60mm、F2.2、1/10秒、ISO640、AWB:オート、クリエイティブスタイル:AdobeRGB
60mm、F2.2、1/20秒、ISO100、AWB:オート、クリエイティブスタイル:AdobeRGB
60mm、F2.2、1/10秒、ISO640、AWB:オート、クリエイティブスタイル:AdobeRGB
60mm、F2.2、1/20秒、ISO100、AWB:オート、クリエイティブスタイル:AdobeRGB
いつも書いていることだけれど、ぼくはある特定の日に意味を持たせて何らかの区切りにするような考え方が嫌いだ。そういう外的な要因によって人間の在りようが変わるなどというのは虫唾が走る。ものすごい勢いで走り回って、出会い頭にぶつかって恋が芽生えたりする。成人式とか、最たるものですね。莫迦じゃないかしらと思う。だいたい、ああいった体制側の作ったシステムに乗る若者っていうのがひどく不気味だ。人間はみな非‐体制であるはずなのに、反‐体制ですらない。などと書きながら、でもこれもやっぱり極端な意見で、べつにきみに押しつけるつもりはない。成人式に出てひさしぶりに友人に会ってやあ、なんていうことにも、あるいは会いたい友人はいないけれど母が遺してくれた振袖に初めて袖を通して話す相手もないままけれど誇らしげに式に参加するということにも、そこにはそれぞれの物語があり得るし、実際あるのだとも思う。ただ、ぼくは成人式と言った瞬間、そういった個々のかけがえのない物語がのっぺりとした何かに塗り潰されてしまう気がするし、むしろ塗り潰されるものであるからこそ参加するひとたちがいるということも経験的に感じている。同じように、年末年始というのも別段それほど意味があることだとは思えない。繰りかえすけれど、そこには個別の、固有の物語は生じ得る。さまざまな苦労や苦痛を乗り越え、何も解決はしていないけれど、とりあえず生き残ってやれやれ、などと言いつつ炬燵で年越し蕎麦を食べる。それはそれで美しい光景だろう。けれどももしそこに美しさが生まれたのであれば、それは1月1日0時0分0秒という外的な形式によって生まれたものなのではない。そうではなく、そのある一瞬に永遠と無限を見いだした誰かさんの心のなかからこそ生みだされたものだ。ぼくらの前には、つねに代替不能な一瞬が永遠に連なっている。1月1日0時0分0秒だから特別だと思うのは、2011年7月23日13時51分27秒が持っていた絶対的な唯一性に対する責任と覚悟の放棄であるとしかぼくには思えない。今年も、けっきょくクリスマスがいつか分らないままで終わった。これで神学士だというのだから我ながら驚いてしまう。けれどもともかく、ぼくはある特定の意味づけをされた日の意味を理解することができないし、だから覚えることもできない。まあ、ぼくが真剣に話すと、たいていの場合はおかしいひとだと思われるだけなので、きみもそう思ってくれてまったくかまわない。
同じように(ところで、何が同じなのだろうか)、「思想」などと呼ばれるものをしていると、東西の云々みたいな話がでてくるが、それも虫唾が走る。走り回って転げまわってじゃれついて興奮のあまり引っくり返っておなかをみせて撫でろ撫でろと要求してきたり、もう可愛いといったらない。ともかく、西洋的な何かとかそれに対する東洋的な何かとか、何を言っているのかまったく意味が分らない。ポストコロニアリズムが自らに投げかけた批判というのがこれだけ簡単に忘れ去られてしまう状況というのが恐ろしい。在るのはただある一人の人間の思想であって、そこに聴くべき何かがあるのなら聴けば良い。西洋の、というのが愚かしいことであるのと同じように、それを批判するために東洋の、というのを持ちだすことにも意味があるわけではない。一神教に対する多神教の寛容さ、などという極端な排他主義、イデオロギーでしかない多神教の乱用などにはあまりの倣岸さに目が眩み、お父さん、まるで万華鏡を覗いているみたいだよキラキラしているよなどといって実はそれは街が燃えている火なのだ。いやもちろん、そこに誰かがリアリティを感じるというのであれば、そこから語れば良いのだし、それを批判するつもりはない。ぼくにとっては、それはそのひと独自のリアルな語りとして聴こえるだろう。ただ、「東洋」などといったものがあるとは、ぼくは本当には思っていない。それは実在ではなく所与にすぎない。
線を引いてしまえば、いろいろなことが分りやすくなる。でもたぶん、そんなことには何の意味もない。
もうずっと昔の話。卒論で文化変容について書いた。アクセルロッドとか。そうして、プログラムを組んでシミュレーションをした。いま考えれば幼い限りだが、いまやっていることも幼い限りなので恥じてもしかたがない。院試で卒論の話をするとたいていその大学の教授陣に受けて笑われていたから、ともかく可笑しいものではあったのだろう。それでいい。ただ、いまでも自分なりにおもしろく思うことがある。ぼくは文化というものを混沌とし続けるその過程のなかにしか存在しないものだと思っている。ありふれた考え方だ。そのシミュレータでは抽象化された文化的特性を色で表現するのだけれど、だからぼくは当初、時間の経過とともにその色の分布はより混乱を極めた百花繚乱的なものになっていくと予想していた。しかし実際にそのシミュレーションを走らせると、最終的にその小さな虚構の世界における文化の状態は砂嵐のような像に行き着くのだ、何度走らせても必ず。それは、ぱっとみるとどうしようもなく単調で一様なものだ。さまざまな色がわきたつようにモニターから溢れだすことを期待していたぼくは酷く気落ちした。けれどもしばらくして気づいたのだけれど、砂嵐というのは決して単調なものではない。現実にはそうではないにしても、原理的には一瞬現われた状態は二度と現われない。恐ろしいまでの一回性がどこまでも続いていく。その取り返しのつかない一回性こそがこの世界の本質なのだとぼくは感じた。子どもじみた妄想ではあるけれど、その直感はいまでも正しいと思っている。
ぼくらはこの世界にさまざまな線を引くことで、社会を形作っていく。そしてそうでなければ、ぼくらは生きていけない。だけれども、世界はそもそも、どうしようもなくそれそのものとして在るものだ。この「私」が存在するのは、絶対的な唯一性を持ったある一瞬における世界の総体を、それ自体として引き受けるときで、またそのときのみなのだ。ぼくらは線を引くことによってしかこの世界を理解することができないのかもしれない。けれどもそれは所与のなかでしか在り得ないことに対する諦めとして考えるべきではない。線を引く、ということが可能なのは、ぼくらがある一瞬一瞬にうねり続ける原初の混沌を感じとり、手で触れているということの証左なのだと、ぼくは思っている。
世界は存在する。そうして、だから「私」も存在する。それは宙ぶらりんで在り続けることに対する恐怖を引き受けるということだ。信仰であれ科学であれ思想であれ、その宙ぶらりんであることへの恐怖が出発点にないのであれば、ぼくはそれを侮蔑する。
***
愛だの寂しさだの触れるだの、ほんとうは途轍もない恐ろしさを持った言葉を、けっきょくのところ自己愛の発露としてしか理解していないような言葉を書き連ねて歌詞とやらにして「ロック」だなどとのたまっている連中をみるとほんとうに反吐がでる。この「ほんとう」は宮沢賢治的な意味で理解してもらいたいのだけれど、ほんとうに、反吐がでる。女子大の講義でも「反吐がでるよね」とか言っているので来年の講義はないかもしれないけれどもそれはともかく反吐がでる。来年の生活さえどうなっているか見当もつかないけれども、ともかく、思想とやらをやっているのである以上、ぼくはロックで在り続けたい。
心からそう願っている。
あれはもう一週間ほど前だろうか、ひさしぶりに熱帯植物園に行ってきた。ひさしく会っていないひとと駅前で待ち合わせる。ぼくはひとの顔を覚えるのが極端に苦手なので、大丈夫だろうかと内心不安だったけれど、大丈夫だった。あるひとりの人間が持つ雰囲気というものは、なかなか、記憶からは消えないものだ。というよりも、そういう人間としか、きっとひとは再会できないのだと思う。植物園に向かう道は車通りが激しく、耳の悪いぼくは、後を歩く彼女たちが何を話しているのか、ほとんど分らない。けれども、騒音や空気の寒さや、大通りの反対側に広がるがらんとした空間すべてを含めて、どこか心地よく暖かな空気で満たされていた。
ある関係性を三年以上維持することが、ぼくにはできない。それは人間として何らかの欠陥なのかもしれないし、単にそういう性格だというだけのことかもしれない。それでも残る関係というものは確かにあって、そういった人たちに共通するものは何かと考えてみると、その人たちもまた、どこかに定着できない人びとなのではないかと思う。違うかもしれないけれど。定着できるというのは幸せなことなのかもしれない。人間として必要なことなのかもしれない。だけれども、それが正義であるとか善であるとか、あるいはそうでなければならない何かだ、といわれると、ぼくはどうも、逃げだしたくなる。
ぼくたちの幾人かは、何かによってどこかへ流されていく。幾人かは最初から川底の石にしっかりと根を張っていたり、水を吸って沈んだり、あるいは淀みに入り込んでぐるぐるまわっていたりする。何が良いとか悪いとかではない。天動説と地動説のどちらを選ぶか問い詰め、敵と味方の線引きをしたいわけでもない。川の表面を流されていく幾葉かの落ち葉が、あるときしばらく隣りあって流れていき、離れ、またある日偶然、再会したりする。
まだ届くけれど受け取る誰かさんのいなくなったメールアドレスを、いまだにぼくはアドレスブックに残している。消せない、というわけでもない。消そうと思えば簡単だ。最低なことをひとつ告白すれば、ぼくは届いた手紙の大半を捨てる。物に囚われるのは、本当に恐ろしい。
もう受け取る誰かさんのいないメールアドレスを取っておくのは、別段、感傷からではない。ぼくにはそもそも、感傷などという高級な感情はない。単に、どこかで、いまでもまだこのメールが相手に届くのではないかと自然に感じているからだ。
受け取る誰かさんがまだいることが分っているメールアドレスが何かを届けてくれるとは思えないこともあるし、受け取る誰かさんがもういないことが分っているメールアドレスが何かを届けてくれると思えることもある。
おかしな話だ。おかしな、というのは、頭がどうかしている、ということでもあるし、可笑しくて暖かい気持ちになる、ということでもある。
植物園に行った日、めずらしく、一日穏やかな気持ちで過ごしていた。別れ際、彼女たちが握手をするのを眺めていた。出会うときの握手より、別れるときの握手のほうが暖かさを感じるのは何故だろうか。
落ち葉が流れていき、ある瞬間、偶然か必然か、そんな人間の作った概念など飛び越えて、ぼくらは誰かに出会う。誰かに出合ったという記憶は、あとになって振り返ってみると、何故かいつも静止画で、音もなく、別れの瞬間を刻んでいる。
ひさしぶりに夜の新宿を歩いた。学会の仕事を終えたあと、何となく同僚と先生を新宿駅まで見送り、自分が乗る駅まで歩いて戻る。どこまで歩くかは決めていない。目立たない容姿、目立たない雰囲気。目立たないというのは簡単で、要は慾を消してしまえばいい。人びとの発する慾はノイズとなって空気中に発せられ、溢れるそのノイズの影に身を隠してしまえば、誰とも衝突せず、誰にも目を向けられないで済む。慾のない人間など、ここでは存在しないのと同じことだからだ。雑踏のなかを言葉でない言葉の切れ端が無数に飛び交う。ラジオのダイヤルをぐるぐるまわしているかのように何かが浮かび上がり、すぐにノイズの海に消えていく。
新宿から四谷に進路をとる。昔、よく歩いた道だ。ぼくの働いていた会社は御苑のすぐ近くにあり、仕事が終わると、数駅離れたところまで歩いて相棒を迎えに行った。彼女と落ち合い、途中で食事をし、どうということのない会話を交わしながら新宿へと散歩をする。駅につくと彼女を見送り、ぼくはまた、いまふたりで歩いた道を戻る。御苑前で丸の内線に乗ることもあったし、四谷三丁目まで歩くこともあったし、あるいはさらにその向う、四谷を越えて半蔵門まで行くこともあった。べつに、たいした距離というわけでもない。幾度となく通ってきた道だから、あらゆるところに、彼女と歩いたときの記憶が残されている。その記憶と対話をしながら歩く。
御苑まで行ってしまえば、もう人はだいぶ減る。右手には暗い御苑。土曜日のこの時間は帰宅する会社員もあまりいない。会社のビルの下まで来て、上を見上げれば、もう電気は消えている。昔、ぼくがまだ会社員だったころ、大晦日も会社にいることが幾度かあった。窓からみる新宿の高層ビル群は、きれいではあったけれど、それはきれいだからこそ汚いものでもあった。汚いからこそ美しいものでもあった。
いかなる意味においても、昔を懐かしむということに対して、ぼくは反吐がでる思いしか抱かない。ぼくの過去が悲惨なものであったということではない。言葉どおりの意味で、過去が幸福に満ちたものであったにせよ苦しみしかなかったにせよ、懐かしむ、ということそれ自体に対する嫌悪感。
過去は懐かしく思うようなものではない。ただ単に、いつまでも、どうしようもく在り続けるものだ。懐かしむ、ということには、距離をとれるという前提がある。距離など、とれるはずもない。それはつねにそこに在る。生きていけば生きていくほど、ぼくらは数え切れないほどの過去を抱え込んでいく。それは静かで澄んだ化石のようなもので、けれどいつでもぼくに何かを語りかけている。人ごみのなかで感じる、彼ら/彼女らの発する慾のノイズとはまったく異なる、絶えることのない透明な対話。
なぜ、失ったもののことばかり考えるのか、といわれた。そういうつもりでもないのだけれど、反論はしなかった。失うということは得ることでもあり、得るということは失うということでもある。ぼくらは、二元化しなければものごとを理解できないと思い込まされているけれど、そんなはずはない。ぼくはぼくとしてここに在るのだし、世界も、歴史もまた、それそのものとしてそこにある。ただ、それだけのことだ。
傍らを、若い男女が通り過ぎていく。一時ノイズが高まり、またすぐに止む。
地元の駅で降り、暗い住宅街を歩いていく。時折、暗がりのなかにひとが立ち、空を見上げている。思いだす、今晩は月蝕だった。若い女の子が、きっと自宅の塀なのだろう、背中をぴったりと寄せ目を空に向けているけれど、ぼくが通り過ぎるまで少しばかり身を固くしているのが分る。ぼくはひっそりと苦笑する。中年の男がふたり、向かい合った家の前に立ち、けれど互いに声を交わすでもなく空を見上げている。ぽつぽつと、そういった人びとがいる。ノイズは聴こえない。
家に降りていく階段のうえで、しばらくぼんやりと空を見上げる。暗闇のなかで、自分が完全に消えるのを待つ。消えることは在ることで、在ることは消えることでもある。
ぼくは、そんなふうに思っている。
ほんのしばらく、相棒が動物の世話をすることになった。その生き物はどんぐりや杉の実を食べるかもしれないというので、数日のあいだ、ぼくもどんぐりを探しながら道を歩いていた。ひさしぶりに大学へ寄るとき、途中の道沿いの家で、庭師のお爺さんが剪定をしていた。ぼくはこれはちょうどよいと思い、杉の葉を幾束かもらうことにした。「すみません、ここにある杉の葉、少し分けていただいてもよろしいですか?」「松の葉だな」といわれ、はい、とにこにこしながら貰ったものの、自分の呆け具合に少々不安になった。確かにこれは松の葉で、杉の葉ではない。そもそもぼくは、杉の実がほしかったのではないのか。それがどうして松の葉っぱを抱えて歩いているのか。大学につき、構内で定年退職した老先生にばったりお会いする。「こんにちは!」元気に挨拶するのがぼくの良いところ。老先生は松の葉っぱを振り回しながら歩いているぼくをみて「はっはっは」と笑いながら挨拶を返してくれた。相棒の研究室に寄り、葉っぱを渡す。杉の実が松の葉に変わったところで、いまさら驚くような彼女ではない。まあ入れたら遊び道具にするかも、とフォローしてくれたので、とりあえず渡しておく。その生き物は夜行性なので、ぼくがいるあいだずっと眠っていた。それも先週の話で、彼(彼女?)は無事に怪我も手術してもらい、もと居た山へ相棒によって返されていった。
あるいはこんなこと。こうみえてぼくはかなりのええ格好しいだ。女子大へ行くとき、いつも同じ服ではまずいと思い(無論ちゃんと洗濯はしている。服など持っていないだけだ。自慢にもならないが)、仕事帰りに、乗換駅にできたユニクロなるものに寄り、カーディガンというか何というか、とにかくそんなものを買った。癖毛にちゃんとブラシを通し、洗いたてのワイシャツにほこほこしたカーディガンを羽織ると、あら不思議、驚くほどひとあたりの良さそうなお兄さんのできあがり。と思ってえへんえへんと彼女のところへ行くと、「それ新しく買ったの?」と訊いてくる。「そうそう、ユニクロってところに行って買ったの!」と勇んで報告。いくらかというので3,000円くらいだったと答えると「どうみてもその値段には思えない」という。そうだろうそうだろう、ぼくのように格好良いと、着ている服も何倍にも映えるのであろう、などとは思わない。「1,000円くらいに見える?」と訊けば、「500円くらい」と言われた。言い訳をすれば、ぼくは肩幅だけはあるのだけれど極端になで肩なので、たいていの服はすぐに格好悪く型崩れしてしまい、まるで着古して伸びてしまったようにみえるのだ。説得力のない公式見解。
講義のとき、めずらしく疲れきってしまっていて、思わず座ってしまった。もちろん、しゃがんだということではなく、教壇の椅子に、ちゃんと格好をつけて。少し早めに講義を終わらせてもらって、講師室で休憩。一息入れて大学へ戻り、幾つかの作業をこなす。研究仲間と少し飲んで、家に戻ってから幾冊かの本を読む。
どうということのない日常。けれども、充実した日常。
もう限界のような気もするし、まだまだいくらでもアクセルを踏めるような気もする。ぼくは、言葉で自分を鎧うことに関しては天才的な技能を持っている。天才「的」であって天才ではないところが悲しい話ではあるけれど、所詮は器用さだけが取り得の人間だ。ともかく、ぼくは言葉で自分を鎧う。イメージとしては、何枚もの鉄の板で自分の魂を幾重にも縛りつける。ぎりぎりと締めつける。ぼく自身はたいして強いわけでも頭が良いわけでもないけれど、そうして自己暗示にかけることによって、たいていのことには耐えられるようになる。縛りつけすぎて歪んでしまった鉄の壁のむこうに、いまでもぼくがいるのかどうかは、すでにずっと以前から分らなくなっている。どのみち、それは大した問題ではない。ぼくと呼ばれる何ものかが存在して、そうして、確かに存在している。それ以上の何かに必要は感じていない。必要なのは存在することであって、存在するものではない。
彼女とどんぐりを探していた日の昼、道端にいもむしが転がっていた。ぼくは目が悪いけれど、そういったものは目に留まる。ほらほら、と彼女に教えると、彼女はさっと掬って草叢の奥へそれを放す。同じ日の夜、彼女の家に歩いて行く途中、暗闇の中にうずくまるがまがえるがいる。夜目は利かないけれど何故だかぼくにはそれが見える。彼女にほらほら、と教えると、彼女はさっと掬って草叢の奥へそれを放す。
どうということのない日常。アクセルを踏み続けるけれど、穏やかな日々。天才というものは、驚くべきことだけれど、確かに存在する。だけれども、ある瞬間、何の才能も持たない凡人がその天才に並び立つ。さらにその一歩先へと踏みだす。ぼくはその瞬間があることを知っている。
60mm、F2.5、1/50秒、ISO200、AWB:オート、クリエイティブスタイル:AdobeRGB
60mm、F2.0、1/100秒、ISO640、AWB:オート、クリエイティブスタイル:スタンダード
20.0mm、F5.3、1/20秒、ISO100、AWB:オート、クリエイティブスタイル:AdobeRGB
力任せに投げた小石が強く川面を弾き、向こう岸まで飛んでいく。隣にいた彼女が呆れたように笑い、そうじゃないよ、といって軽く小石を投げると、それは美しい波紋を五つ六つと残し、小さな音を立てて水底に沈む。きみは不貞腐れたように川縁に腰を下ろす。――そういう器用なやりかたっていうのは肌に合わないんだよ。きみの隣に座った彼女は頷き、真面目な顔をしていう。――きみがそういう性格なのはよく分かっているけど、でもそれだといろいろ大変だよ、きっと。きみは顔をしかめ、手近にある小石を川に放った。――そんなこと言われなくても分っているよ。ま、なるようにしかならないんだから、仕方がないさ。彼女は少し寂しそうに笑い、――それはそうだけどね、というと、きみの真似をして、やる気もなく小石を川に投げ込んだ。波紋が波に消えると同時に、向うからきみたちを呼ぶ声が届く。そろそろ夕食の準備を始める時間だった。
きみたちは大学時代同じサークルにいた者同士で、昔合宿で毎年訪れていた寺に再び泊まりにきていた。山間の澄んだ川を見下ろす位置にある寺で、きみたちは学生時代、地元の子どもたちに人形劇の公演をしにきていたのだ。大半が就職をしているなか、きみはいまだに学生を続け、彼女はバイトで暮らしていた。だからどうだということもなかったが、どことなく肩身が狭いのもまた確かで、いつのまにかきみと彼女は他のみんなから離れ、ひっそりとやり過ごすことが増えていた。皆が集まるのは二年ぶりだったが、けれどもその二年は、先の見えない学生時代という特別な時期を共有していた仲間たちを別つのには十分だったのだろう。仕事の苦労話や車のローンの話などを自然に語る彼らの間に、きみはもうどうやって入ったら良いのか分らなくなっていた。彼女も、きっとそうだったのかもしれない。たかだか二泊三日の旅行だったが、きみたちは自然と二人でいるようになっていた。傷を舐めあう、などということではなく、単に、極かすかにだったとしても、共有しあう何かがあると思えたからだろう。
対人恐怖症で不器用で壁にぶつかったらいつまでもぶつかり続けるようなきみとは違い、彼女は人当たりもよく、器用で頭も良かった。そんな彼女がなぜいまだに就職もせずその日暮らしを続けているのか、本当のところは、きみにはよく分からなかった。二日目の夜、宴会の盛り上がりから離れ、きみと彼女は縁側に出て風にあたっていた。田舎の夜空には恐ろしいほどに星が溢れている。吸い込まれてしまうような気がして慌てて目を逸らし、きみは隣にいる彼女を見る。所在なさ気に団扇をもてあそんでいた彼女が、きみを見返す。きみは気になっていたことを彼女に訊ねてみた。――……あのさ、俺は、もうどうやっても卒業とか無理だと思うんだよね。実際、大学へ行っただけで息が詰まって吐きそうになるんだ。恥ずかしい話だけどさ。彼女は悲しそうに、川を挟んだ向かいにある暗い山なみに目をやる。――でもきみはちゃんと卒業もしたし、成績だって悪くはなかった。それなのに……。――それなのに、何? 彼女はいつの間にか俯いたまま微笑んでいた。何だってきみは俺と同じ側にいるんだ? きみは、その疑問を口にできないまま、いや、何でもないよと誤魔化し、昨晩皆でやった花火の残りを持ってくると、彼女とふたりで線香花火をした。
もう、それも十数年昔の話だ。きみはいまだに何者にもなれず、既にあのころ時間を共有していた誰とも連絡をとることはなくなっていた。きみはある女子大で、ほんの幾つかの講義を持つようになった。何人かの生徒はきみの話を聴き、何人かの生徒は教室に入るなり後ろの方の席で輪になり、あとはひたすらお喋りにいそしんでいる。それはそれで、きみにはどうでもいいことだった。講義を聴いている学生の迷惑にならない程度なら、私語をしようが携帯を眺めていようが、それは本人の選択だときみは思っていたからだ。結局最初の大学を中退したきみには、講義をまじめに受けるよう彼女たちに働きかけるいかなる理由もなかった。
けれども、時折、きみは叫びだしそうになる。彼女たちの、生きていることに対する盲目的で無根拠な自信が、きみを苛立たせる。いや、それは苛立ちではない、嫉妬ですらない。それは恐怖だった。講義の間、ふと、きみは急激な吐き気に襲われる。きみは彼女たちが恐ろしかった。蜂のようなざわめき、光があることを当然のように受け入れるその笑顔が、きみには途轍もなく恐ろしく思えたのだ。けれども、震える足を力で抑え、きみは講義を続けた。
きみよりも器用で、きみよりも人当たりがよく、きみよりもはるかに頭の良かった彼女は、けれどもきみよりも早く、この世界から退場することを選んだ。いま、きみには何となく分る気がしている。いまだに留まり続けているきみは、要するに、それだけ鈍く、それだけ愚かだったということなのだ。――ま、なるようにしかならないんだから、仕方がないさ。驚くほど疲れきった声で、きみは自分に語りかける。
線香花火をすべて燃やし終えたあと、きみと彼女は夜の川辺へと降りていった。小さく浅い川は、けれど夜に沈み、あまりに黒く深い。それでも彼女はスカートを膝まで上げて軽く縛ると、ばしゃばしゃと水を撥ねさせ水の中へと入っていく。危ないぞ、というきみに柔らかく光を放つような笑顔を向け、大丈夫だもん、と子どものようにいう。そしてふいに、真剣な声音できみに訊ねる。――ねえ、何だかこれって、時間の流れみたいだよね。きみは無駄に堅く縛った靴紐を解きながら聞き返す。――時間の流れ? どういうことさ。彼女は直接は答えず、さらに問いを重ねる。――川上と川下、どっちが未来で、どっちが過去だと思う? 時間が流れるものなら、川上が過去で、川下が未来。でも、私は逆の気がする。水に流されて消えていくのが過去で、流れに逆らって進むのが未来なの。私は、きっと流されるだけだな。彼女の声が遠ざかる気がして、きみは慌てて靴を脱ぎ捨て、川に入る。あっという間に、ジーンズが重く水を吸う。川のせせらぎに混じり、どこからか彼女の声が聴こえてくる。――きっときみなら進めるよ。いまは立ち止まっているだけのように思えても、きっと、進める。
それが、きみの記憶に残る、最後の彼女の言葉だ。旅行から戻った後も幾度か彼女に会ったが、いまでも覚えているのは、あの夜の彼女の声。彼女が過去に消えてしまったのか、あるいは先に未来へと行ってしまったのか。どのみち、きみが独りで残されたことに変わりはない。ふと、教室が静まり返っていることに気づき、きみは我にかえる。学生たちが、きみを薄気味悪そうに、あるいは莫迦にしたような笑みを浮かべて眺めている。きみは何事もなかったかのように講義を再開する。
あのときの黒い川のただ中に、きみはいまでも立ち竦んでいる。恐怖をこらえ、吐き気をこらえつつ、きみは流れていく水を感じている。