小さな綿毛がいつまでも空中に留まっているのを見た

不思議なものを見た。彼女とひさしぶりに幾つかのギャラリーや美術館を巡ったときのこと。見知らぬ女の子が、天井から吊り下げられた作品の前でパンフレットを落としてしまった。落ちたパンフレットはその作品の下にするりと入り込んでしまう。けれども、女の子が腰をかがめ手を伸ばすと、フィルムを逆回しするようにパンフレットが女の子の手に戻ったのだ。不思議なことは不思議なことで、それ以上でもそれ以下でもない。合理的あるいは非合理的な理由を考ようと思えば幾らでも思いつくけれど、そうすることに意味はないし、面白みもない。

彼女とぼくは、行こうと思っていた美術館を見つけられず、少しばかりぐるぐると歩き回っていた。するとビルの狭間に稲荷神社があるのを彼女が見つけた。ぼくらは壁の間を擦るように進む。ぼくは財布から五円玉を出してお賽銭箱に入れ、彼女は、何というのだろうか、あの鈴のついた縄を振ってジャラジャラと鳴らし、そしてしばらく、二人で手を合わせていた。ぼくに信仰心はないけれど、まあ、挨拶だけは欠かさずする。とてもあんな事件を起こすような人には見えませんでした。いつも爽やかに挨拶をしていました。いま思えばその爽やかさがどこか不気味でした。いつか知り合いの誰かさんたちにそう言われるようになるのがぼくのささやかな夢だ。ともかく、あの細い隙間に、けれどもきちんと祭られていたお稲荷さんもまた、不思議な光景だった。

美術館で絵を観る彼女をぼくは観る。既に人生の半分以上を、彼女だけを眺めて過ごしてきたけれど、いまだにその存在は不思議で、美しい。

いろいろなかたちの不思議がある。それぞれに唯一のかたちを持った不思議。

不思議を抱えたものはたいてい美しく、美しいものはたいてい不思議を抱えている。ぼくたち人間は不思議を不思議のままにしておくことに耐え切れるほど強くはない。それ故、人間の世界は不思議が存在することを許さない。ぼくらはすぐにそこに理由をつけようとする。名前をつけようとする。超常現象、などというのは、不思議を受けとめるものではまったくない。そう名づけた箱のなかに不思議を投げ込み、それでお終いにしようというだけの倣岸で浅薄な愚行に過ぎない。ぼくはそういった愚かさを嫌悪する。

不思議を抱えているということは、それだけで常軌を逸した強さを持っているということだ。だから、ぼくにとっての美しさというのは、不思議を不思議として抱え続ける強さのなかにこそ生まれるものらしい。いうまでもなくその強さとは、物理的な力や知力などを指しているわけではない。それは存在の強度だ。ただ在るように在ること。

ただ在るように在ること。そうであるのなら、そこに不思議はないということだ。すべては曝けだされている。在りのままが、ぼくらの前で剥きだしになっている。けれども、やはりそこには不思議がある。何も隠されていないにも関わらず、そこには不思議がある。つまり、存在することにはそれ自体で不思議が在る、ということなのだろう。

存在することは、不思議で、強くて、そして美しい。そしてそれらすべてが同時的に顕れている。絵を観終わったとき、彼女がぼくに、どれがいちばん印象に残ったのかを訊く。それはいつものこと。そしてぼくが、――やっぱり絵を観ているきみが……、といいかけ、彼女に――はいはい、と流されるのもいつものこと。美術館を出れば、外はもう暗く、風が体温を奪う。ぼくは彼女と手をつなぐ。彼女の、冷たいけれど暖かい手。

それは、そこに、確かに存在している。

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