疾走

ある一瞬のために生きろというのは、ある一瞬のために死ねということだ。生も死も所詮は人間の作った言葉に過ぎず、それは本当は等価だ。そして恐ろしいことに、ぼくらはそのような一瞬を無数に持っている。無数に。

ぼくには相棒以外に仲間はいないし、別段、欲しいと思ったこともない。もし一人でも仲間を得たのであれば、それは途轍もない幸運だ。幸運というのは、いうまでもなく幸福ではない。それもまた恐怖のひとつのかたちだ。在ることと無いことの狭間を、支えるものもないままにぼくら全力で疾走する。そうして最後にどこかへ落ちていく。

もし救いを語る哲学というのがあれば、ぼくはそんなものを唾棄するし、そもそもそれは哲学ではないだろう。希望、人間性、善、正義、倫理。しかし絶望というのもまたひとつの救いの在り方だ。虚無というのも、きっとそうだろう。けれども、そうではない。やはり希望はあるし、絶望も虚無もある。それらすべてをひっくるめて世界はどうしようもなく在って、ぼくらは自分の世界線の上を支えもなしに疾走する。ストロボのように走るぼくらのフォームが一瞬一瞬浮びあがり、焼き付けられ、永遠に残る。暗室につりさげられた無数のネガ。それを誰かが世界の外から眺めている。だけれども、それはぼく自身の眼だ。

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最近、言葉を話すのがひどく億劫だ。別に、疲れているわけではない。ぼくはいつでも絶好調だし、絶好調以外ではいられないことに疲れることさえできない。絶好調とはつまり、存在している、ということだ。ぼくは存在している。どうしようもなく、存在している。

スイッチを想像して、指で軽く弾く。気味が悪いくらい器用だよねと言われてきたぼくのなかにある無数の会話パターンの一つが自動的に選ばれ、必要とされる反応を返してくれる。あまりにも絶好調すぎて、存在しているものがはるか後方に過ぎ去っていく。

あたりまえのことだけれど、自分の家のなかであれば、目を瞑ったままでほぼあらゆることができる。いつもとは異なることをするのでなければ、一度も目を開けることなく一日を過ごすこともできるだろう。目を瞑ったままインスタントコーヒーを淹れ、自室に戻り、一口啜る。蹲り、呼吸を止め、疾走するイメージに集中する。限りなく加速する。

だけれども、ただまっすぐ立っていることができない。両足を踏みしめても、あっという間に平衡感覚を失い、よろけてしまう。それがやけに可笑しい。

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精神の風が粘土の上を吹いてこそ、初めて人間は創られる、とサン・テグジュペリは言った。そうだろう。ぼくもそう思う。だけれども、ではその風はどこから吹いてくるのか。それはきっと、ぼくらが疾走するからだ。ぼくらは疾走するからこそ風を受けぼくらになる。ぼくらはぼくらになったからこそ疾走して風を受ける。走り続け風を受け続けることによりぼくらは粘土から削りだされぼくらになり、走り続け風を受け続けることによりぼくらは削り取られ砂に還る。すべては両義で、同義だ。

頭痛が止まらない。ぼくは冬が好きだ。風が強く吹き、穴だらけのセーターから容赦なく冷気が侵入してくる。頭がどうかしそうなほどに身体が凍え、震えが止まらない。腐ったように熱を持つ脳が凍り、その瞬間、自分の魂が全方向に向かって疾走を始める。

いつか疾走する自分を追い抜き、世界の外から自分を眺める自分を眺めている。

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