[アーカイブ]シグナル・コミュニケーション(2009/04/13)

きょうは今年度初ゼミでして、ゼミのあとに打ち上げがあったのですが、精神的に疲れきってしまったので参加は取りやめました。けれども相棒と落ち合って夕食を食べ、そのあとのんびり大学へ戻ってきて、少し復活。というわけで、きょうはひさしぶりに、かどうかは分りませんが、怪しい話をします。たまにこういう怪しげな話をしておかないと、何となく、ぼくが常識人で優しい人間だと思われてしまうのではないかという強迫観念があるのです。いや実際のぼくは極めて常識人で心優しい人間ですけれども。

何かこう、導入部分っていうかイントロの話をしようと思ったのですが、やっぱり疲れているのでいきなり本題に入ります。

人間っていうのはですね(いきなり大上段に構えました)、ただ何気なく突っ立っているだけでも、大量のシグナルを発しているんですね。っていうか垂れ流している。っていうかもうこれは噴出している。どばーっ!! みたいに。そうして、ぼくはこのシグナルを、けっこう気にしてしまうのです。そのひとが意識していようがいまいが、シグナルはまず嘘をつかない。このレベルで嘘をつける人間ってそうはいません。シグナルって言うとちょっとぴんと来ないかもしれませんが、要するに、そのひとのちょっとした仕草や言葉遣い、表情などですね。これぼくが勝手にそう名づけているだけです。

そうだなあ、例えばですね、雨が降りそうか降った後かの場合を考えましょう。多くのひとが傘を手にして歩いていますよね。で、そういうときに傘の先端を、手の振りに合わせて後に突き出すようにしながら歩くひとって結構多いですよね。あれもひとつのシグナルです。そうして当然、傘を持っている手を動かさないで、先端をまっすぐ下に向けたまま歩くのもシグナル。ささやかなことなんだけれど、その一点でそのひとの魂の全体像(魂っていうのは途轍もない情報量を持っているものですから、当然その全体像も巨大なものになるのですが)が露わになってしまう。これ、言葉で言うと、「ああ、こいつは後に子供が走りこんできた場合でも、平気で眼を突き刺すつもりでいるか、そんなことにさえ想像力が働かないのか、あるいはそんなことを注意してくれる友人のひとりさえ持たなかったのか、あるいはそのすべてか」と判断されるという、ただそれだけの話になってしまうのですが、しかしそうではない。もっと大変で恐ろしい話です。そのひとの生きてきた、生きるであろうすべての一瞬一瞬が、傘の持ち方のひとつに焦点を結んで、ぼくらの目にはっきりとその真の姿を明かしてしまっている。

そうして、そういったシグナルを、ぼくらは毎瞬毎瞬、無数に発している。視線や声の出し方や笑い方、ひととすれ違うときの重心の移動、相手に返答するときのミリ秒オーダーでのタイミングのずれ、そういったあらゆるものが、ぼくらの真の姿をまわりに伝えるシグナルになっている。

それは自分の魂の在り方を開示しているだけでなく、互いにシグナルを発し、かつ受け取ることにより、そこではコミュニケーションも行われています。そのシグナルに対する鋭敏さもまた、シグナルに反応するというシグナルを通して見ることができる。もちろん、繰り返しますがこのシグナルの用法というのはぼくの勝手なもので、他のひとからするとまた別の言い方、感じ方をしているでしょう。けれども世界の中で自己を位置づけることに意識的である人間なら、自然に行っているはずのことだとぼくは思っています。ですから、それに対して敏感である者同士であれば、その表現が異なっていても互いのシグナルを翻訳し、理解することができる。

ぼくがいま通っている地域は自転車のマナーが極めて悪くて、まあこれはいまの時代どこの地域でも同じかもしれませんが、「夜に」「無灯火で」「ヘッドフォンで音楽を聴きつつ」「携帯を眺めつつ」「ノーブレーキで」カーブを曲がってくる連中が非常に多い。こういうひとたちは、もう無茶苦茶シグナルを垂れ流しまくっているんですね。目も眩まんばかりに。けれども他人のシグナルを受信することに関しては完全に能力が欠如しています。これは驚くべきことですし、本当に恐怖です。世界に溢れるシグナルをすべて弾き返し、ただひたすら己しか存在しない、ある種原色的なシグナルを暴力的に放出し続けている。

少なくともぼくは、世界に溢れるシグナルをきちんと受信したいし、確かに受け取っているよ、あなたがそこにいることにぼくは気づいているよというシグナルを、世界に対して送信していたい。それは当たり前だけれど、社会のルールを守ろうとかそんな下らない話ではなくて、無限のシグナルに溢れる世界の中で、己が己であり、確かに己という唯一無二の装置を通してシグナルの情報処理をしているという確信を得るための戦いなんです。ただ単に、他者のことなど知ったことではないと、あるいはそもそも知るだけの想像力すら持たないが故なのか、己のシグナルを吐き出し続ける、それが自分が自分であることだなどと勘違いしている人間を見ると、ぼくは本当にうんざりするのです。

そんなこんなで、きょうはちょっと疲れてしまいました。大学に、ひさしぶりにひとが溢れていたからかな。けれども、相棒とふたりで、彼女との間に穏やかなシグナルの交流があるのを感じながら歩いていると、少しだけ元気が戻ってくるのです。自分を調律し直す感じと言ったら良いでしょうか。疲れていると気がつかないのですが、そういうときって、ぼく自身が世界のシグナルに対して目を閉じてしまっているのです。そう、シグナルっていうのは、何も人間だけが発しているものではなくて、存在するすべてのものが発してるんです。道端の石ころだって百万光年先の恒星だって。相棒とのんびり歩いているうちに、無数のシグナルがまた目に入ってきて、草や木や虫や街灯や壁の傷や窓の明りや星の光が発する無音の声に、ぼくはほっとするのです。

コミュニケーションなんて簡単なんだけれど、でも本当は、なかなか難しくて、けれどもやっぱり、とてもシンプルなことなんですよね。

[アーカイブ]何かを考えるときに留意する三つのポイント(2009/03/23)

これは博士課程に進んだばっかりのころの投稿です。いま見ると青臭い気もしますが、でも、愛がなくちゃ研究できないよね、というのはいまでも正しいと思っています。あと、途中で挙げている『ラディカル・オーラル・ヒストリー』については こちらのノートの記事 で紹介しているので、良かったらお読みください。本当に良い本です。

ぼくはいま環境思想系の研究室に所属していまして、最近は共生倫理にかなり重点を置いているのですが、まあ基本的な関心は変わりません。共生倫理って言ってもやっていることは凄く単純で、「みんなで仲良く暮らすにはどうしたら良いの?」っていうことを考えるわけです。その上で、中心テーマは環境思想ですから、その「みんな」の中に動物や植物や自然そのもの、もっと言ってしまえば何十万光年彼方の星とか、そういったものをどうやって組み込んでいけるかな、ということも考えています。

で、そういったことをうだうだ考えるときに、いつも気をつけていることが三つあります。きょうはそのことについて簡単に書いてみます。

第一は「正当性の問題」。一時期「クレオール性」や「ブリコラージュ」とか流行りましたよね。けれども安易にそんなことを言ってしまうとちょっとまずい。植民地支配の下で苦しんできた人びとに対して、ぼくらはやはりどうしても先進国側の立場から物事を見てしまっている。でもってそのぼくらが、例えばそういった文化的支配を受けた人びとを見て、彼ら/彼女らが支配者側の文化を積極的に受容して、自分たちの文化を変容させながらもしたたかに生き延びてきた面もあるんだよ、と、そう語るとします。それは確かにそういった面もあるかもしれないし、また単に彼ら/彼女らを弱者として語ってきた(それは結局コロニアルな見方と表裏一体です)世界観に対するアンチテーゼとしては有効だったかもしれない。でも、ぼくらがどういった立場からそれを語るのかということに対する十分な批判的内省を伴わないのであれば、それは「現実と遊離した「弱者」のロマン化やファンタジー化へとつながっていく危険性」(『現代アフリカの社会変動』、宮本正興編、人文書院)を持ってしまうでしょう。あるいはまた、先進国に住むぼくらが環境保護を訴えるときに、一昔前の世界とか途上国とかあるいは田舎の生活をある種の理想像として持ち出してくる。もちろんそこまで単純な主張はそうそう見ませんが、結局本質的にはそうじゃない? みたいな論文っていうのはいまだに結構あるんです。けれども、じゃあ途上国に残されている自然と調和する生活とか、それを生かすような先住民の知恵とか、それは言説としては何か格好良いし、正しいことを言っているっぽいけれど、でも彼ら/彼女らの中にだって、自然なんかぶっ壊してクーラーが欲しいとか、そう思っている人はたくさんいるはずですよね。で、そういった人びとに対して、じゃあぼくらはどんな立場から環境保護を語るのか、彼ら/彼女らにそれを強要する権利があるのか、いやそもそも語る権利があるのか、ということに注意しなければならない。そうしてもちろん、ここでぼくは気軽に「彼ら/彼女ら」とか「ぼくら」とか言っていますが、それも危ないですよね。それっていったい誰なんでしょう。「きみ」について「きみ」が語るのと、「きみ」について「私」が語るのとを同列に論じることもできません。要は何かを語る際に、「誰が」「誰に対して」語るのか、つまり語る位置の問題に鋭敏でなければ、それは言説の暴力になってしまうということです。これについては『ラディカル・オーラル・ヒストリー』っていう素晴らしい本があって、これはとても読みやすいですから、皆さんにもぜひお勧めしたい。時間ができたらレビューしようと思っていますけれども。本当に良い本です。

第二には、「実効性の問題」。どんなに立派なことを言ったって、それが現実に可能でなければ意味がないですよね。もちろん理想を提示するっていうのは大事だけれど、それだけで終わることに対して無批判的であってはならない。例えばどこかの国で行われている虐殺とか、あるいは紛争を直ちに止めよ! と、そう主張したとします。それが仮に「正当性の問題」をクリアしていたとしても(とは言え、ぼく自身あらゆる暴力に反対する立場にいますが、しかし具体的な個々の事例に対して、ある主張が完全に正当かどうかというのは意外に難しい問題です)、では「戦争反対」を叫ぶその主張がどこまで実効性を伴っているのか。伴っていないことに対して無批判であるのなら、それは単に自己満足に過ぎません。ちょっと念を押しますが、そういった主張自体を批判しているのではないです。立派なことだと思います。ただ、それが単に人間の善性とかに期待するだけで終わるのではなくて、この現実社会に対して何らかの働きかけをし得るその保証を、ぼくらは全力で求めなければならないと、少なくともぼくは思っているということです。だから何かの主張があったとき、それって本当に世界を変えられるの? という点をぼくは考えます。それに対して「いや、みんなで力を合わせれば〜云々」などという返事が返ってくるのであれば、個人的にはちょっとな、となります。みんなって誰だよ、何故、どのようにそれをみんなに共有させられるんだよ、と、結局正当性と実効性の問題をクリアできなくなってしまう。もちろんそれが悪いとは思わないし、個人の信条としては素晴らしいと思うけれど、論になっていない。でもじゃあ実効性があるなら良いのかって言えば、もちろんそんなことはない。排出権取引なんて見ると、あれは確かにビジネスですから、実効性はあるかもしれない。でも正当かどうかって訊かれたら、ぼくは凄く疑問だなあなどと思ってしまうのです。ぼく自身、修士時代は環境経済学をやっていて、ゲーム論で環境保全をみたいな論文書いていましたからあんまり言えないんですけれど、でもだからこそ、あれはやっぱり(倫理的な)正当性はないよなあ、と感じるのです。要は経済活動でしょ、と。その結果環境保全が出来たとしても、じゃあ逆の方向性でお金儲けができるならみんなそっちへ行くだけじゃないですか。

だから、この「正当性の問題」と「実効性の問題」の双方をクリアするような、まあクリアできなくても、少なくともそれを意識して論文を書かないといけないなあ、と個人的には感じています。これは実際はぜんぜん難しいことではなくて、要は何かを書いたり考えたりしたときに、「お前が言うな!」とか「口先だけかよ!」と、自分自身に突っ込みを入れることを忘れないようにしないとね、ということです。

で、最後の第三ですけれども、これはいちばん簡単で同時にいちばん難しいのですが、愛がなくちゃね、ということです。これはとても大切で、研究者としての情熱は凄くあるという人でも、その対象に対する愛がぜんぜんない場合がしばしばあります。もちろん、研究に対する情熱さえなかったら論外です。けれど何よりも、そもそも「対象」なんて線引きすら乗り越える、あらゆる存在に対する愛がないのだったら、そもそもぼくらは研究などするべきではないし、できないと思います。研究っていうのはあくまで手段であって、目的ではない。目的は愛です。そうでないのなら、そりゃテロリストの論理ですよ(テロリストという言葉も難しいですが)。ただ、じゃあその愛って何なのさというとこれはこれでまた難しくて、少なくともそれは「愛してるー!」みたいな甘っちょろいことを指しているのではない。でも愛っていうものを定義しようとすると、必要条件ばかり出てくるんですね。十分条件はまったく見えない。いやこれは見えてしまったら問題で、「こうこうすれば愛だよ」なんて言われたら、それは人間に対する重大な冒涜だとぼくは思う。俺の魂をマニュアル化するな! みたいな。だからいつだって手探りですけれど、でも本能的には分かっている。それを信じて、いつも忘れないようにしないといけないなあと思っています。

当然ですが、これは一般的に言えることではまったくなくて、単にぼくが自分の論文を書くときに、そうでなくても何かを考えるときにいつも気をつけるようにしていることに過ぎません。極端なことは間違いない。けれどもまあ、ぼくは結構、自分のこういうスタンスを気に入っているのです。

[アーカイブ]夜の前まわり(2009/06/08)

最近中々寝つけない。不思議なことに夏が近づくにつれ睡眠時間が減っていくが、それにしてもちょっと不眠ぎみ。三時くらいまではまだまだ大丈夫だなんて余裕があるけれど、四時くらいになると少々憂鬱になってくる。とは言えこうやってブログを書いたりもできるので、悪いことばかりでもない。

先日駅前で盛大に転び、傘を持っていたので変な風に手をついてしまった。骨は痛めなかったけれど(何しろ骨格だけは頑丈なのです)、地味に痛い。やれやれなんて思いながら横断歩道まで行くと、珍しく自動車が止まってくれた。「どうも〜!」という感じで軽く手を上げ渡ろうとしたら、運転席の女性が目を見開いてぼくを見つめていた。何故? と思って右手を見たらだらだらと流れる血で真っ赤。うわあ。とりあえず服を汚さないようにしながら駅へ急ぎ、どうにかスイカを取り出して改札を通る。駅のトイレの洗面所でしばらく血を流してから止血。

ちょっと注意力が落ちているのかもしれない。とは言えこれはよくあることで、だからこそ「用心スキル」を普段から身体に刻み込んでおく必要がある。特に相棒と歩いているときは、彼女はとにかく無用心なひとなので、常に守るように歩かなければならない。自転車や自動車や落下物や道路の凹凸や人間や暴れ牛や、とにかく外には危険が一杯だ。一緒に歩いていると、基本的には心休まる暇がない。

とはいえ常に緊張状態にあるのかと言えばそんなこともなく、夜、相棒と散歩をしていたら、住宅街の中に小さな公園を発見した。ブランコや滑り台、そして鉄棒がある。彼女が「鉄棒をする」と言うので、ぼくもひさしぶりにやってみる。かなり低くてかえって怖いのだけれど、前まわりに挑戦。ぜんぜんできなかった。これはちょっと衝撃的。被害妄想的世界に生きるぼくにとって身体能力の維持管理は必須事項だから、そんな不摂生をしているわけではない。むしろかなり頑健だし筋力もある方だと思う。ところがぐるりと半回転して、頭を下に向けたところでもうにっちもさっちも行かなくなる。子供のころはぐるぐる回っていた記憶があるのに、いつの間にこんな風になってしまったのか?

などとしみじみ感じるような性格はしていないので、しばらくぶらんぶらんして楽しんでいた。相棒は何か鉄棒に絡みついてナマケモノみたいにして遊んでいた。そんな感じで、のんびり過ごしています。

あと学会発表終わりました。残るは今月一杯で別の論文の全面リライトと、その他細々した物事。まあ何とかなるでしょう。

それから彫刻家から連絡があって、向こうでの個展がうまくいき、少しずつ注文も来始めているとのこと。今回の個展のパンフを送ってもらったのだけれど、「新進気鋭」と紹介されていて、何て言うのかな、ぼくはこの年で博士課程に在籍していることに対して一切揺らぐことはないけれど、それでもちょっと勇気づけられる。彫刻家はぼくより年上だけれども、それでもまったく新しい土地で、いままでと作風を変えて一から始めている。それで戦っている。素直に尊敬するし、同時に、負けてはいられないとも思う。

ほんと、負けてはいられないですよね。

[アーカイブ]せめて恥を知ろう(2006/08/20)

言葉には力がある。プログラマなら誰だって知っていることだ。言葉には、世界を造る力がある。いや、言葉そのものが世界だと言ってもいい。それこそがプログラミングの本質だとぼくは思う。だからぼくは、悪い言葉は書きたくない。粗雑な言葉も、粗暴な言葉も、相手を見下したような言葉も書きたくない。もし世界が完璧なら、誰もわざわざ別の世界を造ろうとはしないだろう。この世界がまったく完全どころではないと知っているからこそ、ぼくらはたどたどしくも新しい世界を言葉によって造ろうとするのだ。そうであれば、何もわざわざ不快な世界を造る意味はない。

それにも関わらず、これだけは書きたい。昨日、ふとした流れで行ってきた「小さな骨の動物園展」(INAX GALLERY)。
http://www.inax.co.jp/Culture/2005g/12hone.html

最悪だった。昨日が最終日だから、ぼくも運が悪かった。

これは、小動物の骨格標本の展示。上記のサイトを見てもらえれば、「生命の神秘」とか何とか奇麗事が書いてあるが、そんなものは後づけのおためごかしだ。ぼくは少なからずニヒリスティックなところがあるが、それでも生命をせせら笑うほど落ちぶれてはいない。これは、一生懸命生きてきた動物たちを、死んだ後に晒し者にしているだけでしかない。行かなければ分かってもらえないと思うが、本当に晒し者だった。写真撮影が許可されていたので、多くの人間が、友人たちと笑いながら、デジカメや携帯のカメラで骨を撮っていた。

生命の神秘? 冗談じゃない。下品に笑いながら、後々の話のネタにするために携帯のカメラで動物の死体を撮る連中のどこに、生命への畏敬の念があるというのだ。

何を怒っているのか、分かってもらえないかもしれない。でも、ちょっと想像してみて欲しい。自分が大事に育てた犬が居たとして、いや猫でも金魚でもいいけれど、それが死んでしまったとしよう。その犬が標本にされて、ただ物珍しさや下世話な興味だけで来るような連中に写真を撮られ、「カッコいい!」だの「スゲエ!」だのと笑いながら指をさされるのを見たら、怒りを覚えないだろうか? そうでないのなら、それはそれで良い。あなたはきっととても心の広い人間なのか、あるいはぼくの心が異常に狭いかのどちらかだろう。

でも、少しでも共感してくれるのなら、きっと、あの場の異様さも分かってもらえると思う。どんな生き物も、我々の一時の退屈しのぎのために精一杯生き、死んで、標本になった訳ではない。自分以外の生き物の生も死も、下らない好奇心で触れてよいものではないはずだ。

自分が死んだ後、骨格標本となり、どこの誰とも分からない連中が押し合い圧し合いしながらニヤニヤ笑いつつ携帯を向けて写真を撮りまくる。ちょっとで良いから想像してほしい。死んでしまえばすべては無だと考えているぼくでさえ、そんな仕打ちはごめんこうむりたい。そこに「生命の神秘」とやらを感じる可能性があるというのなら、そう思う人の思考回路こそ神秘に違いない。

「生命の神秘」? 本当に、冗談はやめてほしい。

そうか。きっとぼくは、真実を伴わない、ただ表面だけ取り繕うだけの言葉を平気で使う人間が、嫌いなのだ。まして自分でその欺瞞に気づかないようなら、それはもはや救いようがない。

[アーカイブ]考える/疑う/伝える(2009/07/18)

ある時期、ぼくは会社で新人研修を担当していました。ぼくがいた会社は小さなところでしたので(ソフトウェア会社としては普通でしょうが)、新人研修担当は自分の仕事にまるまるプラスで新人の面倒を見なければなりません。その負担は結構大きいのですが、ぼくはそもそもプログラムそのものも、プログラムに関して考えることも好きなので、この仕事は本当に楽しんでやっていました。

さて、研修において、しばしば新人さんたちが共通して戸惑うことがありました。それは10進‐16進変換です。コンピュータでは2進数が基準になりますから、それをもう少し扱いやすくした16進表記に慣れる必要があります。これは技術的には極めて容易なことですから、慣れてしまえばどうということはありません。けれども、単なるテクニックとして10進‐16進変換ができても、それではあまり面白くないのです。というより、そんなことを言ってしまうとあらゆることが単なるテクニックで片づいてしまう。理解し、使えるというだけでは、三流のプログラマにしかなれないとぼくは思います。「良い歯車」を作る新人研修など反吐が出そうです。

さて、10進‐16進変換に話を戻しますと、新人さんたちはこのように言うことが多いのです。「16進で13は、本当は19です」。プログラムをしているほとんどの方は、こんなこと言わないだろうと思うでしょう。また、プログラムをしない方はそもそも何を言っているのかお分かりにならないかもしれません。けれども、経験的にこういう言い方(この通りでなくとも)をする新人さんを何度も見てきました。要するに、初めて16進数に触れたとき、それはすごく人工的なものに感じられるようなのです。彼らの感覚では、「本当の数」はあくまで10進数であって、16進数は単に技術上便利だから作られた、ある種仮想的なものに過ぎない。だからこそ、最初のうちは10進‐16進変換を頭の中で意識的に変換しないといけないのです。

でも本当にそうなのかな、と、研修担当だったぼくは彼ら/彼女らにねちねち絡みました。いや嘘です、さわやかに絡みました。本当の数ってなんでしょう。10進数だって、人間の恣意に過ぎないのではないでしょうか? 人類の指が基本的に4本4本の8本構成だったら、ぼくらは8進数の世界に生きていたかもしれない。そんな世界では、きっとぼくらは、「10進数の12は、本当は14」だと考えていたかもしれない。本当って、何でしょうね。

ぼくらが直接には表現できない本当の数っていうものがあって、10進も16進も2進も、いや何進数だっていいのだけれど、それは単に、その本当の数のそれぞれ恣意的な現れに過ぎないのかもしれない。それを感覚的に理解している人というのは10進‐16進変換に何の抵抗も抱かないのです。恣意‐恣意変換は、真‐仮変換よりも移行がたやすいということかもしれません。もちろん一般的に言えばそんな変換などたいした手間ではありませんから、慣れてしまえば誰だって問題なくできます。けれども根本的なところでそれは頭の良さに頼った方法ですから、進数の変換だけではなく、あるものとあるものを変換するということにおいて、問題が複雑になるにつれ、だんだん対応するのが大変になってきます。

いずれにせよ、ぼくらは言葉では捉えきれないリアルな何かに対して恣意的に言葉を与え、それを表現し、形を与え、理解可能なものへと落とし込んでいくしかない。それがプログラミングです。それは、不定形のナニモノかを切り落とし、ぼくらが共通認識できる形へと暴力的に整形してしまうことです。それはそうせざるを得ないのですが、けれどもその向こうにある不定形の何かに対する感覚を忘れてはならない。ぼくはそう思います。

と、そんなことをですね、プログラムの基礎を普通に学ぶ一方で、新人さんたちと一緒に考えるのです。無論、この通り話すわけではまったくありません。そもそもここまで話した内容って、完全に適当な法螺です。けれども、ぼくは新人研修において、何よりもまず考えることに重きを置きたかったのです。そして当然、ぼくの法螺に対して疑うということも。

本に書いてあるから、学校で学んだから、先生や先輩が言っているから、あるいはそれが習慣だから。冗談ではありません。そんなものを疑わずに飲み込むようでは、まともなプログラマになどなれるはずもないのです。あらゆるものを考え、疑わなければならない。一方で、ぼくは口だけはうまいので、そんなぼくを言い負かし、言いくるめられるくらいに、自分の考えを伝える能力も身につけなければなりません。プログラミングの知識と技術だけあってもコミュニケーション能力が低くては一流のプログラマにはなれません。プログラマに限らないですが。別に社交的であれ、ということではなく、自分の考えを他人に伝える能力ということです。

一からプログラムを学ぶのは、語学を学ぶときと同じくらい、多くの違和感や疑問を感じるチャンスです。単に技術を学ぶだけなら、誰にだってできるでしょう。けれども、自分の腕に誇りを持てるプログラマになるためには、あるいはプログラムを組むことの楽しさを知るためには、ぼくはその第一歩として、考える/疑う/伝えるということが欠かせないのではないかと思っています。

まあ、全部法螺なのですが。

[アーカイブ]新世紀宮沢賢治(2009/07/29)

ぼくは以前、はてなブログで書いていました。はてなをやめて、ここで書くようになって、そのとき、あまりに投稿が多くてすべては引っ越しませんでした。でもひさしぶりに非公開設定にしてあるはてなブログを眺めてみたら、個人的にはですが、けっこう懐かしくて笑える投稿があるのです。そこで、いまは次の論文に向けてなかなかブログを更新できないでいますし、せっかくなので昔の投稿をこっちに持ってこようと思います。[アーカイブ]カテゴリーでまとめていきますので、良かったらお読みいただければ幸いです。基本、ばかばかしいお話が多いです。というわけで、第一回目は「新世紀宮沢賢治」。そうそう、ぼくは何しろ記憶力がないので、毎回毎回、投稿の間隔が空くたびに自分の文体を忘れていたんですよね。

こんばんは。誰も待っていなかったでしょうけれど、二週間ぶりの雑記です。いや誰も待っていなかったとしてもこのぼくが待っていたのです。雑記! おお何という甘美な響き! 何を書いても誤魔化せ……もとい、許されるというこの究極の自由! などと言いつつ、いつものことですがこのブログの文体を忘れてしまいました。いつもぼく、どんな感じで書いているんでしょうか。良く分かりません。分りませんがまあこのまま書いてみましょう。

昨晩連絡がありまして、論文が通りました。ゎぁぃ。と、少し喜びました。論文は良いですね。反論があってもそれは言葉で来るから、こちらもじっくり言葉で応答することができる。学会発表とかはダメです。相手が何を言っているのか良く分からないけれど、本気で訊き直しているうちに時間が終わってしまう。いや本当に何を言っているのか分らない。そして向こうもぼくが何を言っているのか分らないのでしょう。と思って、前回の学会発表では録音を取りました。セルフ録音。セルフつける意味あるのかな。でも自分の声を聴くのって嫌ですね。自分の歌声とか聴くと、普通に昏倒してその後三日間くらい昏睡できます。あと、人前で話すときはだいたい頭の中が真っ白になっていますから、後になって不安になります。何かとんでもないことを叫んでいたりしなかったかしら、と。だいたいこういうときって身体に刻み込まれた言葉がでてくるでしょうから、ぼくの場合は大学時代にやっていた人形劇の台詞ですね。「お兄ちゃん、お遊戯しよう! お遊戯しよう!」とか「じゃあぼく、これ食べちゃうよ!」とか「うん、ぼく根性ある!」とか、何かそんな言葉が無意識のうちに口から出てしまっているのではないか。そんなことを考えながら、録音機の前でぶるぶる生まれたての小鹿のように震えていたのですが、なあにソクラテスだって毒の杯を飲んだではないか。で、聴いたのが三日前でいままで昏睡していたのですが、意外にまともに喋って受け答えしていました。当たり前か。

そんな感じでそもそも人と話すのが苦手なのですが、その上さらに、どうもぼくは耳が悪いようなのです。いや自分ではそうは思っていなくて、むしろ他の人よりも身の危険を知らせる音には敏感だと思っているのですが、でも実際、人の話している言葉が良く聴き取れないのは事実のようです。特に相棒の話が最近聴き取りにくくて、といってもこれは前からその傾向はあって、彼女の声質のせいもあるとぼくは思っているのですが、ともかく聴き取れないことが多い。先日一緒に食事をしていたときに、彼女が子供のころにどんなおやつを食べていたか、と訊いてきました。子供のころなんていったらあなた、もう三十年弱前ですよ。この前怖い話のまとめサイトを見ていたら、「築三十年の廃屋」とかが出てきて古くて怖〜いとか書いているやつがいた。三十年なんてわけーよ俺の方がこえーのかよ! とか切れやすい十七歳のニバイニバ~イとか思っていたのですが、そのくらい昔のことです。でも話しているうちにいろいろ思い出してきてけっこう懐かしかった。ちょっと話がずれますが、サラリーマンになって何がいちばん嬉しかったかっていったら、これはもうカルピスを原液で飲める! という一事に尽きました。何という贅沢。何というこの背徳感! 気分はもうかぶと虫です。まあそれはともかく相棒にも訊いてみました。きみは子供のころどんなおやつを食べていたの? そうすると彼女は「釣り餌」と答えたのです。いや……いくら何でも、釣り餌はないだろうと思うのですが……しかしもしかしたら、と思わせる何かが彼女にはあります。いやないけど。で、もう一度訊き直したのですが、やっぱり「釣り餌」に聴こえる。「釣り餌!?」と訊きかえすと違うよと言うのだけれど、とりあえず釣り餌でいいやと自己完結して、その話題は終了しました。

そんな感じで、査読つき論文が通りました。まだまだ先は長いけれど、とりあえず博士号に向けて第一関門は突破です。神学士、環境学修士ときて最後は農学博士。脈絡はなさそうですが、目指すは二十一世紀の宮沢賢治。どっどど どどうど どどうど どどう 青いくるみもぶっ殺せ! すっぱいかりんもぶっ殺せ! 「莫迦め、クラムボンは死んだわ」

このブログの文体、どんなんでしたっけ……。

倫理マシン

例えばぼくの世代だと、好き嫌いがあったり我儘を言ったりすると「アフリカの子供たちのことを考えなさい……」的な感じで叱られたりしなかったでしょうか。うーん、どうだろう、いまはこういうのってあまりない気がします。そしてそもそもぼくは両親にこんなことを言われた経験は恐らくなくて、当時の文化というか雰囲気というか、それがぼんやりと形を取ったに過ぎないように思います。

いずれにせよ、ぼくはいまでもこういう言葉が頭のなかに固く残っていて、何か嫌なことや大変なことがあっても、その固いナニモノかが「アフリカの子供たちのことを考えなさい……」と言ってきます。言うまでもなくこれはめちゃくちゃな話で、完全に差別です。何も知らないのに上から目線であの人たちは可哀そうと決めつけている。そして同時に、まさにぼくは何も知らないのであって、だから何の意味もないほど漠然とした言説になっている。繰り返しますがこれは本当にめちゃくちゃな言説です。ただ、それが自分の頭のなかに残ってしまっているということと、それを俯瞰で理解できているということとは併存するということですね。

そしてその漠然性が恐らくポイントでもある。ぼくは自分の頭のなかにあるこの固い何かを倫理マシンと呼んでいます。この倫理マシンは非常に抽象的で、だからこそあらゆる局面に適用可能で、ぼくの行動や思想をつねに監視しています。と書くと何だか常軌を逸しているように思えるかもしれませんが、ぜんぜんそういう話ではありません。誰でも自分のなかにそれぞれ独自の倫理的規範を持っていて、それがいろいろな状況で自分を律してきますよね。要するにそれです。

あ、これ、暗い話ではないですよ。けっこうばかばかしい話です。で、この倫理マシン、他にも幾つか言葉を持っています。そっちはもっと具体的で、あるとき読んだ本の一節が元になっているもの。恐らく上記の「アフリカの……」が倫理マシンの根源で、それが育つなかで、本の言葉を覚え、取り込んでいったということなのだとぼくは理解しています。ともかく、その言葉のなかでも汎用性が高いものが幾つかあり、そのうちの二、三を以下ご紹介します。一つ目は『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』から。

逃げてしまっては、きみは惨めな敗残者になるだけだ。きみはソクラテスのことを思い出す。彼は差し出された毒杯を黙って受け取り飲み干してしまったのだ。

ジェイ・マキナニー『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』高橋源一郎訳、新潮文庫、1991、p.85

怖いこと、嫌なことが待ち受けているとき、それでもその場に行かなければならないというのはしばしばありますよね。そんなときに倫理マシンはこの言葉をぼくに言うのです。「なーに、ソクラテスだって毒の杯を飲んだじゃないか」。確かにそうだなあとぼくは思ってしまいます。これはつらい。ソクラテスを持ち出されたら、もう逃げるわけにはいかないじゃないですか。

二つ目。これはカロッサの『ルーマニア日記』から。この本、素晴らしさに反してあまり知られていない気がするのですが、機会があればぜひお読みください。ぼくが持っているのは新潮文庫版でこれは恐らく絶版ですが、岩波文庫版はいまでも手に入ります。ちょっと長いのですが引用。

朝食の時、少佐が壺からマーマレードをだそうとすると、小さな鼠の死んだのがでてきた。どうして壺の中にはいったのか、誰にもわからない。[…]少佐はちょっときめかねた様子でいたが、それも一瞬間のことで、鼠の死骸を棄てさせ、気味わるさに眼玉の飛びだすような思いをしながらパンにマーマレードを塗り、壺をわれわれの方へまわしてよこした。われわれが身ぶるいするのを見ると、少佐はなおさら沢山塗りつけて、言葉すくなに無愛想にいいだした、鼠は昨夜落ちこんだばかりだ、腐敗の懼れはない、ドイツの町々は飢えにおそわれているのだ、こんなマーマレードをみじめな糠入りのパンに塗って子供たちにやれたらと思っている母親はどれほど沢山いるかわからぬのだ、と。そういいながら、少佐は気味のわるさに顔を歪めて、パンをむりむたいに噛んで呑みこんでしまった。とうとう彼は立ちあがって、立ったままで二枚目のパンにマーマレードを塗りつけ、われわれもまた彼に見ならうかどうかを見定めることなく、その場を外した。そうすると二三の者が声を立てて笑った。少佐を豚という者もいた。しかし誰の顔にも、ぴしりとやられたような気配が認められた。

ハンス・カロッサ『ルーマニア日記』高橋義孝訳、新潮文庫、1994、pp.57-58

ぼくはかなりの潔癖症で、床に落ちたパンとかを拾って食べるのには(その床は毎日拭き掃除をしているので汚くはないのですが)ものすごく抵抗があります。子供のころはとても無理でした。でも倫理マシンがこの一節を取り込んでからは、まあだいたいの汚れについては意思の力で、というほど大げさなものでもないのですが、食べられるようになりました。あと消費期限切れのものとか、表面がカビてしまったジャムとか。倫理マシンがぼくに言います。「こんなマーマレードを……子供たちにやれたらと……」。これもまた強力な命令になります。

挙げればきりがないのですが、あと一つ。サン・テグジュペリの『人間の土地』。言わずと知れた世紀の名著(堀口大學)からの一節です。砂漠に不時着したサン・テグジュペリと同僚のアンドレ・プレヴォー。生還が絶望的ななか彼らが何十キロも走破した晩、プレヴォーはついに泣き出してしまいます。けれどもそれは自分を憐れんで泣くのではありません。――ぼくが泣いているのは、自分のことなんかじゃないよ……。そしてサン・テグジュペリもそのときはっきりと理解します。むしろ助けを求めているのは、もうサン・テグジュペリもプレヴォーも見つからないと思って苦しんでいる、彼らを愛した誰かたちの方なのです。だからこそ、二人は一秒でも早く生還しなければならない。自分のためではなく苦しむ彼ら/彼女らを助けるために。そしてそこで驚異的で偉大な逆転が生じます。

ところが、彼方で人々が発するであろうあの叫び声、あの絶望の大きな炎……、ぼくは考えるだけで、すでにこれには耐えかねる。この多くの難破を前にして、ぼくは腕をこまねいてはいられない! 沈黙の一秒一秒が、ぼくの愛する人々を、すこしずつ虐殺してゆく。はげしい憤怒が、ぼくの中に動きだす、何だというので、沈みかけている人々を助けに、まにあううちに駆けつける邪魔をするさまざまの鎖が、こうまで多くあるのか? なぜぼくらの焚火が、ぼくらの叫びを、世界の果てまで伝えてくれないのか? 我慢しろ……ぼくらが駆けつけてやる! ……ぼくらのほうから駆けつけてやる! ぼくらこそは救援隊だ!

サン・テグジュペリ『人間の土地』堀口大學訳、新潮文庫、1994、pp.143-144

この逆転! 苦しんでいるとき、しかし本当に苦しんでいるのは、苦しんでいるぼくを見る誰かなのかもしれません。あるいは、本来であればぼくが果たすべき責務を果たせないが故に誰かが苦しみ嘆くことになるのであれば、自らの苦難などから無理やりにでも足を引き抜き救援に向かわなければならない。自らの苦難は、だからむしろ、救援するものとしての自己を自らに知らしめるための契機にすぎない……。そんなことを、倫理マシンはぼくの背後で語り続けています。

言うまでもなく、ぼく自身は適当でいい加減で、逃げること以外に関心がない人間です。本を読むのは自分が楽しいからであって、それ以外の理由はありません。物語は常に物語として、それのみで美しい。だけれども同時に、ぼくのなかにある倫理マシンもまた、貪欲にそれらの物語を咀嚼し、そこから彼の糧となるフレーズを取り込み続けていきます。恐ろしいことに、その過程はいまでも続いています。

もちろん、これもまた言うまでもなく、倫理マシンなどといったものは存在しません。頭蓋骨を切り開いてみたところでそんな器官はどこにもない。要するにそれは、誰にでもあるありふれた倫理規範の言い換えにすぎません。それでも、やはりそれは在る。矛盾した言い方ですが、それはぼくに取りついている。だけれども、最初に書いたとおり、これは暗い話ではなくばかばかしい話です。いまだかつて他に見たことがないほど、ぼくは自分をいい加減な人間だと思っています。いい加減オリンピックがあったら金メダルを取れるでしょうが、授賞式をうっかり忘れて欠席するくらいです。そして同時に、薄気味が悪いほど倫理的に自分を律している面もある。誰でもがそうです。そういった分裂を、でもちょっと突き放して眺めてみること。常にぐだぐだ寝そべっている誰かが居て、その誰かをつねにエイエイとどこかへ急き立てようとしている誰かが居る。それって、ちょっと可笑しい光景ですよね。自分自身の生き方とか信条とかイデオロギーとか、まあいろいろありますが、それに囚われつつもどこかから眺めて笑ってもいる。倫理ってそんなものだし、たぶんそれで良いのではないかと、ぼくは思っています。