いつも書いていることだけれど、ぼくはある特定の日に意味を持たせて何らかの区切りにするような考え方が嫌いだ。そういう外的な要因によって人間の在りようが変わるなどというのは虫唾が走る。ものすごい勢いで走り回って、出会い頭にぶつかって恋が芽生えたりする。成人式とか、最たるものですね。莫迦じゃないかしらと思う。だいたい、ああいった体制側の作ったシステムに乗る若者っていうのがひどく不気味だ。人間はみな非‐体制であるはずなのに、反‐体制ですらない。などと書きながら、でもこれもやっぱり極端な意見で、べつにきみに押しつけるつもりはない。成人式に出てひさしぶりに友人に会ってやあ、なんていうことにも、あるいは会いたい友人はいないけれど母が遺してくれた振袖に初めて袖を通して話す相手もないままけれど誇らしげに式に参加するということにも、そこにはそれぞれの物語があり得るし、実際あるのだとも思う。ただ、ぼくは成人式と言った瞬間、そういった個々のかけがえのない物語がのっぺりとした何かに塗り潰されてしまう気がするし、むしろ塗り潰されるものであるからこそ参加するひとたちがいるということも経験的に感じている。同じように、年末年始というのも別段それほど意味があることだとは思えない。繰りかえすけれど、そこには個別の、固有の物語は生じ得る。さまざまな苦労や苦痛を乗り越え、何も解決はしていないけれど、とりあえず生き残ってやれやれ、などと言いつつ炬燵で年越し蕎麦を食べる。それはそれで美しい光景だろう。けれどももしそこに美しさが生まれたのであれば、それは1月1日0時0分0秒という外的な形式によって生まれたものなのではない。そうではなく、そのある一瞬に永遠と無限を見いだした誰かさんの心のなかからこそ生みだされたものだ。ぼくらの前には、つねに代替不能な一瞬が永遠に連なっている。1月1日0時0分0秒だから特別だと思うのは、2011年7月23日13時51分27秒が持っていた絶対的な唯一性に対する責任と覚悟の放棄であるとしかぼくには思えない。今年も、けっきょくクリスマスがいつか分らないままで終わった。これで神学士だというのだから我ながら驚いてしまう。けれどもともかく、ぼくはある特定の意味づけをされた日の意味を理解することができないし、だから覚えることもできない。まあ、ぼくが真剣に話すと、たいていの場合はおかしいひとだと思われるだけなので、きみもそう思ってくれてまったくかまわない。
同じように(ところで、何が同じなのだろうか)、「思想」などと呼ばれるものをしていると、東西の云々みたいな話がでてくるが、それも虫唾が走る。走り回って転げまわってじゃれついて興奮のあまり引っくり返っておなかをみせて撫でろ撫でろと要求してきたり、もう可愛いといったらない。ともかく、西洋的な何かとかそれに対する東洋的な何かとか、何を言っているのかまったく意味が分らない。ポストコロニアリズムが自らに投げかけた批判というのがこれだけ簡単に忘れ去られてしまう状況というのが恐ろしい。在るのはただある一人の人間の思想であって、そこに聴くべき何かがあるのなら聴けば良い。西洋の、というのが愚かしいことであるのと同じように、それを批判するために東洋の、というのを持ちだすことにも意味があるわけではない。一神教に対する多神教の寛容さ、などという極端な排他主義、イデオロギーでしかない多神教の乱用などにはあまりの倣岸さに目が眩み、お父さん、まるで万華鏡を覗いているみたいだよキラキラしているよなどといって実はそれは街が燃えている火なのだ。いやもちろん、そこに誰かがリアリティを感じるというのであれば、そこから語れば良いのだし、それを批判するつもりはない。ぼくにとっては、それはそのひと独自のリアルな語りとして聴こえるだろう。ただ、「東洋」などといったものがあるとは、ぼくは本当には思っていない。それは実在ではなく所与にすぎない。
線を引いてしまえば、いろいろなことが分りやすくなる。でもたぶん、そんなことには何の意味もない。
もうずっと昔の話。卒論で文化変容について書いた。アクセルロッドとか。そうして、プログラムを組んでシミュレーションをした。いま考えれば幼い限りだが、いまやっていることも幼い限りなので恥じてもしかたがない。院試で卒論の話をするとたいていその大学の教授陣に受けて笑われていたから、ともかく可笑しいものではあったのだろう。それでいい。ただ、いまでも自分なりにおもしろく思うことがある。ぼくは文化というものを混沌とし続けるその過程のなかにしか存在しないものだと思っている。ありふれた考え方だ。そのシミュレータでは抽象化された文化的特性を色で表現するのだけれど、だからぼくは当初、時間の経過とともにその色の分布はより混乱を極めた百花繚乱的なものになっていくと予想していた。しかし実際にそのシミュレーションを走らせると、最終的にその小さな虚構の世界における文化の状態は砂嵐のような像に行き着くのだ、何度走らせても必ず。それは、ぱっとみるとどうしようもなく単調で一様なものだ。さまざまな色がわきたつようにモニターから溢れだすことを期待していたぼくは酷く気落ちした。けれどもしばらくして気づいたのだけれど、砂嵐というのは決して単調なものではない。現実にはそうではないにしても、原理的には一瞬現われた状態は二度と現われない。恐ろしいまでの一回性がどこまでも続いていく。その取り返しのつかない一回性こそがこの世界の本質なのだとぼくは感じた。子どもじみた妄想ではあるけれど、その直感はいまでも正しいと思っている。
ぼくらはこの世界にさまざまな線を引くことで、社会を形作っていく。そしてそうでなければ、ぼくらは生きていけない。だけれども、世界はそもそも、どうしようもなくそれそのものとして在るものだ。この「私」が存在するのは、絶対的な唯一性を持ったある一瞬における世界の総体を、それ自体として引き受けるときで、またそのときのみなのだ。ぼくらは線を引くことによってしかこの世界を理解することができないのかもしれない。けれどもそれは所与のなかでしか在り得ないことに対する諦めとして考えるべきではない。線を引く、ということが可能なのは、ぼくらがある一瞬一瞬にうねり続ける原初の混沌を感じとり、手で触れているということの証左なのだと、ぼくは思っている。
世界は存在する。そうして、だから「私」も存在する。それは宙ぶらりんで在り続けることに対する恐怖を引き受けるということだ。信仰であれ科学であれ思想であれ、その宙ぶらりんであることへの恐怖が出発点にないのであれば、ぼくはそれを侮蔑する。
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愛だの寂しさだの触れるだの、ほんとうは途轍もない恐ろしさを持った言葉を、けっきょくのところ自己愛の発露としてしか理解していないような言葉を書き連ねて歌詞とやらにして「ロック」だなどとのたまっている連中をみるとほんとうに反吐がでる。この「ほんとう」は宮沢賢治的な意味で理解してもらいたいのだけれど、ほんとうに、反吐がでる。女子大の講義でも「反吐がでるよね」とか言っているので来年の講義はないかもしれないけれどもそれはともかく反吐がでる。来年の生活さえどうなっているか見当もつかないけれども、ともかく、思想とやらをやっているのである以上、ぼくはロックで在り続けたい。
心からそう願っている。