いつかの記憶を写真にしてきみに送るよ

あれはもう一週間ほど前だろうか、ひさしぶりに熱帯植物園に行ってきた。ひさしく会っていないひとと駅前で待ち合わせる。ぼくはひとの顔を覚えるのが極端に苦手なので、大丈夫だろうかと内心不安だったけれど、大丈夫だった。あるひとりの人間が持つ雰囲気というものは、なかなか、記憶からは消えないものだ。というよりも、そういう人間としか、きっとひとは再会できないのだと思う。植物園に向かう道は車通りが激しく、耳の悪いぼくは、後を歩く彼女たちが何を話しているのか、ほとんど分らない。けれども、騒音や空気の寒さや、大通りの反対側に広がるがらんとした空間すべてを含めて、どこか心地よく暖かな空気で満たされていた。

ある関係性を三年以上維持することが、ぼくにはできない。それは人間として何らかの欠陥なのかもしれないし、単にそういう性格だというだけのことかもしれない。それでも残る関係というものは確かにあって、そういった人たちに共通するものは何かと考えてみると、その人たちもまた、どこかに定着できない人びとなのではないかと思う。違うかもしれないけれど。定着できるというのは幸せなことなのかもしれない。人間として必要なことなのかもしれない。だけれども、それが正義であるとか善であるとか、あるいはそうでなければならない何かだ、といわれると、ぼくはどうも、逃げだしたくなる。

ぼくたちの幾人かは、何かによってどこかへ流されていく。幾人かは最初から川底の石にしっかりと根を張っていたり、水を吸って沈んだり、あるいは淀みに入り込んでぐるぐるまわっていたりする。何が良いとか悪いとかではない。天動説と地動説のどちらを選ぶか問い詰め、敵と味方の線引きをしたいわけでもない。川の表面を流されていく幾葉かの落ち葉が、あるときしばらく隣りあって流れていき、離れ、またある日偶然、再会したりする。

まだ届くけれど受け取る誰かさんのいなくなったメールアドレスを、いまだにぼくはアドレスブックに残している。消せない、というわけでもない。消そうと思えば簡単だ。最低なことをひとつ告白すれば、ぼくは届いた手紙の大半を捨てる。物に囚われるのは、本当に恐ろしい。

もう受け取る誰かさんのいないメールアドレスを取っておくのは、別段、感傷からではない。ぼくにはそもそも、感傷などという高級な感情はない。単に、どこかで、いまでもまだこのメールが相手に届くのではないかと自然に感じているからだ。

受け取る誰かさんがまだいることが分っているメールアドレスが何かを届けてくれるとは思えないこともあるし、受け取る誰かさんがもういないことが分っているメールアドレスが何かを届けてくれると思えることもある。

おかしな話だ。おかしな、というのは、頭がどうかしている、ということでもあるし、可笑しくて暖かい気持ちになる、ということでもある。

植物園に行った日、めずらしく、一日穏やかな気持ちで過ごしていた。別れ際、彼女たちが握手をするのを眺めていた。出会うときの握手より、別れるときの握手のほうが暖かさを感じるのは何故だろうか。

落ち葉が流れていき、ある瞬間、偶然か必然か、そんな人間の作った概念など飛び越えて、ぼくらは誰かに出会う。誰かに出合ったという記憶は、あとになって振り返ってみると、何故かいつも静止画で、音もなく、別れの瞬間を刻んでいる。

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