をべったりと窓に押しつけているのが見えた。街灯のみの薄暗いなか、しかも摺りガラス越しなのにはっきりとその相貌が分かる。だから、それがいわゆる「現実」の存在ではないのは明らかだし、現実でない以上、驚きはしない。

だけれど、よく考えてみると、これは不思議なことだ。ぼくは普段、相当にびくびくしながら過ごしている。例えば顔を洗ってタオルで顔を拭い、ふと振り返ると彼女がそこに立っていたりする。そもそも初めから彼女がそこに居るのは知っているし、物音も聴こえている。だけれど、そこに立っている彼女を見て、飛び上がるほど驚いてしまう。そういったことを、家でも会社でも大学でもやる。そうして、これはかなり、相手を不快にさせてしまうことのようだ。その度に謝る。

そこに誰かが居ると分かっているのに、実際に目にすると、わっと驚いてしまう。ところが、ぼくがしばしば目にする、日常的な意味での「現実」には存在しない何かに対しては、いくらそれが突然のものであっても、驚くことはない。あ、虫様の幻覚は別で、あれは苦手だ。最近は長い紐状の影があちこちを素早く這いずり回っていて、これはほんとうに困るし気味が悪いし心臓にも悪い。ともかく、昨晩出会ったような何かに対して、ぼくは驚くということをしない。

それは、環境とぼくとの相互作用によって生まれる何かであって、決してぼくの脳内の独白などではない。とはいえ同時にそれは、ずっと昔、ぼくらの誰もが見ていたかもしれない精霊たちとは異なり、この世界の本来的な存在でもない。それはバグのようなものだ。ぼく自身、自然のなかに居るときに見るものがあるけれど、それと、昨晩見たようなものとの間には、根本的な差異がある。端的にいえば、それは歪みだ。環境の歪みと自分のなかの歪みが同期したときに、その何かが現れる。とても不自然で、だけれども、とても現代的で人間的なもの。草木的な意味での自然さはないけれど、不自然な生を送る人間としては自然なもの。だからそれは、自動車がぼくらを脅かすのと同じ程度にしかぼくらを脅かさないし、逆に、自動車がぼくらを脅かすのと同じくらいにぼくらを脅かす。

話を戻すと、なぜそういったものを不意に見たときに、この臆病なぼくがびっくりしないのかといえば、それは、それが現れる条件として、環境の歪みと自分のなかの歪みがシンクロしなければならないからだと思う。その高まりを脳が漠然と感じ取る。同期し盛り上がった波頭が崩れ、その飛沫がこの世界というスクリーンに汚れのような跡を残す。人間はそれを予期した眼差しにより、瞬間、心に留める。そうしてすぐに薄れて消える。

と、言葉でどう表現しようが、それは構わない。これは誰もが感じていることだし、誰もが見ているものだ。言葉を変えると驚くほどありきたりなことになってしまうのかもしれないけれど。

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ここまで書いてふと、最初に相棒に言われた「楽しい話を書くように」という命令をまったく実行していないことに気づきました。でもなあ、毎日、何も変わり映えしないし。きょうも一日シュレッダーをかけていたし。明日のレジュメもまだ何も準備をしていないし。恩師に「入籍します」とメールをしたけれど、文末に「(笑)」とかつけたからかお返事来ないし、特に楽しいこと、ないんですよね。

フユ/クモリゾライフ

履いているジーンズなんて、もう、お尻のポケットは穴だらけです。鞄もぼろぼろで、いつ何時破けるか分かりません。こんな格好で教えに行くなど、尊敬する牧師さんたちには怒られてしまうことでしょう(学部時代に講義を受けたのはほぼ全員が牧師先生だったのです)。だけれどもそもそもぼくは、何かを教えることができるほど何かについて詳しい訳ではありません。それならむしろ、少なくとも大学に来ている若い子たちに、その倍の年数くらいはまあ何とか、こんな屑野郎でも生きていられるということを示すだけでも意味があると思っています。生き残ること。それ以外に重要なことって、実はあまりありませんよね。そんなこんなで、ぼくのスタイルは季節を通してあまり変わりはありません。これまたぼろぼろのセーターを着て、さらにそこにGORE TEXのPerformance shellを被せたりすれば、ほらもうこれで、東京の冬は十分に過ごせます。

だけれど、さすがに女子大の学生たちはなかなかにお洒落なようです。よくは分からないけれど、9月末、講義が始まったときと、1月末、講義が終わるときとでは、だいぶ教室の色合いが異なるような気がします。とはいえ、ぼくは決して彼女たち個々の姿を捉えることはありませんので、あくまで全体の雰囲気のようなものしか分かりません。でも、春に始まり初夏に終わる前期よりも、季節の移り変わりを感じられるのではないでしょうか。

考えてみると、最初の大学のときから、ぼくは服装に対するセンスが欠如していました。周りはお洒落な子たちがわんさかほいさと居たので、どうしてまったく何の影響も受けなかったのか、もう少しぼくの感覚も磨かれて良かったのではないかといまになって思います。彼女にも、そのときから二十数年にわたりダメ出しを受け続けてきたのですが、どうにも、ファッションというものは分かりません。自分にお洒落な服が似合わないのは分かっているので、無地で単色の、飾りもない服を地味に着こなすのがいちばん無難だと思うのですが、そうすると今度は、ぼくの数少ない友人である彫刻家からダメ出しを受けます。クラウドリーフくん、人間、冒険しなけあならないよ。しなけあなりませんか。うむ、ならんよ。

でも、冷静に考えれば分かるのです。何を着ても着こなせるひとがいる。スタイルの良さとかは、恐らく何の関係もなくて、そのひとの持って生まれた才能ではないかと思うのですが、そう言うと、ファッションは努力だと、彫刻家にまた怒られます。でもなあ、何を着ても様にならない奴って、やっぱり居ると思うんですよ。少なくともここにひとり。彫刻家と、吉祥寺のアーケード街をふたりで歩いている姿を後ろから撮った写真が、いま、ぼくの手元に一枚あります。体格自体は、彼とぼくとの間で、ほとんど違いはありません(だから時折、彼はぼくに服をくれたりします)。だけれど、彼は男のぼくから見ても、明らかに格好良い。そうしてぼくは、本人であるぼくから見ても、ちょっと常軌を逸して恰好悪い。冴えない。これはもう、努力云々の話ではないのではないでしょうか。いや努力だよ。そうですかねえ。

それでも頑固にぼくが思うのは、その差は恐らく、ファッションに対する努力などではなく、それ以前の、見られているということそのものに対する才能なのではないかということです。昔、まだ彫刻家と出会ったばかりのころ、彼女がモデルをしていて彼が彫刻を作っている周囲を、ぼくは狂犬のように歯を剥きだして唸りながらぐるぐるぐるぐる回っていました。そんなある日、彼がぼくに、クラウドリーフくんもちょっとその椅子に座ってごらんよ、と言いました。制作の間、モデルさんが座っている、ちょっと高いところに設置されている椅子のことです。パニックに陥りながら、ぎょええ? ぎょええ! と鳴きながら椅子に座り、三秒後に頭痛と腹痛と腰痛を発症し、ずりずりと椅子からへたり落ちます。やっぱりだめ? やっぱりだめですねえ。冷たいコンクリートの上に、垂らした絵の具のように丸まりながら答えます。

ひとに見られるのが壊滅的に苦手なぼくが、いま、百人近い学生さんたちを前に、案外平気な顔をして、それでも決して彼女たちに顔を向けることはなく、ぼろっちい服装のまま、メディアがね、他者の痛みをさ、などと、虚空に向かってマシンガントークをかましています。時折、誰もいないはずの、教室前の扉に視線を向けたりすると、前の席に座っている学生さんが、自分が見られているのかと思い顔を上げ、ぼくの視線が向いていないことに怪訝な顔をしたりします。

どこをどう取っても恰好悪いぼくを、だけれども、ぼくは案外、気に入っています。そろそろ冬になるので、また、GORE TEXのPerformance shellを出さなければなりません。