ゴミ捨て場の銀河

とても忙しいひと月だったけれど、終わってみればもうすべては過去だ。哲学をやっていますなんて、それで大学にポストを持っているのでもなければ社会的落伍者の烙印のようなものかもしれないけれど、それでも、哲学研究ではなく哲学をやっているんだぜと気軽に言えるのは、自分の人生をリスクに曝しているからでもある。そして自分のテーマでいえば大抵のことは研究に結びつけることができるし、だから、意外にこの人生は楽しい。仮想通貨やら株やらに手を出して、無論、それはぼく自身の本来のモードではないし、だからこそ失敗する前に離脱することもできる。そもそもぼくが欲しいのは一兆単位の資金で、だからぼくのように凡庸な個人レベルのマネーゲームになんて端から興味はない。それでも、実際にやってみるとそれはそれでいろいろな発見がある。最近は時間について考えるようになった。すべては過去なのだということを、マネーゲームはよく教えてくれる。いま書いている論文とは直接関わりはないのだけれど、コアとなるものの周囲数兆キロをぼんやりと囲む塵がなければ、ぼくらは馬の頭のかたちすら知ることはないだろう。

すっかり疲れてしまい、仕事を抜け出してゴミを出しに行く。以前はしばしば食堂まで行き自販機でお茶を買ったりしていたけれど、最近はすっかり対人スキルが摩耗してしまっているので、いったん実験棟に入ると、もう出てこない。けれど職場の敷地の片隅にあるゴミ捨て場には人気がないので、時折、やおら実験室のゴミをまとめると捨てに行ったりする。その日はもうすっかり日も暮れ暗くなっていて、モニタの見過ぎで疲れ切った目に、電灯もないゴミ捨て場は宇宙のように真暗だ。荒れたアスファルトの上には小さなゴミが散らばっていて遠くの街灯を反射して、暗闇の中で小さくきらきら瞬いている。ぼくは銀河に浮いているようだった。平衡感覚を失い、それでも倒れることなくゆらゆら浮いている。実際には、疲れ切って目の落ちくぼんだ中年男性が、ゴミ袋を片手にゴミ捨て場で茫然自失しているだけ。だけれど、この世界がどうであるかなんて、半分は世界のリアルさと、残りの半分は自分の主観とでできている。他人から見たぼくの姿など関係ない。神経症気味だった二十歳の頃でもあるまいし、いまさら気にはならない。しばらく宇宙遊泳をして、再び実験棟に帰っていった。

プログラマをしているときはあまり喋ることはない。もちろん、打ち合わせや会議は別だ。フリーでやっていくときに必要なのは、能力よりもむしろ、信頼性とコミュニケーション能力、そして愛想の良さだ。いや技術だろうというひともいるかもしれないけれど、それはよほど高い技術力を持っている場合で、代替可能なレベルであれば技術力よりも重要な要素がある。いまのところ、それでどうにか食べていられる。どうやら自分の身を喰いつくしているに過ぎないような気もしているけれど。ともかく、これが講義となると喋らないことには始まらない。その緩急が激しすぎ、講義が終わるとがっくり落ち込む。今年はもう首を切られても構わないと思い、自分にとって面白いテーマばかりを扱うことにした。無論、講義全体の構成は一応きちんと考えてはいるけれど、いわゆる教科書的な要素は徹底的に排除している。そんなものは教科書を読めばよい。たまたま友人にそれを見てもらえる機会があり、きみにはこれが天職だね、と言われた。ここしばらくで、その言葉がいちばん嬉しかった。とはいえ、それはあくまでぼくにとっての天職で、社会的次元の話はまた別だ。天職だけで生きていければそれはさいわいなのかもしれないけれど、残念ながら、そこまでの才能はない。でも、それで何の問題もない。

自分には何の価値もない、という主観的絶対的認識が何十年にもわたってぼくを規定してきた。だけれど最近は、その認識の根底にあった激烈さ、峻烈さが消え、ただ淡々とその事実を受け入れている自分が居る。それは老いとか何とか、そういう下らない話ではなく、ぼく自身の才能に、ようやく自分自身で気づき始めたということなのだと思っている。生きるのは楽しい。ゴミ捨て場だろうが何だろうが、それはこの宇宙の一点だ。