プンクトゥム

先週でようやく講義が終わりました。いちおう毎週レジュメを作成し、気がつけばA4で200枚超。内容は大学1、2年生向けですが、量だけでいえば博論よりも書いたことになります。前半は仕事のピークが重なり、後半はお手伝いや業務で読まなければならない論文が相当数あったので、振り返ってみればよく乗り切ったものだという気もします。まあ実際のところは、まだ終わったという実感がわかないのですが。ともかく、これでベースはできたので、来年は今回よりももう少しだけ楽しい講義になるようにしたいと思っています。

まだこれから忙しくなる作業も残ってはいるのですが、少しずつ、自分の論文も進めています。先日の発表は、ぼくとしては初めての試みだったのですが、写真論をやりました。講義の際にとある研究者の映画論を扱ったのですが、面白いと思う反面、納得のいかないところもあったのです。そうして、その日の講義が終わった後ふと書店により、気がつけばバルトの『明るい部屋 ― 写真についての覚書』、そしてソンタグの『他者への苦痛のまなざし』を手に取っていました。これ、どちらもとても面白い本ですので、お勧めです。

何かもやもやしたものがあるとき、自分でも分からないままに手を伸ばすと、そのもやもやにかたちを与えてやることができるような本にであえる。そういった直感があるかぎりは、ぼくもまだ、いまの生き方を変えることはできないように思います。

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発表では、特に近現代におけるメディアの進展というものが他者との関係性を抽象的で空虚なものにしていくといったような、いわばありきたりな批判に対する反論をしました。まだまだ荒い議論ですが、いいたいことは描きだせました。ちょっと最後のところを抜き出してみましょう。

メディアは、まさに目を逸らしようもないものとして存在する他者を我々の眼前に映しだす。そうして、それだけでしかない。しかしそれこそが、他の誰でもないこの私の固有性を照らしだすのである。私は私である限りにおいて、私を私たらしめた他者に対して責任があるし、またそこにしか私を私たらしめる実感はない。
電子的なメディアの上を無数に流動する消費されるものとしての他者たち。だがそれは幻想に過ぎない。メディアの向こうにいる他者は、この私が本来そうである――そして同時にかつてそうであったことなど一度もない「私」へと私を立ち返らせるひとつの無力な契機に過ぎない。しかしそれは、私と他者を責任の名において結ぶ、確かな強度を持った奇跡でもあるのだ。

ぼくの発表というのは、良いのか悪いのかはわかりませんが、まあだいたいいつもこんな感じです。研究室のひとたちはみな正統派というか、まっとうな感じでレジュメを作ってまっとうな感じで発表をするので、自分の発表のときにふと我に返ったりすると恥ずかしいのですが、でも良いのです。親戚にひとりくらいいる困った伯父さんぼくの伯父さんみたいなものです。それに、ぼくなりのかたちでですが、ほんとうの意味で力を持った言葉を書きたいし、発したいと願っている以上、どうしてもこういうやりかたでしか発表ができないのだから、もうそれはしかたのないことです。

けれども、実は今回はじめてソンタグを読んだのですが、やはり凄いですね。とてもとても、足下にも及ばないのを実感します。

これは地獄だと言うことは、もちろん、人々をその地獄から救い出し、地獄の業火を和らげる方法を示すことではない。それでもなお[…]悪の存在に絶えず驚き、人間が他の人間にたいして陰惨な残虐行為をどこまで犯しかねないかという証拠を前にするたびに、幻滅を感じる(あるいは信じようとしない)人間は、道徳的・心理的に成人とは言えない。(p.114)

ちょっと省略の位置があれですが、興味のある方はぜひ手にとってお読みください。バトラーにしろソンタグにしろ、あるいはバディウやリンギスでも良いですが、虚仮脅しでも自己陶酔でもない、凄まじいまでの気迫をこめた言葉を書けるというのがすばらしい。いつか自分もその地点にまで到達できればと願っています。

ともあれ、これでしばらく講義はありません。また少し、ブログの更新頻度をあげられたら、いいなあ。

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